百合子再び

 緊急事態宣言が解除され、東京都知事選が開始された。
 とはいっても、現職の小池百合子の再選は、最初からほぼ確実なように思えた。都知事選においては、現職が敗北したことは一度もない。今回もまた、そうだろう。この選挙全体が、制度としての民主主義を再確認するために、所定の期間と経費とを費やして行われる、手続き的、形式的な作業に過ぎないように思われた。
 ある特定の思想的立場を狂信的に信奉する一部の人々が、自らが支持する候補者を執拗に宣伝していたが、現実には何の影響力も持たなかった。ウケ狙いとしか思えない極端なコロナウイルス対策を喧伝する候補が何人か居たが、人々の注意を一瞬引いただけで、すぐに忘れられてしまった。選挙公報を新しい一発ギャグをお披露目する舞台だと思っているような者もいたが、面白くもなんともなく、サムくて退屈だった。在りし日のマック赤阪に匹敵するようなインパクトは、どの泡沫候補からも感じられなかった。
 小池百合子が、初めて東京にやって来た時のことを、自分は記憶している。
 小泉純一郎が仕掛けた、郵政総選挙の時である。
 それまで近畿地方にあった自身の選挙区から、この時に小池は引き抜かれ、東京都豊島区(と練馬区の一部)から、衆議院選に立候補することとなった。郵政民営化に反対票を投じた同選挙区の自民党議員、小林興起を潰すための刺客として、擁立されたのである。
その当時、私は豊島区に住んでいた。山手線の外側の、目白四丁目という町である。目白通りに近い区域は、外国人専用の一戸建てや、広大な敷地の大邸宅が並び、高級住宅地の雰囲気があったが、西武池袋線の方向に近づくにつれて、ごく普通のマンションやアパートが見られるようになる。私自身が住んでいたのも、狭くて安くて湿気がこもりやすい、身分相応のワンルームマンションだった。山手線の目白と、池袋と、西武池袋線の椎名町の三つの駅からほぼ等距離に位置し、つまりどの駅からも等しく遠かった。池袋線沿いの緑地では狸が、住宅街の電線上ではハクビシンが目撃された。
 その当時の住居のすぐ近く、西武池袋線沿いのある民家に、衆議院議員、小林興起のポスターが貼られていた。小林の支持団体、後援会の連絡所のような場所らしかった。
 小林興起は、それほど有力な政治家ではなかったが、しばしばテレビ上でその姿を見かけた。平沢勝栄などと一緒に、テレビタックルに出演して、雑な時代劇のコスプレをしてコントのようなものを演じていた。小林の性格や人格について、自分は何の知識も持っていなかったが、悪代官の役が似合いそうな顔をしているなと思った。
 郵政総選挙において自民党を逐われた小林は、「新党日本」という、急造の新政党から出馬することになった。そうして刺客として投入された小池と戦うことになった。
 その民家の壁から、小林のポスターは撤去され、連絡所の表示も消えた。
 郵政総選挙は、小泉の大圧勝に終わった。以降、この選挙区は小池百合子の地盤となった。小林も議員を続けることは出来たようだが、自民党への復党はかなわなかった。テレビでその姿を見かけることもほとんどなくなった。
 そうして、時は流れた。
 コロナウイルス下で行われた、令和時代最初の東京都知事選挙は、多くの人の予想通りに、小池百合子の大勝で終わった。七月五日の二〇時〇〇分〇五秒には、ほぼ全てのメディアが小池の再選を報じた。二十人以上いる対立候補の全ての得票を足しても、小池の半分にもならなかった。
 小池は強かった。あの時も今も。常に。強くない小池というのを、私は見たことがない。
 このようにして始まった二〇二〇年の七月は例年に比べ涼しく、過ごしやすかった。月の半ばを過ぎても気温は上がらなかった。緊急事態宣言が解除されて一か月以上が経過し、コロナの感染者数はまた少しずつ増え始めていた。

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