科学と聖書にまつわる随想(17)
「アナログとデジタル(その2)」
私たちの身の回りの自然界の物理量は基本的に“アナログ量”、つまり、連続的にどんな値でもとり得る量、と考えてよいでしょう。しかし、細かい目で見ると、実はそうでもないことが分かります。
例えば、物の重さ(質量)について考えてみましょう。話を簡単にするために均一な材質(例えば、鉄)としましょう。鉄の塊の質量は、どんな大きさにも調節できるように思いますが、鉄は原子番号26番の鉄の原子が集まってできてますので、原子は一つ二つと数えられるものである以上、質量数の異なる同位体の存在については話の外に置いておけば、鉄の塊の質量は鉄原子1個の質量の整数倍の値しかとることができません。0.1個の鉄原子というのはありませんから。つまり、飛び飛びの値しかとることができません。決して連続的ではないのです。
同様に、水も連続的に流れるように思えますが、水分子が集まってできている以上、水分子1個、2個と数えることが原理的には可能なはずです。導線を流れる電流にしても、電子の電荷量(電気素量、または、素電荷)より小さい電気量の単位はありませんから、その整数倍の区切りが必ず存在することになります。
つまり、私たちの身の回りの世界は“アナログ”の世界のように見えますが、実は“デジタル”(不連続)の世界なのだ、と言うこともできるのです。ただ、1つ1つの単位が非常に細かいので、普通に見たら連続的に見えるというだけの話です。今、読者のみなさんがご覧になってるパソコンやスマホの画面も、細かく見れば画素の集まりでできていますし、考えてみれば、私たちの体も細胞という単位からできています。
マックス・プランクが“エネルギー量子”を着想したもの、こういうところから来ているのだと思います。原子や分子レベルの寸法の世界では、私たちの身の回りの常識的な感覚が通用しない、量子力学で解釈される不思議な世界になる訳です。ですから、私たちは、自らの常識や既成概念に縛られずに、よくよく謙遜になって客観的で柔軟な思考をするように心掛けて、一方的な視点に陥っていないか、固定観念に足を引っ張られていないか、ということを俯瞰して自己点検する姿勢が必要だと改めて思わされます。
私たちの住む世界とは異なる世界というと、例えば、反粒子や反物質といわれるものの存在も、とても直観では理解し難いものだと思います。とにかく、私たちは井の中の底に住む蛙であって、底から見上げて見える小さな空から地上の周囲の世界を想像することしかできません。底からは決して見えない領域については、誰も決定的・確信的な事を言うことはできないのです。科学者にできることは、底から見えるその小さな空をよく観察して考察することだけです。
私たちの住む世界とは異なる世界の代表として、“霊の世界”というと非科学的のように聞こえるかも知れませんが、イエス・キリストはこう言われました。
また、パウロもその手紙にこう記しています。
ところで、A/D変換は、私たちの住む世界のレベルで、“アナログ量”の大きさ(実際には、全て電圧に置き換える必要があります)を飛び飛びの段階のどれかに当てはめて“量子化”することで、何番目の段階に相当する大きさかということを数値で表す、という操作をすることになる訳ですが、具体的にそれを実現する方法にはいろいろあります。
代表的な方法は、“積分型”と“比較型”に大別することができます。
“積分型”の基本的な考え方は、電圧を時間で積分(時間をかけて蓄積)することで、電圧の大きさを時間の長さ(あるいはその逆数である周波数)に焼き直し、それをカウントすることで数値化するというものです。言わば、金額がいくらかを知るのに、一定額ずつ貯めて行って、そこまで貯まるのにどれくらい時間がかかるかで調べるようなものです。
“比較型”の中で、直接的で一番分かりやすいのは“並列比較型”でしょう。当てはめるべき飛び飛びの段階の各段階の大きさの電圧(n番目の電圧をVn (n=0, 1, 2, …..)としましょう)を用意しておいて、知りたい電圧(Vxとしましょう)と全てのVnとを一斉に比較します。そうすると、あるnの値の段階まではVxの方が勝っていますが、あるnの値から先はVnの方が大きい、というところが見つかるはずです。その境目になるnを特定して、それを2進数の数値に直すのです。この操作自体は電子回路で実現できますので電気信号が回路内を伝わるスピードで変換作業が行われ、特にこの方法は変換に高速性が要求されるところで用いられます。ただ、回路が複雑になるので、あまり細かく分けることはできない欠点があります。
もう一つ、最もポピュラーなのが“逐次比較型”と呼ばれるタイプです。逐次比較型A/D変換の原理は、上皿天秤で質量を測定する手順と同じです。ただ、一般の天秤と違って、用意する分銅を1g,2g,4g,8g,16g,32g,64g,128g,256g,.....というように、2のべき乗の重みの並びにしておきます。質量を知りたいものを左の皿に載せて、右の皿に、先ず一番重たい分銅を載せて比較します。足らなければ、その分銅はそのままにし、重すぎたのであれば、一旦それは降ろします。そして次の重さの分銅を載せてみて、同じように、まだ足らなければそれはそのまま、行き過ぎていたらそれを降ろす、という作業を一番軽い1gの分銅まで繰り返します。1gの分銅を載せておくか降ろすかが決まった段階で、右の皿にどの分銅が載っているかが、質量を2進数で表した時に対応する桁が1か0かを表していることになります。これと同じ操作を電圧で行うのが逐次比較型A/D変換器です。
A/D変換において重要なこととして、一つは、必ず“基準電圧”が必要、ということです。質量の基準として“国際キログラム原器”というのがあるように、電圧を測定するにも、1Vの大きさがどれほどか、ということをA/D変換器に教えてやる必要があります。
もう一つは、比較型の場合はもちろんですが、積分型にしても、必ずどこかに“比較”という操作が入っているということです。一定額ずつ貯めて行って目標の額に達したかどうかを判別するには、現在額と目標額とを比較することが必要です。
(16)に記載したぶどう園の譬え話で、天の御国に入るかどうかは、私たちの住むアナログの世界から、0か1かのデジタルの世界にA/D変換されることに対応しますが、その際の“基準電圧”はイエス・キリストです。そして“比較”の操作をする主体もイエス・キリストです。
人の子とは、イエス・キリストのことです。