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どうしようもない人間など、いない〜「遺伝子は、格差を生む」〜遺伝子の優劣に対する違和感


「優秀な遺伝子」が、生まれる前から決まっているからどうしても、格差が生じる。

「だから、負け組は、負け組だ」という論調を、最近よく聞く。

果たして本当にそうだろうか?
そう言う本では、「数学」など、お金になる才能を持っていなくては、勝ち組にならないというような論旨だ。

また、「日本語を理解できない人が、3分の1もいる」、とか言って、あおる。そういう「才能のない人は、どうしようもない」とか。「大学に行ける人は成功し、行けない人の格差が生まれる」とか。


大学に行っても、彼らが言うような「成功」している人よりは、「成功」していない人の方が多く思えるのだが。というか、そもそも、「成功」と言うのが良くわからない。行けない人でも、人生が豊かなら、「成功」に思うのだが。


そうして、この手の本を読むと、「全てに対して、やる気がなくなる」
自分にできることがないような、無力な気持ちにさいなまれるからだ。何より、「自分に才能があるとか、ないとか」を誰かが、証明してくれるわけでもない。


でも、こういうことを研究している教授らは、ともかくとして、「こういうことをなぜ、専門家と言えるのかわからない筆者が、書くのだろう?」と考えてみた。すると、「自分の才能がないのは、だから仕方がないんですよ」という意味に聞こえて、納得した。


あなたの「苦手」は、真実か?


私は、以前興味を持ち、遺伝子検査を受けてみたが、ほとんどの人は遺伝子検査を受けていない上で、「私は、運動が苦手」などと決める。

この段階で、これらの本を読めば、「私、運動しなくて良いんだ!」と、思うだろう。

しかし、それは本当に苦手なのだろうか?
私は、運動神経が良くないとか、内向的とか、数学が苦手とか、思っていた。その状態で、これらの本を鵜呑みにすれば、数学を勉強しないという決断をしてもおかしくはない。


ところが、私の遺伝子検査では、数学能力は「低い」ではなかったし、運動神経が悪いということもなく、「外交的」だったのだ。


私は、今まで内向的な人の本を読んでいて、「うんうん、わかる。それな」と、思っていたのにも関わらず。


そういう理由で、「●●が、向いていない」というのは、誤りだと思った。
それに、もし、遺伝子検査で、「平均より低い」という結果が出たとしても、「100%無理」という意味ではないだろう。


どうしようもない人間、なんていない


そしてもう一点、この論に疑問がある。
そもそも「どうしようもない人間」は、いないのではないか?ということ。


数学とか、運動能力など目に見える能力が、人より低いとしても、「みかんの白い繊維を綺麗に剥ける」とか、「卵を、うまく割れる」「賞味期限を切らさずに、食材を使い切れる」「値段を当てるのが、上手い」など、人が気がつかないような才能は、誰しも持っているのではないか?ということだ。



例えば、みかんを綺麗に剥ける、のような能力は、「だから、何なの?」と言われてしまうかもしれない。でも、ある人にとっては、とてつもなく羨ましい能力なのではないか?、と。


そういう意味で、私は「才能がない人には、救いようもない世の中」だとは、思えない。
もちろん、そういう才能は今のところ、お金にはならない可能性は高い。


そこまで考えると、「遺伝子の優秀さ」を重視することには、「お金を稼ぐことが、大事」という、意味が入っているように感じた。


しかし、最近は「優秀な能力」に関する価値観も、大昔と比べて変わってきているだろう。

テレビやネットが出てきてから「喋る能力」ならびに、「自己プロデュース能力」は、重要視されている。大昔なら、「戦う能力」や、「子孫を残す能力」が必要だったはずだ。


ただ、今後は、何が大切な「能力」になるのかわわからないのだ。もしかしたら、「大学」に行くような賢さは、いらなくなるかもしれない。
退屈な時代が来るなら、「暇に慣れる」能力が必要かもしれない。


また、国によっては、「権力者に、逆らわない」能力が大切だったりして、「必要な能力」は、違うようだ。それが良いことかは、別として。


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