【雑記】美しさとは

noteを始めて以来、美しさという命題に直接的であれ間接的であれ触れることが以前より増えたような気がする。様々な手法、技法を用いて美しさなるものを表現、志向した数多の作品を見てきた。ああ、そういう系だなという識別は素人なりになんとなくなされていたのだと振り返り思う。思っておきながら自分の作品にコンマ数ミリも反映されないことが面白くあり、また面白がっている場合ではないのだが、そんな中で、自分の中の美しさとはなんぞや?という問いが浮かんだ。「美しさ」その外延は何か?具体的に言えば、自分の美しさの原体験は何か?ということである。

そう思って、何PV稼げるネタかな、なんて下賤な勘定をしてみたものだが、そこで話は終わってしまった。実際に美しいと思ったものを現実世界の記憶の底から浚ってみても、小石一つ掬えなかったのである。過去に、これは美しいと心から叫んだ原体験がなかった。

他の感情はどうだろう。喜怒哀楽、これらはだいたい思い当たった。試験に合格したとき、齟齬があってコミュニケーションにヒビが入ったとき、こうして何らかの文章を書いているときなど。いや哀しみも思い当たらなった。貧しい人生だ。

美しさに話を戻すと、喜怒哀楽といった感情との相違点があるのではないかと思った。それは、感情と生理的反応がセットで紐付けられているということである。怒りは興奮をもたらし、喜び、楽しさは快の感覚や、没入や高揚をもたらす。では美しさはどうか。僕たちが美しいと思ったとき、僕たちの体はどうなってしまうのか。震えるほどの恐怖や燃えるような怒りといったフレーズはすでにありふれているが、美しさにおいては?震えるほどに美しいとは言うかもしれないが、震えるほどの怒りだって喜びだって楽しさだって描写可能だ。それはあいたくて震えると同じように逆張り的思考によって作られた珍しさを強調に転化させたレトリックではないか。つまり膾炙はしていない、オリジナルな表現を構成する交換可能なパーツの一つである。

レイヤーが違うということなのだろうか。一次的感情と二次的感情、上級感情と下級感情のような次元の層があって、超えられない隔たりがあるのだろうか。

疑問は解消されないが、なにか思い浮かぶアイデアがあれば書くかもしれない。

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