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「意識の懐中電灯」を持った小人を一人でも味方につける

気が散りそうになったとき、僕は髪を触ってしまう。

この「髪をさわる」という体癖をやめることに努力のフォーカスをあててもあまり意味がないということがわかってきた。

髪に手が伸びている時点で、もうすでに、意識はついさっきまで考えていたことから半分くらいは離れてしまっている。

意識は懐中電灯の束だと想像してみてほしい。10人くらいの懐中電灯を持った人が真っ暗闇の中にいる。

小さな物音がしたとき、いっせいに10人全員が懐中電灯を音がした方に向ける。10個の光の筋が闇に映し出したのは小さなネズミだった。ネズミが苦手な2,3人は悲鳴を上げて引き続きライトを当てつづける。5,6人は興味をなくして別の方向へとライトを向ける。これが意識だ。あるいは集中力、と言い換えたほうがわかりやすいかもしれない。

目的の方向に進むためには10人が同じ方向にライトを向けるのが望ましい。しかし10人は興味関心がバラバラで、2,3人くらいは前に進もうとしているのに、ある人は左右をチラチラと眺め、一人はうしろをずっと照らしていたりする。

この散り散りになっているライトをひとつの目的に束ねることができたとき、「集中力が高い」状態になる。

文章を書いているとノッてきて、10人がこれから書こうとしている話題の方向にライトを向けてくれるときもある。でもたいていは、文章を書き切る方向に興味を示してくれているのは3,4人くらいで、のこりの2,3人は気分に応じて見たり見なかったり、残りの2,3人はほとんどこっちに興味を示してくれない。

タイピングする手がキーボードから離れたとき、すでに半分以上の意識が目の前の文章から興味をなくしている。別の興味関心を探しはじめる。

このとき、意識が離れようとしている瞬間に、ひとつかふたつの意識だけでも目の前のタスクに留める努力をするのだ。文章を書き続ける手が止まっても、その先を考えようとする意識をとどめ置く。ほとんどの意識は髪を触ろうとしたり別のことを考え始めたりお腹が空いたとかトイレ行きたいとか休みたいとか言い出す。それはそれでしょうがない。しかし必ず真面目な意識が一人くらいはいて、かれはそのタスクの続きをやりたいと思っているのだ。その彼がやろうとしていることに、意識をできるだけ残す努力をする。

うまくいくと散り散りになりそうになった意識たちがもう一度戻ってきてくれる。もう一度タイピングの手が動き始める。

これは腕立て伏せをしているときに、そろそろきついと感じ始めた9回目に「あと1回!」とあきらめようとする自分を引き止める感じとにている。それよりもっと瞬間的で微弱なものだが、それでも逃げようとする意識をとどめ置くという意識のはたらきは、僕のなかの何かを鍛えてくれている感じがある。


CM

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