見出し画像

好きなことを好きなままでいるための技術

好きなことが好きじゃなくなっていくのは、好きなことをしているときに他のことを考えているからだ。好きなことを好きなままでいたいなら、目の前のことに没頭しなければならない。そのためのトレーニングを日々、怠ってはならない。

小さい頃はたぶん、紙の上をクレヨンがなめらかに滑る手触りとか、鮮やかな赤い線が突然あらわれる驚きとか、そういうのがただただ心地よくて手を動かしていた。夢中で絵を描き続ける子供のように仕事がしたい。でも僕ら大人は、手を動かしながら色々なことを考えなくちゃならない。

「自分のやってることって意味あるのかな」
「この文章おもしろいのかな」
「こんなに頑張ってつくったのにまたがっかりされたらやだな」

不安にまみれた自己保身の思考が頭をよぎる。絶え間なく入る茶々が、好きとか楽しいという感覚を奪っていく。僕らは、手を動かしているさなかに聞こえてくるノイズにもっと自覚的にならなければならない。

「自分の好きなことってなんだろう」と考え、色々試すことは必要だ。でも何かをしているときに頭のなかに流れてくる「これって必要?」「本当に楽しい?」といった囁きを放置したままでいると、せっかく新しく始めたことも、いずれはその楽しさを奪われてしまうかもしれない。

そもそも「楽しめているだろうか」という問いかけですら、手を動かしているまさにその最中にはどうでもいいことだ。僕らは楽しさの強度で体験の価値をはかろうとする。でも今より若いころの興奮には「初回ボーナス」「興奮を支える心臓や胃腸の強さ」そして「思い出補正」のバフまでかかっている。人間の身体のつくりとして、過去に味わった以上の興奮を味わうことはできない。

それでも昔の自分には感じ取れなかったものを、いまの自分は少しずつ感じられるようになってきていると思う。それは肉体やエゴの快楽ではない、もっと精神に関わるものだ。

この精神の高揚を感じ取るためには、むしろ身体の興奮や、思考や、計らいはいずれも邪魔になる。僕らは深く静かに、行為そのものに没頭しなければならない。

好きではじめたことだろうと、めんどくさいと思いながらも引き受けた仕事だろうと、ノイズを止めて目の前の作業のために手や頭を動かすことだけに没頭し続けられると、だんだんと好きとか楽しいとかですらどうでも良くなってくる。そのとき僕らは、楽しめているかどうかといった肉体の快楽や、結果がでるかどうかとかといったエゴの快楽とは関わりのない次元で動くことができている。

このレイヤーでものを考え、判断ができるようになっていきたいのだ。



読みたい本がたくさんあります。