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「やればできる」という呪い

誰かに読んでもらう文章は、解決策を提示しなければいけないと思っていた。内容がネガティブなときには特に、最後に救いがなければ、誰かに読んでもらう価値がないと思っていた。

でも最近、小説をよく読むようになって、世の中には最初から最後までモヤモヤさせるだけで救いも答えも提示してくれない文章がたくさんあると知った。

そういう文章を読んだあとは得てして、新しいモヤモヤを抱えてしまったなぁ、と軽く後悔しながらも、不思議と心の総重量は少し軽くなったような感じがする。

ぼくもそういう文章が書きたいと思うようになってきた。解決策や落としどころが見つからないモヤモヤも、たまにはそのまま書いて、そのままインターネットに置かせてもらおうと思った。

今日はそんな気分で書いた文章だ。


ぼくらはいつだって、いま何をしなくちゃいけないのかなんてわかっている。

それは転職するための準備を始めることかもしれない。
離婚のための準備かもしれない。
ラブレターを書き始めることかもしれない。
病院に行く日を決めることかもしれない。
テキストエディタをひらくことかもしれない。
ペンをもつことかもしれない。

でも、何をしなくちゃいけないか、わかっていても始められない。

「まずは」と僕らは考えはじめる。

「これをする前に、まずはやらなきゃいけないことがあって」

と考えはじめる。いつもそうだ。毎日そうだ。やらなきゃいけないことはわかっている。でも

「今日はさすがにむずかしい」
「他にやることが多すぎる」
「余裕がなさすぎる」
「コンディションがわるすぎる」

いくらでも言い訳を思いつく。それが言い訳だということも本当はわかっている。
やりたくないだけ。勇気がでないだけ。それをやることを少しでも先延ばしにしたいだけなのだ。

『とにかく取り掛かってしまえばいいんだよ。始めてさえしまえば、自然と最後までやってしまうものだよ、人間というのは。作業興奮といってね……』

そんな説明はもう聞き飽きたし読み飽きたし、書き飽きた。

作業興奮とやらで終えられるようなタスクをいくらこなしたって、自分が辿り着きたいところには辿りつけなかった。本当にやらなきゃいけないことは、ライフハックだのタスク管理だのでは終わらせることができなかった。本をいくら読んでも無駄だった。「本を読む」という行為そのものが逃避になってしまうからだ。「毎日コツコツと」続けても無駄だった。習慣は惰性となり、惰性が時間割を埋める。そして「時間がない」という言い訳に逃げる口実になってしまう。


自信がないからとりかかれない。

「最近、全然つくっていないから、良いものをつくれる自信がない。だからやるにしても、まずはちょっと肩慣らしにカンタンに何かをつくってからにしたいんだ。慣らしが済んでから取り組みたい。やるからには、ちゃんとしたものをつくりたいからさ。でも、その「肩慣らし」をする時間が最近なくってさぁ……」

「自信がないときの自分からは、なんだか負のオーラが出ているような気がする。ちょっと忙しくてつかれちゃっててさ、まあ、少し休めばいい感じに戻れるとは思うんだけど、でもこんな雰囲気のままであなたのことを手伝うと、なんだかあなたにまでこのオーラを感染させてしまいそうで、それがこわくてさ……」

がっかりされてしまうのが怖い。今の自分は本調子じゃないから、そんな自分がつくった何かをみて「こんなもんか」って思われるのが怖い。

でも本当は、本調子であったことなんていままで一度もないのだ。

こういうことをいくら分析して言葉にしてみても、勇気が湧いてくるわけでもないし、気力がわいてくるわけでもない。こうしてダラダラと考えをこねくりまわしてわかった気になろうとしているこの時間そのものが逃避だ。ああ、タイピングの音がきもちいい。

ぼくらは「できない」ことには苦しまない。「できるはずなのにできない」ことに苦しむ。痛みは我慢できるけど、痒みは我慢できない。痒みは「掻きむしることで病状の悪化と引き換えに、苦しみからの一時的解放と強烈な快感を得られる」という選択肢とつねに隣り合わせだからだ。

「やればできる」は呪いだ。やればできるはずなのに、これまでずっとやらなかったということは、それは「できないこと」なのだ。

「できない」とあきらめてからようやく「だったら何ができるのか」を考え始めることができるのだろう。

CM

7/10 追記
思いのほかたくさんの人に読んでもらえて嬉しいです。
最近は相方のクッキー缶づくりを手伝っています。彼女の仕事への向き合い方が僕にとっては憧れで、その良さをなんとか言語化したいと思って観察しているけど、言葉にするのが難しい……。
クッキーはとてもかわいいのでぜひのぞいてみてください。

読みたい本がたくさんあります。