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『悪は存在しない』 根本的にドキュメンタリーのよう


story

山奥の小さな集落で暮らす寡黙な男 巧(大美賀均)とその娘 花(西川玲)。自然の中で何でも屋として慎ましい生活を送っている。そんな集落に東京からグランピング場建設計画の話が舞い込んでくる。既に建設時期も決定しているこの計画の説明会のため東京から高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)がやって来るが、説明会は住人たちの反発によって紛糾してしまう。そして高橋と黛はそのグランピング場の管理人を巧にお願いできないか頼みにくる。


review

文責=1世
おすすめ度 ★★★★☆

見終わって、しばらく戸惑った。ただ、この戸惑いは良い戸惑いだ。

濱口竜介監督がこの作品を通して何を伝えようとしているのか、そしてあの結末が何を意味しているのか。そういう疑問が分からなくて「戸惑う」訳ではなく、それを整理しきれないがゆえに「戸惑う」。そんな感触の作品だった。そういう意味では、淡々としていて、あくまで現実主義的なアプローチで撮られている作品にも関わらず情報量は多いのかもしれない。

この映画を見てから数日経っているものの、何がどのような意味なのか整理はまだついていない。だが、漠然とこの『悪は存在しない』はドキュメンタリーのような映画だったなと思う。

ただし、なにも自然の風景が多いから、その地域のリアルを描いているかから「ドキュメンタリーのよう」と思ったというような話ではない。「ドキュメンタリーのよう」というよりは、「ドキュメンタリー撮影のよう」な映画と言った方が正確なのかもしれない。
つまりこの映画は「その土地にカメラを向ける」ということそのものを主題にした作品に思えるのだ。

濱口のフィルモグラフィーを振り返ると、国際的にも注目された東京藝術大学大学院の修士制作『PASSION』(2008)を作った後に東日本大震災を記録するために被災地でドキュメンタリーを制作していた。濱口自身も様々な取材等でこのドキュメンタリー制作を通して得た経験がのちの劇映画の作劇にも大きな影響を与えていることを公言しており、彼の作品があえてドキュメンタリーと劇映画の境界線上に立とうとしていることは濱口竜介という作家を考える上では重要な視点となるだろう。

『悪は存在しない』も例に漏れずそういった意識の元で作られた作品ではあるのだが、前述した通りこの映画はもっと根本的にドキュメンタリー的に思える。
それは「役者の自然でありのままの演技をカメラに映す」というアプローチに加えて、ストーリーそのものが「その土地にどのようにコミットして、どうすれば受け入れてもらえるのか」ということそのものを描いているからだ。

このテーマがわかりやすく表面に現れるのは、作品の後半になってから。東京からグランピング場の建設計画について地元住人の理解を得ようとやってくる高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)が登場することでそのテーマが前面に出てくる。
彼らの推し進めるグランピング場建設計画というのも、コロナ禍の助成金目当ての名目作りというなんとも不純な動機ではあるものの、(この会社が普段は芸能事務所をしているという、この絶妙に嫌なリアリティも見事)平社員である彼らは、彼らなりに真摯に地元を知ろうと努力していく。

その過程が、ドキュメンタリー撮影のプロセスとも重なっていく。
当然のことながら、ある日その土地に行って「ドキュメンタリーを撮らせてください!」と言って映画が撮れる訳ではない。仮に強引に撮れたとしたって、そこに写るのは警戒心MAXの住人たちだけだろう。
部外者がその土地に行って、そこに住む人々のありのままをありのままを撮るためには、その土地に認めてもらい、心を開いてもらう必要がある。ドキュメンタリーの制作に莫大な時間がかかるのはそのためだ。なにも撮影が大変な訳ではなく、心を開いてもらうのが大変なのだ。

この映画はその土地に受け入れられることの困難さをしっかりと描こうとしている。言い方を選ばずに言えば、ドキュメンタリー撮影とはその土地にカメラを持ち込んで、安寧を保っていたその土地を世界に晒すわけだ。それは程度の大小こそあれ、グランピング場の建設と図式は変わらない。
その土地とそこで生きる人々に、自分たちの目的のために無理を強いる。だからこそ、その無理を強いる側は出来得る限りのケアと心遣いをする義務がある。

この図式をさらに広げれば、人間と自然の関係とも通じる。
人間が生きる以上、そこには多少なり自然破壊は発生するし、人間の生活圏を確保するために周辺の動植物を駆逐・伐採する必要も出てくる。だからこそ、人間は出来得る限りの自然保護に努める義務がある。
自然に対して、人間が生きる上で最低限必要な無理を強いるが、その無理はあくまで最低限に収める。人間の生活圏というものは、そういうバランスの上で成立をしている。

そういう視点から、あの抽象的で唐突な結末を考えてみたい。
あのシーンで描かれる、張り詰めた糸のような睨み合い。危ういバランスの上に立つ人間と自然。そしてその均衡が崩れた途端、無理強いさせられている手負いの自然は人間に対して牙を剥くだろう。
その均衡を崩したのは誰か。そこまで含めるとこの作品が描こうとした一つの側面が見えるかもしれない。

そしてドキュメンタリーの大きな特徴の一つとして「善悪の判断をしない」ということがあると思う。その被写体の一部になる以上、例えそれが外野から見れば善行や悪行に写るとしても、ありのままを受け入れてそれを見せる。その態度こそがもっともこの映画を「ドキュメンタリーのよう」と感じた理由かもしれない。その土地で生きる以上、自然も人間も善でもなければ、悪でもない。ただそのバランスを崩さないように生きるだけ、という。


悪は存在しない

監督・脚本:濱口竜介
音楽:石橋英子
出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁

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