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天和

 年末年始には、出勤日と休日が斑に配置されていた。仕事以外では、特にどこにも出かけなかった。何をするということもなく、ネットで昔のアニメを繰り返し見ていた。
 アベマTVで何度も放送されていたので、ガンダム0080を特にリピートしまくった。昔のガンダムなので、物語上の時代設定は、「宇宙世紀」という架空の紀年法によって表される未来である。しかしながら、その作中で描写される未来のスペースコロニー生活の端々からは、日本の一九八〇年代っぽさが看取されてしまう。電化製品の造形、自動車のデザイン、市街地の雑音(特にゲームセンターの電子音)、そして宇宙空港のエントランスに並ぶ公衆電話! 
 これはもちろん、この作品が実際に制作されたのが、一九八〇年代の末期であることに由来している。自動車のデザインはそれでも、電気自動車っぽさを出そうと努めているが、当然のことながら、登場人物の誰一人として、タブレットもスマートフォンも持っていない。そのようなデジタルガジェットの概念すら、当時は存在しなかっただろう。
 そんなことを考えながら、昭和平成ノスタルジーに浸った。歌手の椎名恵が歌う主題歌「いつか空に届いて」は名曲で、何度聴いても全く飽きることが無かった。
 年越しには『逆襲のシャア』と『AKIRA』を見た。
 二〇二一年になった。令和三年である。人類はコロナウイルスとの闘いを継続していた。
 元日は出勤日であった。


 一月二日、暇つぶしにオンライン麻雀を打っていた。半荘戦、南場の親番の時に、事件は起きた。配牌が終わり、十四牌が手元に揃った瞬間に、画面に「リーチ」と「ツモ」の選択肢が表示される。親のダブリーチャンス……ではない。配牌時点における親の和了、天和である。
 親の役満、一六〇〇〇オールを対局者から回収する。余りにも突然のことであったため、全く何の実感も湧かない。半荘をトップで終了した後に、改めてその対局を見直し、和了時の画面をスマホで撮影した。
 四人打ち麻雀における天和は、一体どれぐらいの確率で起こるのだろうか? ネットで調べた所によると、六十五万分の一だという。通常ではまず引くことのない確率だ。ファミコンのドラクエ3に出てくる、鳥頭から直接脚が生えたあの敵が「さとりのしょ」を落とす確率よりも低く、ドラクエ2のオレンジ色の翼竜が「不思議な帽子」を落とす確率よりも遥かに低い。しかし、この日この時の天鳳において、鳳凰は確かに私の頭上に舞い降りたのだ。
 事象のみをただデジタルに祖述するならば、ただ単に、確率上起こりうる事象が、たまたまそのタイミングで起こったというだけのことだろう。麻雀牌がヤマに積まれる順序を決定する函数、メルセンヌツイスターが、宇宙が終わる時まで無限に生成し続けるという乱数の配列のある部分が、令和三年一月二日の私の目の前で、たまたまある特異な配列を取っていたというだけのことに過ぎないだろう。
 しかしながら人間の認識能力には、あらゆる事象に何らかの意味、物語性、解釈を自動的に賦与してしまう性質がある。大脳新皮質が極度に発達した生命体としての、半ば宿命のようなものである。自分は、似非科学やオカルト、各種占いに対して、かなり懐疑的な見解の持ち主であり、平均的な世俗主義者、現実主義者のつもりである。しかし、令和三年一月二日に現前したこの事象に関しては、何らかの超自然的な啓示を感じざるを得なかった。
 ……これは何者かからの警告である。六十五万分の一の幸運が、ある日突然現実化するのなら、六十五万分の一の不幸もまた、ピンポイントで突然襲いかかってくる可能性がある。そのことを再認識せよと、誰かが告げたかのように思えた。
 また、新年二日目にして、今年の幸運は全て使い果たしてしまった、運量が全て尽きたとも感じた。しかしこれも、論理的に考えればおかしな考え方であった。運や確率に、「量」「総量」といった概念はそもそも存在しない。サイコロの6の目が出た後に、もう一度サイコロを振って、次に6の目が出る確率は、どこまでも6分の1のはずだ。次に1の目が出る確率も、同様に6分の1であるのと同じように。六十五万分の一の役満を和了した次の局に、六十五万分の一の役満を和了する確率は、やはり六十五万分の一なのだ。運は蓄積も保存も譲渡も出来ない。確率は個別に独立した事象としてその都度試行されるものであって、前後に起きた出来事の影響を受けない。理屈ではそのことを理解していても、しかし、感覚の部分での居心地の悪さ、気持ち悪さは拭えない。
 「運量」のこれ以上の浪費、消耗はなんとしても避けなければなれない。自分はそう感じてしまった。ネット麻雀のみならず、全てのギャンブルを、今年の間は一切行わないこととした。また、確率の著しく低い巨大な不運に、突然遭遇する可能性を強く意識した。根拠のない危機感であり、大げさに言えば恐怖であった。不運に遭遇するとしても、絶対に取り返しのつかない事態は回避しなければならない。今年中は、絶対に飛行機に乗らないことを決意した。(元々そんな旅行の予定など、全くなかったが。)
 そしてもちろん、コロナ対策もこれまで以上に徹底することとした。年末から、感染の再拡大が連日報じられていた。誰がいつ、どのような偶然で感染してしまうか、わからない状況であると考えられた。自らの感染可能性を減らすために、誰もがあらゆる努力を払うべき局面だろう。
 昨年の夏以降、髪は伸ばしっぱなしになっていたが、散髪は当面見合わせることとした。歯の詰め物が何か所か取れていたが、歯科医も同様に、無期限延期とした。
 オンライン麻雀における最高峰の偶然役の成立は、以上のような冗長な思惟を経て、結果として、自粛生活に努める一人の従順かつ模範的な小市民の行動様式を、より厳しく徹底したものに強化した。要するに、私はより臆病になった。和了時の画像のスクリーンショットを撮り、ツイッターのヘッダーに設定し自らへの戒めとした。

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