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【良記事紹介】「手を貸して」と言われてから貸せばいい

岸田さんの記事。今回のもめちゃくちゃおもしろかった。笑えるのに、がっつり読後に考えさせられる文章を書けるのほんとすごい。


とくにこの部分が刺さった。

社長は喜んで、彼に宛ててつづられた文章を、ちょっとええ声で読み始めた。なるほど、彼が借りたいと思うときに、わたしたちは貸せばいい。ただ、それだけでいいのだ。

おお……そう。これ……これなんよ……

最近「人を助ける」とか「贈与」とか「利他」みたいなことについてあれこれと、理屈っぽく考えることが多くて。

「相手が本当に喜んでくれてなきゃ、それはほんとうの意味で相手のためになってないのではないか?」とか、

「いやいや、相手がいやな気持になろうとも、それによって自分が嫌われようとも、相手にとって必要なアドバイスをすること。それこそが真に相手を思った行動なのでは?」とか考えてた。

こういった疑問にようやく結論がでた。


彼が借りたいと思うときに、わたしたちは貸せばいい。ただ、それだけでいいのだ。


人を助けるとは、相手に求められたときに力を貸すということ。それだけでいいのだ。


助けたい相手を、自分で選ぼうとしてしまうことがある。

自分から率先して、頼まれてもいないのに手を貸そうとしてしまうことがある。

それがだめってことではないのだけれど、それは相手のためではなく、あくまで自分が気持ちよくなりたいがための行為だということは、重々承知しておく必要がある。

人を助けるとは、いいねを沢山もらうことではない。感謝の言葉をたくさんもらうことではない。

いつでも依頼に応えられるよう、準備をしておくということだ。

それはカンタンなようでいて難しい。我々はたいてい、依頼よりも自分のことを優先してしまう。

「今忙しい」
「今そんな気分じゃない」
「やりたいことではない」

人に「手を貸して」と言われているのにそれを断り、「もっと感謝されたい」と悩む。もっと助けがいのある人を助けたいと思ってしてしまう。自分のやり方で、自分のペースで助けたいと思ってしまう。

福祉や医療に携わっておられる方々はいつもこの葛藤を抱えているというお話を聴いたことがある。助けてほしいといわれ、助けようとしているのに罵声を浴びせられることもある。

それでも彼らは人を選ばない。助けてといわれたら手を貸す。助けてと言われた順に手を貸す。

「お客さんが店を選べるように、店も客を選ぶべきだ」

それもたしかにそのとおりだと思う。商売だって人間関係だ。敬意のない、攻撃的なコミュニケーションに対して、我々は距離をおく権利がある。

しかし「人を助ける」ことを自分の生業として生きるならば、自分の気分や自分との相性などというものを気にするよりも何よりも、先ず「手を貸してほしい」という依頼に即、応えられる準備がいつでも整っている人間でありたい、と最近強く思うのだ。

読みたい本がたくさんあります。