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今日の数学、視聴覚室で映画らしいよ

黒いカーテンで閉めきられた視聴覚室で観る映画が好きだった。学期末に授業時間を余らせて、2クラスくらい合同で観るやつ。あの時間は学生にとって必要な時間だな、と思う。必要で、特別なのだけれど、きっと大人になったら忘れていってしまう。それで良いし、それが良いのだと思う。でもやっぱり学校の先生がセレクトする映画はちょっと変わってて、よく分からなかった。よく分からなかったけど、なんだか目が離せなくて、隣でマフラーを枕にして眠っている友達の寝顔をムービーに残しつつ夢中で観ていた。ついさっきまで、「朝から映画でラッキーだね」「そうだね」「眠いねー、あとねー今辛味チキン食べたい気分」「分かる、今日学校終わったらサイゼ行こ」「大賛成、あの子らも誘お」、なんて話していたのが嘘みたいによく眠っている。高校3年の終わりにもそういう機会があった。「アインシュタインと並ぶ無限の天才」と称されたインドの数学者の話。自分だったら多分きっと手に取らなかったであろう映画だった。でもなんか段々と引き込まれていって、じっと観ていた。暖房がちょっと効きすぎていて、黒いカーテンから時折差し込んでくる陽の光が暖かかった。映画はポップコーンを食べない派なので、何かを口にしないことは別に苦ではなかった。いや、別に食べたくないわけではないのだけど、観ることに集中してしまうといかんせん手が動かなくて。エンドロールで大急ぎで口に詰め込むより、家でゆっくり食べたい。好きだから。

卒業して半年、なんて信じられないな。大学に入ってからは、講義中大講堂の下の席の人がパソコンで映画を観ている光景が当たり前で、ゲームをしている人も、レポートを一生懸命書いている人も、堂々と眠っている人もいる。その環境に慣れてしまったことが、少しだけ、寂しい。

全体の1割にも満たないくらいの人しか真面目に聞いていない講義がある。席に座る私が見てもそう思うのだから、こちらの正面に立って講義をする教授も当然気づいているのだろう、と思う。気づいているだろうに、その教授は毎回凝った資料を作ってくる。こちらを見ながら、注意することも、声色を変えることもなく、淡々と話し続ける。なんだか心苦しくなって、首が折れた状態の友達を横目に、前を向いて講義を聞く。いささか難しくて、頭がボーッとしてしまう。姿勢は変わらぬまま、教授の声だけが遠のいていく。この教授はもしかしたらもう我々学生には関心がゼロで、諦めからくる何かが原動力となっているのかもしれないな、なんて考える。それってなんだか凄く寂しい。寂しいな。できることなら、高校の視聴覚室でよく分からない映画を一生観ていたかった。でもどうやらそれは不可能らしいので、気持ちは視聴覚室に居続けたいと思う。今日もそれを強く、強く願う。エンドロールはまだずっと先の、4分の1の世界で。

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