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一月の鯨

 冬の夕方に、高架上を走る中央線東京行きの車窓から南の空を眺めると、多摩丘陵の辺りに素晴らしく絵画的な姿の雲を見つける。小魚の群れを呑み込もうとする、大鯨そのものに見える。この車両の進行方向と同じ、東に向かって大きな口を開けている。

 撮影しようとスマホを構えるが、このような時に限って不具合が発生する。再起動を行っている間に雲は刻々とその形状を変えてしまい、車両は武蔵境まで進む。西武多摩川線の駅舎に視界は遮られ、最良のシャッターチャンスを逃す。発車後の武蔵境~三鷹間にて撮影できたのは、理想の形からはかなり崩れた、かろうじて顎っぽく見える部分が残っている程度の雲に過ぎなかった。

 

*

 

僕だけが見ていた鯨が一月の空のどこかに沈んでいった

 

僕にしか見えない鯨は茜色だけを残してどこにも居ない

 

モンスターボール

マスターボールでも

捕らえられない位相の存在

 

多摩に吹く風よ鎮まれ

玄冬の鯨の姿しばしとどめん

 

*

 

 大分以前に遊んでいた、ポケモンGOをふと思い出した。リリースされて、まだ間もない時期のポケモンGOで、カモネギ辺りのレアポケモンを捕獲しようとして逃げられた時と、同じ経験を再び味わったと思った。

 二〇一〇年代の後半から、スマホを用いたARゲーム、拡張現実ゲームが広く遊ばれるようになった。先鞭をつけたのは世界的なブームになったポケモンGOであり、次いで日本ではドラクエウォークがメジャーとなった。それ以外にも、駅メモや、各自治体や商店街、観光地が独自に展開しているARイベントが多数存在しているだろう。いずれも、位置情報に紐づけされたキャラクターを、携帯端末によって捕捉、認識するシステムだ。

 当然ながら、ARゲームを遊ぶには、それぞれに対応したアプリを自らの端末にダウンロードし、インストールしておく必要がある。ある場所に存在するピカチュウに遭うにはポケモンGOを、メタルスライムを撮影するにはドラクエウォークのアプリを、自身のスマホ上に常駐させておかなければならない。スマホ及び、対応するARゲームのアプリを保持している者にとってのみ、それらのキャラクターは存在し、可視化される。それ以外の者にとっては、最初から存在していない。

 

 この冬の夕刻において、多摩丘陵上空に私が見出した大鯨は、拡張現実上のキャラクターの一種と見なすことができるだろうか?

 

 おそらくは出来ないだろう。その鯨は、どこまでも私的で、誰とも共有されることのないイメージの展開に過ぎないからだ。拡張されていないイメージは、拡張現実の定義に当てはまらない。

 

 拡張現実が、現実に等しい経験や感動を人間に与えることが可能だとしたら、現実の側もまた、拡張現実に等しい体験を与えうると言えるのではないか?

 

 狭義のAR、拡張現実を認識するためには、スマホや電脳メガネが必要だが、現実を拡張するために必ずしもそれらの技術的デバイスが必要とされるわけではない。

 ARゲームのキャラクターを可視化させるデバイスは、対応するアプリを起動させたスマートフォンだが、多摩丘陵上空の鯨を可視化させるデバイスは、十年以上使い続けている、私物のメガネだ。(電脳メガネでもスマートグラスでも何でもない。シルエットというブランドのオーストリア産のメガネだ)

 

 現実を拡張する能力自体は、私たち一人一人の大脳新皮質及び眼球に、予めインストールされている。

 電力は消費しない。

 そして、個人の想像力が紡いだ固有のイメージは、他者と直接共有できない。 

 

 現代思想家の指摘する所によれば、人間は、他の人間が欲望の対象とする物を、自らの欲望の対象とするのだそうだ。欲望の目的は、人間社会の中で他者と自身とを差異化し、他者との競争に勝利して自らを優越化することにあるからだと言う。この分析に従うと、欲望とは、人間に内在するものではなく、他者との関係性によって社会的に規定されてしまったものとなる。

 だとしたら、ある人間のオリジナリティは、どのようにして確保出来るのだろう?

 拡張現実について色々と思考を巡らせているうちに、現代社会に生きる人間の想像もまた、他者によって規定されているのだろうかと、疑問を抱くようになった。ARゲームのキャラクターは、キャラクターデザイナーが描いた表象だ。そのイメージはプレイヤー相互の間で共有されるが、根本的にデザイナー個人の才能、想像力を超えることはない。想像の世界を他者と共有することが、良いことなのか悪いことなのか、分からない。

 一人の人間は、自身の想像力を根拠にして、自らの固有性を確認できるだろうか? 

 

 私的な想像は他者と共有されることはない、もしくは、共有することは非常に難しい。しかし、そうであるが故に、何者からも制約を受けず、普遍であり永遠であり、無限であると言えないだろうか。そのような、ある種の転倒の中に、その存在意義を見出すことができないだろうか。(そう思いたい)。

 視覚情報と技術とが遍在、飽和する現在の環境において、詩的な想像力、あるいは人文的な想像力というのは、極めて非力である。それを保持し続けること、適切なタイミングで起動させることが、一つの能力であり、技術になるだろう。

 

 

 未回答の問

 1.きつねの窓は、拡張現実を捕捉するための、デバイスの一種と言えるだろうか?

 

 2.星座は拡張現実の一種と言えるだろうか?

 

類似した問題

 1.米軍は、毎年12月24日の深夜、その防空監視網によって、北米大陸上空にサンタクロースの姿を捕捉したと発表する。これは拡張現実の一種であるのか、それとも私的な想像力が極めて多くの人間によって共有されている事例と見なすべきか。

 

 2.幽霊は拡張現実だろうか?

 


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