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その二週間後

 緊急事態宣言から二週間が過ぎた。感染者も死者も増え続けていたが、一部の論者が扇動していたような破滅的な事態は避けられた。ヨーロッパのようにもアメリカのようにも、日本社会はならなかった。
 月末には手書きの交通費精算書を作成し、領収証類とともに管理部門の担当者へ発送する。月初には管理システムから前月のデータを出力し、CSV及びPDF形式のファイルを提出する。緊急事態宣言下においても、このアナログな定型業務が要求されることは、全く変わらなかった。
 連休が始まった。例年通り、シフト表に従い出勤していた。四月の間は街もまだ静かだったが、五月に入ってから、少しずつ人の姿が増えているように感じた。ウーバーイーツの配達員を、とにかく頻繁に目撃した。気温が上がった晴天の日には、直射日光がウイルスを焼き殺してくれることを祈った。
 テレビを視聴する環境がないため、志村の追悼番組も、パンデミックに関するNHKスペシャルも見られなかった。それらの番組に関する情報をネットで拾った後に、動画サイトで断片的に後から確認するだけだった。デジタルリマスターされた『未来少年コナン』の再放送が始まったことも一部の人々の間で話題となったが、同様に見ることが出来なかった。

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 マスコミに対してはほとんど関心が無い一方で、深夜に匿名掲示板を閲覧することが日課となってしまった。毎晩誰かがそこに貼付する、欧米諸国の最新の死者数を確認するためであった。体内時計は狂い、しばしばそのまま早朝出勤に向かった。
 五月九日、アメリカ合衆国におけるコロナウイルスの死者が、ついに長崎型原爆の犠牲者数を超えた。周到かつ精密に設計された生物兵器を、敵国内において適切なタイミングで発動すれば、初歩的な技術で作られた核兵器、小型核兵器を凌駕する効果を発揮しうることを、全人類が目撃した。この地球のどこかに今も潜んでいる反米テロリストもまた、この事実を認識した。自分は超能力や心霊やその他のオカルトを全く信じない人間で、当然テレパシーなどという事象も存在しないと考えている。だがこの時だけは、現生人類の一員としてこの惑星のどこかに生きている、遥か彼方のテロリストの兇悪な思念が、一瞬の間に大脳に直接流れ込んできたような気がした。自分は彼を、完全に把握できたような気がした。
 なおかつ生物兵器は「追加効果」が恐ろしい。例えば、NYやLAやワシントンDCの中心部に小型核兵器を持ち込んで爆発させれば、十万人弱ぐらいの市民を一瞬にして殺害し、アメリカ社会に恐怖を与えることになるだろう。しかし、そのことによって、一千万人のアメリカ人を失業させることは出来ないだろう。アメリカの軍需産業はかえってそのことで勢いづくのではないか? (世界最強の軍事超大国に対しては「フレア」より「バイオ」の方が効果的だった。スリップ効果が抜群だ。)(これから作成されるバトルマンガや格闘ゲームにおいて、アメリカ代表のキャラクター、もしくはアメリカ合衆国を擬人化したような選手が登場する場合、少なくない確率で「毒に弱い」「生物兵器に弱い」という属性が付与されることだろう。)
 人類社会は決定的に変わってしまった。もう元には戻らない。どこに向かうのかも、わからない。積み上げられた死者の数字を見て、改めてそう感じた。今、この瞬間において、自身の明確な目的地を認識しているのは、ウーバーイーツの配達員ぐらいではないかと思った。
 人々は皆苛立っていた。ネット上では些細なことで口論が勃発し、延々と続いた。揚げ足取り、レッテル貼りと罵倒、組織的な同義反復、相手の発言を故意に歪曲した上で集団攻撃の対象とする、藁人形論法。自らと異なる考えの人間を互いに許さず、不毛な戦いはどこまでも止まなかった。……本当の所は、娯楽を奪われて、みんな時間とエネルギーとを、持て余しているだけなのではないか? 日曜出勤の、早朝の中距離電車のボックス席で、ツイッターを眺めている時に、ようやくそのことに気がついた。
 五月十三日、職場近くのアニメイトの店頭にて『鬼滅の刃』20巻完売の告知を目撃した。発売日前だが、予約の段階で既に売り切れているため、店での販売は行わないとのことだった。ジャンプマンガでも人気の高い作品らしく、色々な所で話題となっていたが、自分はこの作品について何も知らなかった。著者の名前も読めなかった。

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 十四日、一部の地方自治体で、緊急事態宣言が解除された。それらの自治体では、連日報告される新規感染者数がゼロ、もしくはそれに近い数字を継続していた。首都圏や近畿都市圏では宣言は維持されたが、日本全体として対コロナ戦争の状況は好転し、戦いに勝利しつつあるように感じられた。
 十五日、アベノマスクが届いた。パッケージは、思ったより小さく、外観を見た限りでは、特に不衛生な点や不審な部分は見当たらない。写真をネットに上げ、開封せずに保存することにした。

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禍の噂が巡る。
晴れている。
ウーバーイーツがまた駆け抜ける。

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