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努力なんて無いさ、努力なんて嘘さ。

始めに断っておきたいことがある。
自分で書いておいて何ではあるが、この文章は一般的に考えて、世の中の「知らないほうがいいこと」にあたるものだと思う。
この文章を理解してしまうと、あなたは世の中のほとんどのことに共感ができなくなる。
努力の意味が分からなくなる。
自分と、その辺の石ころの違いが判らなくなる。
人によってはニヒリズム(虚無主義)に陥る劇薬だろう。

ただし、この文章の考えは、人間として善く生きるため、ニーチェの超人的存在になるために、一度は通らねばならぬ道だと思っている。

以上を踏まえて、この先を読むか決断していただきたい。



私には小学生のころから理解のできない概念がある。
それが、「努力」の概念だ。

理解ができないというのは正確ではない。
「努力なんて概念は存在しないのに、なぜ世間でそんな概念が認められているのか」と、納得がいかなかったのだ。

なぜ多くの人が努力とやらが存在すると勘違いしてしまっているのか、年をとってわかってきた部分がある。

努力という概念の前提要素に、人間の、精神の特別視がある。
未だにに多くの人間は、人間の精神というものを、口先では精神が脳の機能と理解している素振りを見せる人間でさえ、何か非物質的な、世界のルールから一歩離れたような高尚なものだと勘違いしている。

この認識は、断じて間違っている。
人間の意識は、どこまで行っても脳内の電気信号の集合でしかない。
つまり、人間の意識とか精神といったものは、完全に物理・化学の法則に従って動いている。

と、いうことは、ある人間がどの時間にどの場所に生まれ、どのようにして育ち、何を思い、何を考え、何を為すのか。
それは、ほかの物理現象と全く同じように、その人間が生まれる前、ビッグバンが起こるそのまた前から決定していることだ。

私がいまこの記事を書いていることも、どこかの受験生が勉強をせずにYoutubeをみて一日を終えることも、はじめから決まっていることだ。

受験にしろ就活にしろ起業にしろ、そこに「努力」なんて概念が入り込む隙はない。

理解できるだろうか。
私の主張は、努力と同時に、「精神」「自由意志」「責任」といった概念も根本から否定している。

これら4つの概念は、全く同じ勘違いから生まれた概念だ。
キリスト教が「自由意志」の概念を広め、そこからほかの概念の誤認が広まったといえなくもないが、私はこの誤認はある程度生得的なものなのだと思う。

責任の概念で何もかも正当化して、自分の意志で、努力で、世界を切り開いていく夢のような世界。
子供のころは、誰もがそんなユートピアにいる。
大人になるにつれて、ごく少数、そんなユートピアが全くの偽物だと気づいてしまう人間が、時々出てしまうというだけで。

なぜならば、これら4つの概念こそが、社会、特に資本主義社会を成り立たせているからだ。
私たちはお互いをそこらの石ころとは違う、高尚な存在であると誤認してるからこそ互いに尊重して関り合う。
努力によって成功できるかもしれないと期待して、夢を抱けるから毎日生きていける。
私たちには、何にも左右されない意思があるから、罪に罰を与えることができる。

資本主義というのは、大きな怪物だ。
その怪物は、人間の夢を喰って生きている。
人間に永遠に夢を見せるために、苦痛から目を背けさせるために、その怪物は人間に自由意志を与えた。
人間は自由意志を喜んで受け取り、勤勉に努力し、夢を見て、今日も明日も怪物に夢を喰わせて生きていく。

自由意志と努力を否定する私の思想は、この怪物を殺す毒だ。
自由意志の否定は、ある意味で最も反社会的な思想だ。
人間を弱らせ、社会を弱らせる思想だ。

自由意志と努力不信の毒に罹った人間は、夢を見れなくなる。
現実を、苦痛を、不条理を、すべて直視せざるを得なくなる。

思うに、多くの哲学者が自殺しまう要因は、このことにある。
自由意志をまやかしと気づいてしまった人間に待ち受けているのは、永遠の苦痛と孤独。
自由意志や努力が存在していると勘違いしている人間とは、価値観が根本からズレてしまっている。

理解できなければ、それがいい。その方が幸せに決まっているから。
この話が少しでも理解できてしまった人間は、遅かれ早かれこの世界に堕ちてきてしまうだろう。

堕ちるなら、さっさと堕ちきってしまうといい。
そこにしがみついていても、何も話は進まないから。

堕ちきった先で「努力」してみようか。

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