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説教くさくなる勇気。

#20240610-411

2024年6月10日(月)
 暮らしのなかで、尾石おいし はるさんのコンテンツを楽しんでいる。
 音声プラットフォーム「Voicy」での配信をはじめ、書籍、SNSの「Xエックス(旧Twitterツイッター)」にも目を通している。
 昨日、タイムラインに流れてきた晴さんのポストが引っ掛かった。

 晴さんはエッセイを書くにあたり、ビジネス書での視点が抜けないという。
 「これを読んで何が得られる?」「そのために何をするの?」と「説教くさく」なるというのだ。

 エッセイとビジネス書。
 おもしろいと思った。私と逆さまだ。

 私はこの「note」という場に日々感じたことを綴っている。
 日記に近いが、日記を人に見せないことを前提にしているのなら、私が書くものは記録を伴ったエッセイだろうか。
 日記やエッセイは書き手に魅力があり、その人の視点や暮らしをゆっくりじっくり味わいたい人が手に取るように思う。日常生活に多くの人が興味を持つような事件が起きるわけではないし、驚くような画期的気付きがあるわけでもない。
 淡々と日々を過ごすなかで、小さな何かが芽生え、育ち、重なり、ふと気付くときが訪れるのだと思う。

 noteに限らず、日々忙しい人たちの目を引くのは、「わかりやすく」「自分にも取り込めそうなよいことが書かれている」自己啓発やビジネス書のようなものだと感じるときがある。
 私も「何かが得られる」ノウハウを書いてみたい。
 知りたい心が刺激されるような、思わず続きを読みたくなるようなタイトルをつけてみたい。
 だが、私はまだ里親としても、子育てをする身としても、一個人として生きるなかでも「途上」にある。
 人に伝えられるほどの「結論」がない
 手探り中なのだ。
 試しては、壁にぶつかり、違う手立てを考えて、また試す。
 小さな結論は出ていても、すぐ次の何かが出現し、ひっくり返されてしまう。総まとめのような結論が出ていない。
 いや、そもそもそんな極めつけの結論は存在するのだろうか。
 みな、どこかで区切りをつけ、現時点での「結論」を提示しているのではないか。

 一度立ち止まって、現時点での考えをまとめる余裕が私にないだけなのだろう。
 日々に押し流され、忘れてしまう「小さな出来事」をなんとかnoteに書き留めている。noteに言語化するなかで、私なりの「気付き」が見付かることが多く、「そうか」と私は視界が明るくひらけた気持ちになるが、それを人に伝えるほど力強く簡潔な言葉にできない。
 だから、エッセイという形で綴る日常に私の考えを重ね、読む人がそこに「得られる何かを発見してくれればいい」と投げている。私のnoteを読んで、何を得るのか、そのために何をするのかを私は読む人にまかせているのだ。

 ――こうするといいですよ!
 ――〇〇というのは、実は△△ということなんです!
 私の経験や気付きをわかりやすく、だれかに伝えたい気持ちはある。
 だが、いい切ることは、結論が二転三転する日常のなかで難しい。難しいが、これは逃げだ。
 要は、私は現時点限りとしても「いい切る」勇気がない。結論を言葉にする余裕がなく、先延ばしにしている。「~かもしれない」「~だろう」と言葉尻を濁すのは、いい切ることを背負いたくないからだ。
 人に何かを伝えたいのなら、説教くさくなろうとも「いい切る」ことも引き受けねばならない。
 次の気付きのためにも、現時点での「結論」を出すこと。
 今の私に必要なものだ。

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