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二十歳の私とビアンバー

私に三十歳は来ない。

そういう漠然とした確信が昔からあった。だいぶ薄くなったとはいえ、今でも少し残っている。

いわゆる私は性的マイノリティとか言われる人。付き合ってきた人は同性である女性が多かった。

幸い環境には恵まれたから、似たような立場の同年代はいっぱいいた。

けれど、そのもっと先の……自分の父や母くらいになった当事者たちをすぐ近くで見たことがなかった。

東京にはたくさん存在することは知っていたし、実際遠距離で付き合った方も何人かいる。

けれど、東京から鈍行では行く気になれない片田舎では、オネエがテレビに出るだけで生暖かい雰囲気になるのが現実なのだ。もちろん表立って差別なんかしないのだけれど、「うちの周りではそういう人っていないよねー」がお決まり。

透明な嵐に染まるか、殉教者になるか。

東京の文字を出しただけで軟禁されるような家では、それしか思いつかなかった。

地元じゃそこらじゅうで漂ってた野焼きの煙は、年を食うごとに肺を侵していく。ヒリつく目をかっぴらいたって視界もいやに悪くて、隣の人をマネをするほかはない。けれど、そうすると自我が嫌だと吠えて首を絞めるのだ。


ぎりぎりと気管が締め上げられる日々が続く中、私は二十歳の誕生日を迎えた。

「友達の家に泊まりに行ってくる」

そう嘘をついて電車に乗り込み、川を越える。そうして初めてたどり着いたのがとあるゲイタウンだった。

昔ながらの地元の人間はそこの地名を出すと眉を顰める。実際当時の雰囲気はお世辞にも良くなかった。交番の前でも平気で風俗の呼び込みを始めるし、恰幅の良い男性が公園の遊具で干されていたり、路上でストリートファイトごっこに興じる人たちもいたりした。

足早に通り過ぎて目的の店へと目指す。雑居ビルのかび臭い階段を上がっていくと、会員制と掲げられた扉が立ちふさがり、窓の一つもありゃしない。

ドアノブに触れるのが怖かった。

触れたらいよいよ戻れなくなる。私は透明になれないという確信があったが、かといって色をつける勇気もなかったのだ。

では戻るか。階段を降りかけるが、足元がくらくらする。雑踏に紛れたら最後、高校生の時に浮かんだ将来の選択肢だけになってしまう気がした。

十分近く悩んだ末、重い扉を開ける。そこは思ったより明るい場所だった。

「いらっしゃい。初めて?」

店員さんもお客さんも至ってその辺で見る女性だった。多少性別不詳な人は多かったけれど、話せばなんてことはなかった。

年齢層もばらばら。学生さんから年金受給の闘病中の人、お堅い仕事の人だっていたし、なんなら近所や卒業した母校関係者の人までいた。

ただ一貫してるのは、大多数のような恋愛ができない人ばかりなことだった。

十年以上女同士でやってきた人もいるし、一度パートナーを見送った人もいる。片思い中の人だっていたし、あるいはそもそも恋愛がわからない人もいた。

……なんだ、嵐の外にもいっぱい人はいたんじゃないか。

大げさなのかもしれないけど、それは救いの事実だった。

人はどうしようもなく一人だ。生まれてへその緒を切られた瞬間から死ぬまで、肉の檻で隔てられている。

けれど、一人が二つ集まると二人になる。たくさん集まれば集団だ。

集まる理由はいろいろあるけれど、基本的には「同質の価値判断を持つ」が一番手っ取り早い。

私はその価値判断の根本が他と違った。好きなタイプを男優に例えるならなんていわれてもとんと興味が湧かなかったけれど、適当にやり過ごさねば「異分子」として認知されてしまう。

田舎のコミュニティの数は驚くほどに少ない。そのくせ生活はそのコミュニティに大きく依存しており、一度どこかにはじかれてしまえば社会的に終わる。

野垂れ死にたくなけりゃ一生仮面をかぶって生きていくしかない。ビアンバーはそんな絶望に差し込んだ一筋の光だった。


それからは月に二回くらい、多いとほぼ毎週通っていた覚えがある。

多少マイノリティという共通点はあれど、そこは人間が集まる場所。もちろん嫌なこともいっぱいあった。女に疲れて、ゲイミックスのバーでママに愚痴りにいったこともある。

それでも「扉を開けたらちゃんと人間がいる」の実感を得られたのは、ビアンバーやゲイバーがひしめくあの街だった。

コのつく災禍であの街はどうなったのだろう。紫煙と酒とほんのり生臭い香りが路上に広がる街に光が絶えませんように。

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