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ビアンバーのふんわり思い出二つ目

――この界隈ではね、本当の名前を教えちゃいけないよ。

二十歳になって初めてレズビアンバーに足を踏み入れた時、最初に教えてもらった言葉だ。

実際どれくらいの人が実践してるのかはわからない。けれど、一定数本名とは思えないようなニックネームを名乗る人もいたから、そういう考えもあるのだと思う。

今思えば不思議な場所だった。

あそこは外ではさらけ出せない自分が解放される場所だった。

いろんな人がいた。

長年連れ添った彼女がいるけれど両親にそれを話せない人。

なんとなく周りに合わせているけれど、自分の恋の形がわからない人。

分かったつもりになって結婚したけれど、後から分かってしまった人。

特に女性に対して恋愛感情を抱くわけではないけれど、あまりにも期待される「女」の形に疲れてしまった人。

名前の仮面をかぶれば、あらゆる在り方が許された。だって、そこでなにかやらかしたって、日常に浸食してきたりしない。

そして、これはとても言葉で説明しづらいのだけれど、ぬるい相互の慈愛がそこにはあった。

ざっくり言えばシスターフッドだ。でも、私はどちらかといえばノンケ男女のさほど親しくはないけれど互いに悪くは思っていない空気感に近いものを感じていた。互いの間に性別という川が流れつつ、なんとなく互いを詮索せずにふんわりと慈しむような距離感だと思う。

わかってるようでわかってないけれど、確かにそこに横たわるぬるい愛の空間。無責任なつながりと言われれば否定できない。だって、いつも飲んで盛り上がる友達なのに、ひとたび目の前で倒れたら名前を救急隊員に教えることすらできないのだし。

ただ、それでもあそこにはとても原始的な承認があった気がする。

仕事は何してるだとかのDo(したこと)の承認は難しい。

Be(あり方)に関しても肩書の類は晒せないものだから、特段意味のない話でしょう。

となると、今その場で見た限りどうあるかという、きわめて限定的でフリーなBeだけが残る。

赤子はその場に存在し、息をしていること自体が祝いに値する。あのバーでも基本的にそうで、あの場に存在していることそのものがまず祝われてるし、ぶっちゃけそれくらいしか祝うことができない。

けれど、僕らが多分一番欲してて、孤独を嫌う理由がそれなんだと思う。

一人なんだけど独りじゃなくて、その場であった人とタバコの煙が絡み合う場所。多分私にとってのビアンバーはそんな場所。

あ、それすら欺瞞ですって? わからないものだねえ。とりあえず鏡月のアセロラ、炭酸で頼めるかしら。

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