見出し画像

取捨選択/オードリータンさんに思う「理想の世界」と、メディアへの違和感

毎日、まるで負債かのようにYouTubeの「後で見るリスト」に、動画が溜まる。今まで投稿されたものに加えて、ほぼ毎日のように何かしらが溜まっていく。その数、500。3ヶ月くらいで見たいな、と1日で見る量を計算するけれど、また見たい動画が溜まっていく。



ドラマ。テレビドラマもあるし、アニメもある。もちろん、昔の名作もあって、サブスクで見ると、膨大な量が広がっている。こんなに見切れないよ、どれがいい作品なんだ?キリがない。



長めのバラエティを見ていれば、残り10分という変なタイミングで、なぜかニュースが入る。テレビは一日中、バラエティか、ニュース。特にニュースはそこらじゅうでやっている。でも本当にnewなのは、ネットだ、とわかっている。


トレンドランキングについて

2021年のトレンド●●特集。マリトッツオが入っていたけれど、今になってコンビニで販売している。ネットの流行が早すぎて、開発が追いつかないのだろうか。


そういえば、マリトッツオにしろ、最近たくさんできているからあげ専門店にしろ、店員が作りやすいものが流行っている印象だ。だからか、意外と簡単に家でもできる。わざわざ買わなくても作れる、という謎現象が起きている。もちろん冷凍餃子事件(?)みたいに、手抜きしている、なんて言う奴は論外だ。私はそう言うことを言いたいわけではない。



本屋にも、膨大な本があって、まだやれると成功者になれる、アピールをしてくる。でも、テレビなどでは、いわゆる「成功した」芸人たちが、テレビに出ていても比べてしまって辛いと言っている。成功しても、しなくで辛い…それが人間というやつなのだろうか。


そういえば、韓非子は目立ったために殺された。良い大学に行くことは、時に人に恨みを買う可能性がある。先日とある動画で有名人が「お金持ちをいいこととするけど、別に貧乏でも楽しい人がいるのに、可哀想という扱いって良くない。貧乏でもいいし、お金を配ったりしなくても…資本主義なんだし」みたいなことを言っていたことがなんとなく、違和感として残っている。


平均とは、なにか?


私たちは自分が「平均」だと思い込みすぎる。いわゆる中流だと思ってはいないだろうか?その人も自分が平均的と思っているから、貧乏は大したことがないと思っているように感じたのだ。全く見てもいないのに、そんなことがわかるはずはない。

動画をなるべく素早く、消費していくけれど、目がしばしばしてくる。スマホの普及で近い将来、人類の近眼が進んで大変なことになりそうだな、と目が疲れるたびに強く実感する。


ただ、スマホのやりすぎに気をつけてなんて、あまり言われないし、言われても、「節度をもって、自分でコントロールしてください」と突き放される。子供であってもだ。そこには冷淡なのに、変なことには干渉する親もいる。

オードリータンさんと、マスメディア

最近、オードリータンさんの考え方が素敵だなぁと思っている。みんなが意見を出し合って、良い未来をということ。だからか、本も売れているし、メディアでもよく取り上げられている。


でも、日本のインタビュアーの方の質問が、恥ずかしい。「(昔の)日本は、成長していましたか?」、「日本の好きな●●は?」など。成長していないとは答えられない、ほぼイエスしか言えない質問や、どうでもいい話。



将棋の藤井聡太さんや、テニスの大坂なおみさんにも、なんで食べ物のことを聞くのだろう?もしかして他の国でも聞いている普通のことなのだろうか?


私たちは、天才が欲しいらしい


「日本は、変わることができないですか」という、投げすぎで、「そんなことはないよ」と言わせたいだけの質問。それと、「天才でIQ180だそうですね」という話。これを聞いているのは、日本だけではないのかも知れないけれど、「そんなことないですよ」という、答えを欲しがっているし、台本を想定した話だ。



みんなで知恵を出し合いたいという発想なのに、天才ですねと持ち上げるのは、オードリータンさんの考え方から逸脱している。だれかがすごいというのをやめたいのに、それでもメディアは「偉人」を作って、やっぱり彼ら彼女らは違いますねー、と言わせたいのだろうか。そして、自分たちは、凡人だから無理です、と安心したいのか。


日本で「天才」が産まれたら…


タンさんは、小学校の頃から賢くて、算数の授業を免除されていたそうだけれど、日本でもそんな「天才」が来たら、おんなじような対応をできるのか、という不安がある。普通からはみ出しているからと弾いたり、先生が「自分より優れているから」と嫉妬して、内申書に変なことを書いたりしてしまうような気もする。


芸能界、特に芸人の世界が狭いのか、たしかにその世界の人の話は面白いし、話術も上手くて、尊敬するが、「上下関係」や「特殊なしがらみ」に頭を持っていかれすぎていて、本当に大事なことを忘れているような気がする。今更「一年先輩だから」とか、「いや、九月に応募したから私の方が先輩だから」とか、本当にどうだっていい。自分から遠い世界の人の話を聞きたい。



私たちは思っている以上に、考えが狭いと感じる。だから、タンさんのような思想には憧れる。


「嫉妬」を、手放すこと


でもそれは、私よりも仕事ができない人が、私よりもいい給料を貰い、いい恋人がいて、楽しそうであっても、嫉妬しないということだ。そもそも、仕事ができるという格付けも、勝手にすべきではないのかもしれない。たしかに、ライバルと思わなければ、これまでの歴史を振り返っても、私たちはより良く生きて行けたかも知れない。


マクベスは、友人を疑わなければ、殺していなかったわけだ。これからの時代は協力する必要がある。でも、まだ世界では「こいつ、俺より儲けてますねん」みたいな、小さなバトルが繰り広げられている。全員の意見を聞くことは難しいかもしれない。でも、今まで聞こえてこなかった声があるし、そういう意見を言っても叩かれないような世の中が来ることを望んでいる。


言葉への違和感


余談だが、タンさんはトランスジェンダーである。でも、ネットなどの記事では「彼女は」と、便宜上書かれている。彼と、彼女以外の呼び方が欲しい。

先日、同窓会のつどいみたいなパンフレットで、「田中(旧姓 高橋)」と書かれていた。別に結婚しているかを伝えたくなくても、こういう風に書いてしまったら、伝わってしまう。

結婚した時の「主人」という言葉も、平等な感じがしなくてあまり良くない響きがするし、「嫁」という字も、なぜ女が家にいるのだろう?と思う。婦人の「婦」は、箒をはいている女性らしい。


サポートありがとうございます。 なるべく間を空けずに、記事を更新します。 頂いた金額は、本代に使用して、教養を深めます。 それを記事に還元出来るように、精進して参ります。