精神医学の歴史と人類学

精神疾患が注目される近現代、精神医学と社会の関係は変わりつづけている。第1部では、表象、専門職、宗教、メディアという観点から精神医学の歴史を問いなおす。第2部では、人類学の視点から精神医学の実践を捉えなおす。(Amazon 紹介文)

鈴木 晃仁 (編集), 北中 淳子  東京大学出版会(編集)2016/9/16

著者について
鈴木晃仁:慶應義塾大学経済学部教授
北中淳子:慶應義塾大学文学部教授

Amazon 著者紹介

【本巻主要目次】
第1章 総論――精神医学の歴史と人類学(鈴木晃仁・北中淳子)
第1部 精神医学の歴史
第2章 精神疾患の声の歴史――近代日本の精神科臨床と文学(鈴木晃仁)
第3章 専門職間闘争における精神科医――19世紀末の英米における業域の拡大(高林陽展)
第4章 精神医学と精神療法における宗教――探究のための枠組み(クリストファー・ハーディング/石渡崇文・高林陽展訳)
第5章 精神医学とマスメディアの近代――20世紀初頭日本の新聞メディアを事例として(佐藤雅浩)
第2部 精神医学の人類学
第6章 文化と病いの経験(江口重幸)
第7章 精神医学による主体化――精神療法とバイオロジーの人類学(北中淳子)
第8章 日本社会における精神医学の権限と家族(エイミー・ボロヴォイ/安斎恵子訳)
第9章 人類学・精神医学・科学――PTSDにおける記憶の生成(アラン・ヤング/南学正仁・北中淳子訳)

※下記はいずれも著書中からの引用(第1章、第7章、第8章)。強調は引用者による。

病いや死の意味を統制し、苦しみからの回復のみならず根絶を目指して発展してきたのが近代の科学的・生物医学だといえる。したがって、人類学者にとって、生物医学による支配が何故可能になったのか、それは宗教からどのように離脱したのか、果たしてそれが真理に到達する道なのかは重要な問いとなった。
 特に、生物医学が基盤とする科学的思想と宗教の違いに関しては、一九世紀以降の人類学者にとって、(科学を標榜する自らの学問的正当性を考えるにあたっても)重要な問題であり続けた。エドワード・タイラーや『金枝篇』を著したジェームズ・フレイザーといった初期の人類学者は、人間の社会は汎神論を基盤とした呪術的・非合理な段階から、一神教を前提とし、より組織だった宗教へと発展し、それが近代において合理性をもつ科学へと進化した可能性を論じた。医療研究においても、このような段階的進化論は、西洋文明がもたらした科学的医療こそ究極の真理であり、すべての文化的・医療実践は、近代化とともにこの真理へと収斂されていくだろうという予想を生みだした。
 ところがこの近代化論は、世界各地でフィールドワークを行った人類学者によって否定される。第一に、西洋医学が導入された地域においても、引き続き呪術的・宗教的医療実践が混在し続けるだけでなく、西洋医学自体が、現地の伝統的世界観・人間観に合わせて再解釈され変容を遂げていることが報告された。第二に、日本の漢方やインドのアーユルヴェーダのように、伝統医療が西洋医学との対立を通じて、より制度化された医学として「近代化」を遂げ、あらたな影響力を得る現象も見られた。第三に、非西洋諸国のみならず、欧米の医療現場の調査から、「生物医学」と呼ばれる医学理論・医療実践が決して一枚岩ではなく、競合する世界観を内包した、きわめて複雑な実践であることが明らかになった。
したがって、客観的中立的・普遍的な知をもたらすとされた生物医学は、宗教を乗り超えた進化の先にある統一的真理ではなく、むしろ人類学者が「医療的多元性」(medical pluralism)と呼ぶものへの豊かな土壌を提供するものだったといえる。その背景には、エヴァンズ=プリチャード(二〇〇一)が古典的名著「アザンデ人の世界」で論じたような、科学(生物医学)の根本的な限界が潜んでいる。つまり、生物医学においては、病いがいかに(how)生じたのかというメカニカルな説明は可能でも、なぜ(why)この瞬間にこの私が病まなければならないのか、という形而上学的問いへの答え――災厄論――が欠落している事実だ。そのことが生物医学と宗教や伝統医療代替医療の共存を可能にしている。
この西洋医学の限界への気づきは、一九七〇年代以降、伝統医療・代替医療への関心を呼び起こした。特に近代化や植民地政策を通じて西洋医学が導入された地域で、医師がいくら生物医学の科学性・優越性を説こうとも、ローカルな医療実践は完全に廃れることがないという現象に注目が集まった。WHOの先導で非西洋医療の検証が始まる中で、初期の医療人類学でも特別な意味を持ったのが、日本からの報告である。というのも、『都市文化と東洋医学』(一九九〇)でマーガレット・ロックが論じたように、一九世紀にはすでに西洋医学が制度化され、経済・技術面でも近代化を遂げた日本において、漢方等が人気を持ち続けた事実は、伝統医療の存続が、決して経済的・政治的後進性によるものではないことの証左となったからだ。

pp.16-17 第1章 総論(鈴木晃仁・北中淳子)

このように文化依拠性の高い精神医学を実践する中で、自らが基盤としている知に対する違和感に向き合う医師等 の研究は、まさに"making strange familiar, making familiar strange" という人類学の相対主義的な理念 異文化と 遭遇する中で、未知のもの、不可解なものが見慣れたもの、親しみのあるものへと変わっていくと同時に、自文化における「常識」だったことが、徐々に不思議で、不可解なものへと変化していく異文化 (自文化) 理解を日々実践する試みだといえる。…
さらに、一九九〇年代以降の「こころのケア」ブームを経て、精神医療自体が社会に浸透する中、人類学者も民間の疾病観や精神病院の民族誌を超えて、より広い領域を扱うようになっている。…精神医学の教育・司法・福祉といった他領域との連携拡大が起こる中、発達障害、トラウマといった精神医学概念が一般社会に浸透しつつある。精神医学の言語が一般化していく中で、人々の自己意識がどのように変容していくのか…、日本の精神医療をめぐってきわめてグローバルな対話の場が生まれつつある(第7章参照)。

生物医学の人類学の醍醐味は、医学言説からは零れ落ちる人々の体験とその語りを拾い上げ、そこにある豊かな病いの文化を抽出するだけでなく、常に自己改革を続ける医療との批判的対話にもあるといえる(酒井ほか 二〇〇一)。 欧米での医療人類学の発展に寄与したのは、医学部が率先して医療社会研究学部を内部に創設してきた事実であり、そこでは医学史家、医療社会学者、医療人類学者らに現在ある形での医療の問題点を焙りだす役割が求められている。
こういった批判が医学教育に採り入れられ、 直接医療に還元されることで、一〇年前の社会科学からの批判が色褪せて見える程医療自体が大きく変わっていくことも少なくない。 医療人類学を先導してきた武井秀夫が指摘するように、今後日本でもより必要とされているのは臨床知に裏打ちされた臨床現場の民族誌であり、さらに科学知の生産現場の人類学だろう。 臨床知が創られつつある空間に身を置き、そこにある未分化な思想や、熟成されつつある世界観を明らかにすることで、容易に言葉にならない患者の経験や、生物医学のオータナティヴな在り方を探ることが求められている。

pp.20-21 第1章 総論(鈴木晃仁・北中淳子)

「心理的人間」から「神経化学的自己」への移行?
二〇世紀の人類学者が注目したのは、精神分析とその実践としての精神療法が、二〇世紀を通じて、 医学の枠組みを大きく超えた人間観として――さらには人々が自らを振り返り、自己を語るための内省の文法として――社会に深く浸透していった過程だった。 特に北米では、二〇世紀前半から精神療法的アプローチが軍や企業、学校に導入され、 精神分析派の医師は、医学部でも主流の地位を占めるようになった (Caplan 1998: Herman 1995: Nolan 1998: cf. Rose 1985) 一九六〇年代、当時権威を失いつつあったキリスト教とその告解の実践にかわって、人々が精神療法的に自己を振り 返り始めている状況に注目した社会学者フィリップ・リーフは、「心理的人間」の台頭を指摘している (Rieff 1966)。 精神療法は特に、「吟味されざる生に、生きる価値なし」と述べたソクラテスの伝統を受け継ぐ知識人の間で、真理 に到達するための「自己のケア」 (Foucault 1990: Foucault et al. 1988) の技法として浸透していく。
 しかし一九六〇年代以降の向精神薬の流通、一九八〇年以降の「DSM革命」による精神科診断基準の変更と脳神経画像技術の発展は、徐々に精神医学界におけるバイオロジー派の優勢を確固たるものにしていった。治療的効果についても科学的実証が難しい精神療法に対する批判が高まる中で、一九九〇年代の新世代抗うつ薬プロザックの台頭は、精神療法派に致命的な打撃をもたらす。…
 このように二〇世紀末、精神医学的人間観は、心の奥底に潜む無意識の感情や欲望との対峙を目指す 「心理的人間」から、脳内の化学物質に働きかけることで自己を変える 「神経化学的自己」 (Rose 2007) へと移行したかのように見えた。ところが、向精神薬の副作用や精神障害の増加・長期化・遷延化に対する危機感が高まり、バイオロジカル・オプティミズムにも翳りが見え始めている。さらに、仏教的瞑想との親和性を持つ新世代認知行動療法等が台頭する一方、精神分析に対する再評価の動きがある中で、精神医学的人間観は再編成の時期に突入しているように見える。

pp.162-163 第7章 (北中淳子)

精神医学による主体化の二重性
医療人類学と精神医学とは、アンビバレントな関係性を維持してきた。バイオロジー批判が強かった初期の医療人類学では、精神療法は一方で人々の主体性能動性を回復するための人道的視点として称賛されながらも、他方で心の深部に働きかけることで、社会適応的な主体を構築する心理的統治技術として批判されてきた。…
フーコーは「狂気の歴史」で、 監禁を用いる一七世紀のアサイラム医療から、拘禁具を解き、病者との人道的対話を通じて治療したピネルらの近代的精神医学に、まったく新しい解釈を与える (Foucault 1973)。従来の精神医学史では「抑圧からの解放」として描かれてきたこの歴史的転換を、フーコーは「身体的拘束」から「心理的拘束」への移行として読み替え、より巧妙な心理的統治がもたらした「近代的自由の逆説」を論じたのだ。彼のピネル批判の矛先にあったのは無論、人々に(社会規範から逸脱した)自己を恥じるように促し、 内なる監視のまなざしによる「自発的服従」を可能にしたフロイトの精神分析に他ならなかった (Foucault 1973)。
筆者は医療人類学者として、フーコーの精神医学批判に惹かれる一方で、自己の葛藤の根底にある社会構造のひずみを読み取る可能性に開かれた精神科臨床にも希望を抱き続けている。人々が精神医学の言語を内面化し、過去の自分や現在の自己像を再構成していく精神医学における「主体化」の過程において、人々の自己理解はどのように変容するのだろうか?

pp.163-16 第7章 (北中淳子)

生物医学における主観性の軽視
北米精神医学の歴史は、バイオロジーと精神療法が提示する、二つの人間観の拮抗の下に発展してきた (Light 1980; Luhrmann 2000 ドイツ流の神経学的精神医学が導入された日本では事情はかなり異なる: 内村 (二〇〇九) 参照)。 初期の医療人類学研究が、バイオロジカルな人間観に対する批判として始まったとしたら、精神療法的人間観はそのような人類学的批判を支える基盤を提供してきた。人類学者をはじめ社会科学者にとって、精神療法が解放的な意味を持ちえた のは、 生物学に基盤を置き、身体を心や精神が不在のモノとして捉え、「客観性」を重視する近代の科学的医療(これを以下、「生物医学(biomedicine)」 と呼ぶ)の領域において、「主観性」を回復させるための道を示したからに他ならない。
 そもそも病む人を癒すために発展してきた医療が、逆に苦しみを生み出すというパラドクスを分析し始めたのが、 一九六〇年代以降の医療社会学者や医学史家たちだった。 医療の構造や体制に関する研究を通じて、 近代社会において医療の知が専門家に独占され、その実践が商業主義の論理の下に置かれている現状が指摘され (Freidson 1970) 、「医療化論」では、出産や老い、死といった、従来は人生の自然な経験の一部とみなされていた現象に、医療が介入・侵 食することで進行する 「生活世界の植民地化」 (Habermas 1984) への批判が展開された (Illich 1975, Zola 1972)。 また、 地域医療の変遷に着目した研究では、個人の身体に潜む病理だけでなく、疾病の移動を細かに追う新たな監視技術が発展する中、健康が個人の私的領域を超え、集合的管理を必要とする公的資源へと転換されていった歴史が明らかになっている (Armstrong 1983)。さらに医療と病む人の関係性についてミクロレベルで考察した精神病院の民族誌からは、「精神病者」が形成される過程とその権力構造が浮かび上がってくる (Goffman 1961)。
この時代の医療社会学者や医学史家は、精神医学が、社会病理を個人の脳疾患として診断することで社会の構造的矛盾を隠蔽し、科学的中立性の装いの下に「逸脱者」を排除する統治装置であると論じていく。その後の研究でも、生物医学の「臨床的まなざし」によって、患者が正常/異常の地図上に分類され、可視化や症例化の技術を通じて、その身体や心理が断片化され、「従順な身体」へと転換される「主体化」の過程についての探究が進められている(Atkinson 1995)。

pp.165-166 第7章 (北中淳子)

生物医学的人間観の人類学的考察
このように、弱者の疎外化や無力化の現象を、政治的・経済的な構造分析から明らかにしたのが、初期の医療社会学・医学史であるとすれば、医療人類学は、狂いの比較文化的研究を通じて、いかに精神障害の分類や診断自体が社会や時代によって大きく変化し、「精神障害」の概念自体が、 社会的道徳観に縛られた歴史的構築物であるかについて探究していった (Hahn & Gaines 1985: Lock & Gordon 1988: Lindenbaum & Lock 1993: Leslie & Young 1992 参照)。 初期の医療人類学者は、従来民間治療・信仰を分析してきた枠組みを用いて、生物医学のパラドクスを、それが前提とする世界観から解明することを試みている。 特に彼らが注目したのは――医療人類学の始祖ともいわれるエヴァンズ=プリチャード (二〇〇一 [1937]) が 「アザンデ人の世界 妖術・託宣・呪術」 で論じたように―― 生物医学は病いがいかに (how) 起こるかについての病理機制を説明しようとするが、なぜ (why) その個人が、今ここで苦しまなくてはならないのかという、しばしば病者が最も必要とする不条理への意味を与えるものではないという事実だった。 生物医学が重視するのは、あくまでも客観的な知としての「疾病 (disease)」であって、主観的な経験である「病い (illness)」 や、そもそも「疾病」や「病い」といった現象を成り立たせている社会的・政治的・歴史的な相互作用としての「病気 (sickness)」 への関心は極めて薄い (Young 1980)。 このような生物医学的疾病観が生み出すのは、客観性の重視と、主観性の軽視 (時に蔑視)だ。
このような主観の軽視はいかにして可能になったのだろうか? 生物医学はコスモロジー (宇宙観、世界を秩序立てる様式)、存在論 (現実や存在に関する前提)、認識論 (知や真理に関する前提)から構成されるものとして理解できる(Gordon 1988)。生物医学の実践は自然科学の一端を成すが、自然科学とは 「自然」を歴史・社会・文化から独立した「モノ」として、客観的・中立的・普遍的に観察できるという前提に立脚している。このような自然観は、中世の宗教的世界観から自然を解放し「脱魔術化」を目指した啓蒙主義時代にまで遡るが、特に近代社会においては、自然を神の意思から切り離し、一定の規則性や法則に従って動き、人工的に制御できる予測可能なものとして見なす合理的思考が支配的になっていく。自然主義の影響下、病気も「災厄(神からの罰)」から「病」として、その原因も 「罪」ではな く、「病理機制(メカニズム)」として理解され直す中で、病気は善悪といった道徳・意味の世界から切り離された現象へと変化していく(病いの「脱道徳化」)。
さらに「機械的身体論」の影響下、不健康な身体は、病んだ部品(パーツ)を修理、もしくは除去・交換すれば元に戻るものとして再定義され、精神も脳という部品に局在化されていく中で、全体(の健康)は、部品の総体以上のものであるというホーリスティックな視点は希薄化していく(解剖学をその基盤として発展してきた生物医学では、動かず 反応しない身体をモノ化して考えやすかったことも指摘されている)(Gordon 1988)。 精神や感情・心理といった「主観的」側面を考慮する際も、客観的データと同じく全体の一つの「変数」として取り扱われ、病いの主観的意味・訴えである「症状」よりも客観的な「兆候」が上位に置かれるようになる (Lock & Gordon 1988)。
真理とは、時間や空間を超えた、唯一の、普遍的なものであるという美学を持つ生物医学において、それを複雑化する主観性や文化・歴史は法則性を乱す付属的データ、もしくはノイズのようなものとして見なされるようになる。このように、生物医学における人間とは、脱歴史化・脱道徳化・脱主観化された存在として捉えられるが、 医学の現場では、この(いくつもの前提に基づいた)人間観は「自然の産物と見なされ、その不自然さが問われることは稀である。

pp.166-168 第7章 (北中淳子)

精神療法的視点からの生物医学批判
精神をモノとしての「脳」に還元し、身体医学に対するのと同じ方法でアプローチするのがバイオロジーの様式であるとしたら、その限界を指摘し、モノに還元された「精神」に対する「身体」の反乱を語ることで、バイオロジーの限界を明らかにしたのが精神分析だといえる。…
〔タニア・〕ラーマンが詳細に描き出すように、現在でもバイオロジー派の医師たちは、精神障害者は身体疾病と同じく、不可抗力的な物質の作用犠牲者であって、脳疾患に侵された、「我々とは異なる」可哀想な病人であることを強調する。 患者に「病人役割」を与え、通常の社会的責任を免除するという、近代医学が最も得意としてきた救済の形を与えることで、バイオロジー派の医師は、精神障害を脱道徳化しようと試みる。しかし、このような救済が時に足枷ともなるのは、精神障害の病理は人格を司るという脳にあるとされるが故に、精神障害者は合理的に思考できない異質な存在として扱われるためである。特に完治法が未だ見つからない中で、精神障害という診断は、人々のアイデンティティを半永久的にスティグマ化するものにもなりかねない。
それに対して、ラーマンが出会った精神分析派の医師は、患者を自らの精神が創り出した葛藤に突き動かされる、あくまでも正常の延長線上にある存在として捉えていたという。 精神分析医にとっては ―― その教祖であるフロイトやユング自身も、シャーマン的に自らの病いと対峙することで精神分析を産みだしたように ―― 自己/他者、医師/患者を分ける明瞭な境界線など存在しない。精神分析を学ぶ医師たちは、(しばしば医師の矛盾や欺瞞を容赦なく追及してくる)患者たちと日々対峙し、一見何気ない言葉や行為の裏に潜むさまざまな意味を分析し続ける中で、 医師自身「正常」だと思い込んでいた自己の精神に潜む異常を発見していく。 このように精神が創り出す病いに気づくことは、 同時に自ら病いを主体的に乗り越えるための、自己治癒力を得ることでもある (Luhrmann 2000)。

pp.168-169 第7章 (北中淳子)

むしろ興味深いのは、医師が患者の語ったことの中から医学的疾病観と合致する部分を中心的に拾い上げ、それについて繰り返し問いかけることでまた患者自身がそれに呼応するかのように、「病いの経験」を医学的に語り直していく中で ―― 徐々に「統合失調症患者」らしい主体が共同形成されていく過程だ。さらにバレットは、患者の全人的理解を目指しながらも、実際の臨床では医師・看護師・心理士・ソーシャルワーカーが各人の専門知に合わせて「患者」像を創り出し、これがケースコンフェレンスで集約されることで初めて「ホーリスティック」な患者像が生まれるも、結局は臨床での分業で再断片化されていく過程にも着目する (Barrett 1996)。このような複雑な過程で生成される「病いの語り」の政治性と、それが作り出す主体性の様式に着目することで、人類学者はいかに容易に患者が医学言説に絡み取られ、より微細で複雑な自発的服従を生き始めるのかについての考察を深めていく。

p.172 第7章 (北中淳子)

文化体系としての精神医学 ―― 内在化のテクノロジーとその政治的意味
さらに同時期に、精神医学の比較文化的研究が進む中で明らかになったことは、精神医学ではバイオロジーと 精神療法の両方において病いの原因が個人の脳や心のレベルに求められるため、どうしても社会や政治、歴史への視点が薄くなってしまうという事実だった。 アラン・ヤングは、世界のさまざまな医療システムを検討し、その 病因論に「外在化」と「内在化」の二つの極があることを論じている。 邪視や生霊(いきりょう)、祟りといった呪術的信仰から、 貧困や社会的苦境によって病いが起こるとする環境まで、病いに関して古くから存在する考え方には、その原因を個人の外に求める「外」の形をとるものが少なくない。それに対して(精神分析も含めた) 近代医学は、病いの原因を、幼年期の心理的葛藤や、奥深い体内の微細な細胞の領域に求めていく方法論的個人還元主義をとるため、究極 「内在化」として位置づけられる (Young 1982a1982b)。
 歴史的に見ても、例えば前近代の日本では、妄想や幻覚に基づく異常行動が「狐憑き」として捉えられ、共同体の関係調整としても作用する「お祓い」を通じた治療が求められたが、生物医学導入後の「精神病」は、個人の脳異常と見なされ、薬物療法等で対処されるようになった (川村 一九九〇)。 医学史では、二〇世紀前半の精神医療化によって、第一に宗教的・道徳的「罪」が、 病理へと再定義され、第二に、患者はもはや自らの真の病理や欲望を認識することはできない、受け身の存在へと転換された経緯が明らかになっている。この段階で、病理の意味は患者からは隠され、無意識の葛藤や、身体に深く刻み込まれた異常は、専門家をもって初めて明らかになるものへと変化する。 第三に、患者の(症状や家族関係、仕事環境についての)告白や自己報告を必要とする疾病としての「精神障害」の概念化は、専門家による健康調査、 集団健診や家庭訪問を含んだ「早期介入」への道を開いた。自らの身体や心を常に自己モニターし、自己を精神医学の言語で語る人々を創り出す主体化を経ることで、精神医学による支配はより 完全なものとなる (Armstrong 1983: 22)。
 さらに盛んに議論されたのは、精神医学的人間観が、アメリカ社会の文化的イデオロギーや資本主義の前提を強化するものであるが故に、その権力がしばしば透明なものとして働き得るということだった。そもそも精神医学の基盤である生物医学では「健康」は個人に宿るもの個人が自ら管理し、改善し、解決すべき問題として捉えられる傾向にあるが、それはアメリカ型資本主義社会においてはあまりにも常識的な視点であるが故に、他の可能性を想像することは難しい。生物医学は、方法論的個人還元主義と身体への焦点化によって、個人が置かれた社会的状況から人々の注意をそらしてしまうが、特に自律と自助努力といった個人の独立が美徳とされるアメリカにおいては、そもそも不健康を産み出すような貧困や差別の撤廃や生活環境の改善を求める声が「社会主義的」といった批判を受け、社会構造の変革から個人の健康を改善することへの抵抗も大きい (Taussig 1980, Young 1982b)。

pp.172-173 第7章 (北中淳子)

生物医学に対する批判として台頭した一九八〇年代の「健康主義(ヘルシズム)」においても、そのような草の根の抵抗運動が結局は生物医学/資本主義が根底にもつ個人還元主義を再生産していたことも指摘されている。当時の人々の語りからは、彼らが感じていた「不健康」の大部分が、貧困・不安定な雇用形態・差別・不平等といった政治的・経済的原因に拠るものであった事実が浮かび上がってくる。それにもかかわらず彼らがとった解決法とは、ジムに通い身体を鍛え、自らをより強靭にすることで自己制御感を取り戻すことだったのであり、それは個人の健康への責任をより肥大化させ、商業主義的な健康産業を潤わせるという皮肉な結果をもたらしたという (Crawford 1984)
このように「病いの語り」を歴史的・経済的・政治的な文脈で捉え直す試みは、医療に刻印された社会的イデオロ ギーやそれを根底で支える政治体制・文化的象徵体系への分析につながり、医療人類学に新たな展開をもたらした (Comaroff 1982: Lindenbaum & Lock 1993)。これ以降、医療を通じた主体化を、 主観的現象として捉える「個人的身体」 のレベルだけでなく、社会の秩序が刻み込まれた「社会的身体」と、統治の対象としての「政治的身体」という「三つの身体」の視点から考察することが、医療人類学の重要なテーマとなっていく (Scheper-Hughes & Lock 1987)。

pp.173-174 第7章 (北中淳子)

たしかに精神分析は、社会規範から逸脱する女性たちに対して、その感情の非合理さに気づかせ理性的な自己制御を促したという点では、西洋思想に綿々と流れる、「情熱に支配され、身体に従属された非合理的存在」としての女性像を再生産するものであった(Bordo 1993)。ただし、当時の支配的な社会通念に対して、身体を通じて無言の抵抗を行っていた女性たちの苦悩に耳を傾け、その語りに意味を与えたという点においては、極めて先駆的な試みでもあり、それは時に医師と患者両者の(ジェンダー・家族イデオロギーといった)文化的前提を問い直す場として機能した。つまり精神分析は、個人の病理に着目する一方で、そのような病いが社会病理の最も強調された形として個人に投影されたものであるという可能性を探究する場であり得たといえる(Kirmayer 1988)。
 このような女性学の洞察に基づき、マーガレット・ロックは一九七〇年代以降日本で社会病理として台頭した「不 登校」言説に着目し、子どもの病理を母原性と捉え、母親に責めを負わす「良妻賢母」という言説が、臨床現場でも いかに母子を追い詰める家族イデオロギーとして作用しているのかを論じつつ、このような支配的社会言説を相対化 する道を探っている(Lock 1988, 1991)。さらに、エイミー・ボロヴォイは、アメリカで、アルコール依存症の人々と その家族のために開発された精神療法が日本に移植される際にどのような文化摩擦を起こしたのかを分析することで、 精神療法とその「回復」観に刻み込まれた文化的イデオロギーを明らかにしている。ボロヴォイは、女性解放を目指してアメリカで発展した精神療法、特に「共依存」という概念の根底に、自律・自助努力を絶対善とする北米流の自己論があることを指摘する。このような文化的自己論に基づく精神療法においては、女性たちが依存しあう家族関係の「異常さ」に自ら気づき、独立した自己を獲得することこそが「回復」と見なされる。しかし、夫や他の家族を常に思いやり、助け合うことの美徳を教え込まれて育った日本の女性たちにとって、「共依存」説が絶対善とする自律は時に奇妙なものに映り、日本社会での正常範疇にある「相互扶助」と病的な「共依存」の境界線を見極めることは 必ずしも容易ではない。したがって、彼女たちは「共依存」概念を用いることで、相手との病的な心理的距離を見直すことには成功するものの、他方でセラピストが増える家族像・社会像にも違和感を表明するが、これはそのまま精神療法の文化批判となっている(Borovoy 2005, Ozawa-deSilva2006も参照)。

pp.175-176 第7章 (北中淳子)

 「社会的な苦しみ」―神経衰弱とPTSD
 そもそも方法論的個人還元主義をとる生物医学において、その一領域としての精神医学は、これまで「社会」や「苦しみ」をどのように概念化してきたのだろうか? このような問題意識を抱いた人類学者たちは、精神科臨床という場自体を、より明確に歴史的産物として分析し始める(Kleinmanetal1997)。たとえば一九八〇年代に文化大革命後の中国でフィールドワークを行ったクラインマンは、当時の中国の「神経衰弱」者の急増に注目し、なぜ北米であればうつ病と診断される症状群に、この古めかしい医学用語が用いられているのかを問う。中国で医師や患者にインタビューを重ねる中で、クラインマンは「神経衰弱」が単なる医学用語を超えて、文化大革命がもたらした不正や不条理の経験を、心身の苦しみとして表現する「苦悩の慣用表現」として作用していることを見出す。当時の共産党政権にもお付きを与えられた「神経衰弱」は人々の苦悩に社会的正当性を与えるだけでなく、政治的に批判的なニュアンスを和らげ、個人の苦しみを、集団的・社会的な苦しみのレベルへと昇華させることを可能にしていたという(Kleiman196)。
 この主体構築の場としての精神医学の政治性に最も深く切り込んだ研究が、アラン・ヤングの「PTSDの医療人類学」だろう(Young166)。ヤングは一九八〇年代以降、ベトナム戦争の退役兵を対象とした米軍の病院で、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という科学概念が生成される現場に立ち会い、科学概念の矛盾を焙りだして見せる。当時、DSM革命によってアメリカ精神医学界で劣勢に置かれていた精神分析は、「過去の心的外傷体験が精神障害の原因となる」というトラウマ論の科学性を立証するために、ベトナム戦争の退役軍人用の病院で精神療法の大規模な実践・研究を行う。しかし、その対象となったのは、その多くが長い間ドラッグやアルコールの依存症、家庭内暴力や反社会的行動を含む複雑な人生史をもち、中には補償金目当ての偽患者ではと疑われる者さえ含まれるという、一筋縄ではいかない患者群だった。
 さまざまな人生の問題を「戦争時の外傷体験」に起因させた単純な物語として語ろうとする臨床家(その大部分が経験が浅く、最位的にも医師よりも弱い立場に置かれた心理学者やソーシャルワーカーだった)に対して、患者たちは「戦場を経験したこともない若造に何がわかるのか」と激しい抵抗を見せる。臨床家自身も、徐々にPTSD概念や精神分析モデルに対する疑問や批判を抱きはじめる。しかしそのような疑問は、統括者であり、職位的にも絶対的権力を振るう精神分析医によって、臨床家自身の未熟さや無意識の抵抗の証明として退けられてしまう。それどころか、患者の激しい抵抗自体、逆に隠されているトラウマ(無意識の葛藤)の深さの証であり、精神分析理論の正しさを証明するものといった主張さえ展開される。この戯画的状況から浮かび上がってくるのは、哲学者カール・ボバーが批判した精神分析の「反証可能性の欠如」に他ならない(Young1993, 1995)。

pp.176-177 第7章 (北中淳子)

戦争体験の矮小化に怒りを隠せない患者たちも、PTSD診断が政府から無償の医療や年金を得るための必要条件であることを承知している。ドラッグ問題や家庭内不和を抱えた彼らの多くにとって、PTSDは複雑な現実を覆い隠し、 「戦争の犠牲者」としての資格を得るために有効な概念でもある。PTSDはさらに、大義を失った戦争で傷ついた兵士のみならず、彼らを英雄として迎え入れることのできなかったアメリカ社会の傷をも癒し、過去を受け入れるた めの文化的・象徴的記号としての機能をも獲得していく。

pp.177-178 第7章 (北中淳子)

一九九〇年代に精神療法の影響力が薄れ、精神医学においても脳神経科学化・薬剤化の動きが強まる中で、それに伴い台頭した「神経化学的自己」は、バイオロジー的主体に付与されてきた道徳的意味を現在大きく変えつつある(Rose&Abi-Rached2013)。ゲノム医学や脳神経画像の発展により、あらためて科学技術の恩恵が明らかになる過程で、バイオロジカルな精神医学は、科学による道徳からの解放という生物医学本来の力を取り戻したかのようにさえ見える。そして、この変化は精神分析の影響力が一般社会に及び、その呪縛が強かったアメリカ社会において最も顕著なようだ。前述のラーマンが一九九〇年代にインタビューしたアメリカ精神医学界の大御所たちは、学生時代にドラッグを試す中で幻覚妄想を自ら体験し、精神病は脳の神経化学物質の変化によるものとの確信を得るも、当時の精神分派の教授らに「無意識の抵抗」として退けられた思い出を語る。彼らは、権威主義的な精神分析の逆をいくものとして、バイオロジーを民主的で開かれた科学として確立しようとしたという(Luhrmann 2000)。
 このようなバイオロジー化の動きには、当事者や家族会からの積極的支援があったことも見逃せない。自閉症研究の領域では、「冷蔵庫マザー」といった概念で家族に責めを負わせた精神分析に反発した家族会が、遺伝子研究の財団を設立し、この領域の主軸を精神分析から遺伝子・神経化学的研究へと移行させるのに多大な影響力をもたらしたという。自閉症児の家族たちは、自ら大規模な自閉症の遺伝子データ・プールを作り、若い研究者を財政的にも支援し、バイオロジカルな研究結果を蓄積していくことで、精神分析への反論の基盤を積み上げていった(Silverman2012)。こういった精神障害をめぐるバイオロジーの脱スティグマ化により、北米では現在、「脳の多様性(neurodiversity)」を主張することは、精神分析がかつて果たしたような、先進的なアイデンティティ構築の基盤にさえなっている(Eyal 2010)。
 このように、現在当事者の中から、以前は疎外・無力化をもたらすものとして批判されてきたバイオロジーの「疾病」観そのものを読み替え、「自らの病いの経験」を表象するため言語として書き直そうとする、一種の言語回復運動が起こっている事実は重要だ(石原 二〇一三 :Rose & Abi-Rached 2013)。英国や日本での当事者運動は、経験から遠いとされてきた科学の言語、バイオロジカルな言語を、より経験に近いものへと書き換えることで、「科学的客観性」自体を複雑化させようとしている。これは従来「主観性」や「語り」(いわゆるNBM:Narrative Based Medicine)の側に縛り付けられてきた当事者が、科学者が独占してきた「客観性」や「エヴィデンス」(EBM:EvidenceBasedMedi-62cine)の言語を学ぶことで受け身の存在を抜け出し、医学知の生産者として能動性を獲得し、従来の二項対立を乗り越える試みとしても、大きな可能性を秘めている。

pp.179-180 第7章 (北中淳子)

バイオロジー化された自己を理解する上で一つ注目するべきなのは、抗うつ剤の流行に見られるように、「神経化学的自己」の語りと、それによる自己変容が、単なる普遍的・化学的作用というよりは、その社会特有の歴史的・文化的人間観との相互作用の産物であるという事実だ。たとえばバイオロジー派の攻勢が最も強い北米においても、抗うつ薬をめぐる語り自体が、実は性格と自己変容(「抗うつ薬をのんで、性格が明るくなった、真の自己が見つかった」等の、極めて精神分析なテーマで彩られていることが指摘されている(Metzl 2003)。イランでは、うつ病自体が、イランイラク戦争の記憶とそのトラウマを語る政治的慣用表現として広まり(Behrouzan 2015)、ジェネリックな抗うつ薬が広く流通するインドでは、薬の化学的効果がアーユルヴェーダに基づいた身体論で語られているという(Ecks 2003)。…
「神経化学的自己」における「身体」の文化的多様性を最もよく表したのが、日本におけるうつ病言説かもしれない。というのも、一九九〇年代中頃までは、日本では極めて稀と考えられていたうつ病が、一九九〇年代末から大流行した背景には、脳神経化学的還元主義とはかなり異なる身体観が垣間見えるからだ。もともと、日本精神医学界における「うつ病」とは、北米の精神分析派が提唱したような、主観的葛藤欲望に焦点を当てる心理モデルではなく、心身の疲弊や過労状況を重視する生物・社会モデルで理解されてきた。この戦前からのモデルが、戦後ドイツの実存主義的精神医学と出会い発展することで、勤勉かつ他者配慮的な人が過労状況でうつに陥るという「病前性格状況論」が生まれる。一九九〇年代に製薬企業が日本での抗うつ薬のマーケティング戦略に積極的に起用したのもこの「真面目な人がうつになる」というローカルな疾病言説であり、疲弊した身体や環境のストレスに人々の注意を向ける「こころの風邪」というキャッチフレーズだった。さらに、この独自の精神医学言説は一連の過労自殺裁判を通じて、長時間労働による過労と精神障害の因果関係の確立にも結び付き、「こころの病」「ストレスの病」に経済的補償を与える契機となっていく。その結果、「うつ病」という精神科診断は医学を大きく超えて、司法・行政領域での新たな社会生命を帯び始める。

pp.180-181 第7章 (北中淳子)

人々が自ら精神医学の言語を用いて語り始め、自己を精神科の患者として医療化する「自己の医療化(self-medicalization)」(Conrad 2005)の現象は近年ますます顕著になっている。例えばチェルノブイリ原発事故後のウクライナの被災者に関する研究でも、人々が精神医学的言語を用いることで、自らを犠牲者として定義し、国からの補償を求めていく「生物学的市民権(biological citizenship)」の生成過程が分析されている(Petryna 2002)。ただし、医学的言説を自らに付与させる主体化の形には、ある種のリスクが付きまとう。なぜなら、医学的疾病概念をもって自己アイデンティティを規定し、社会的な苦しみの承認を求めるという行為は、専門家によってその定義が変更され得る科学的な疾病言説に、自らの解釈を譲渡することをも意味するからだ。そして、そのような疾病概念の変更と、それに伴う病いの道徳的意味の反転は、精神医学史上何度も繰り返されている現象だ。
例えば、一九世紀末から世界的に大流行した「神経衰弱」は、当初近代化の重圧を一身に背負うエリートの「過労の病」とされたが、後に階層を超えて患者数が増加する中で、「人格の病」へとその意味を変えていった(Lutz1995:Kitanaka 2012)。PTSDをめぐっても、当初は精神分析的枠組みで、「異常な出来事に対する正常な反応」とされた疾患が、バイオロジカルな研究が進む中で「正常な範疇にある出来事に対する異常な反応」と再定義され、患者の脳の脆弱性が問題とされていく(Young 1995)。ウクライナの被災者たちについても、最初は事故の後遺症として補償の対象となった被災者の精神症状が、患者数が急増する中で、徐々に彼らの脆弱性が問題にされるようになった同様の経緯が指摘されている(Petryna 2002)。さらに日本でも、新たな「過労の病」として台頭したうつ病患者数が若第層にも増える中で、逃避的で未熟な人格を持った若者が陥る「新型うつ病」としてスティグマ化されていった経緯は記憶に新しい(Kitanaka 2012:北中 二〇一四)。

pp.180-182 第7章 (北中淳子)

精神医療や臨床心理学的治療の代りとして多数の制度が存在するが、その一つである家族は、日本の企業福祉制度に支えられながら、社会の主流で役割を果たす妨げとなる障害を抱えた人々に一定の保護を与える。
 一九世紀の後半以来、日本の国家が抱く社会福祉の理想像は、家族や地域社会に自分の面倒は自分でみるよう促すものであった。これが後に便宜主義的に「日本型福祉社会」と表現されるようになる(Garon 1997:26,38-41:Peng 2002:419)。妻・母親としての女性の労働は、このヴィジョンの中核をなすもので、女性が家庭に留まることを可能にする財源は、企業の家族賃金と経済基盤によって支えられた。「日本型」福祉制度はまた、社会からはじき出された人や障害を抱えた人が引きこもったり静養したりすることが可能な場を作り出す。子供が長期にわたって家族に依存することや、勤続年数が長いサラリーマンに有給の長期病気休暇(長期休暇)が与えられること、集団生活に適応できない患者を入院させて(社会的入院)休養する時間を与えることも、このような場の創出の例である(Borovoy 2008)。
 この制度に関して重要なのは、治癒の過程で、病気を認定する診断や、病気そのものの治療が行われないかもしれないことだ。これが精神病に対する「日本流の治療」なのだとある精神科医は私に説明してくれた。これは、社会的に妥当な休養の空間は提供するが、必ずしも「治療」は提供しない私的な対処法(coping)である。別の言い方をすると、この制度は、時間をかければ最終的には日常生活に復帰し社会の一員となることを期待して、機能していない人々に一種の保護を提供する。

p.196 第8章 (エイミー・ボロヴォイ/安斎恵子訳)

社会的な問題を明確化するための背景としての家族と精神医学の役割を探るにあたって、特定の精神医学的行動上の問題が、次第に社会規範や価値に疑義を呈する糸口となった経緯を探ってみたい。本論では、この問題が展開している二つの事例を見たい。一つ目の事例は、私自身が一九九〇年代の初めに、日本のアルコール依存症に対する処置と「共依存症」の問題について、ある都立の精神保健福祉センターで行った調査から得たものである。二つ目の事例は、若年成人が自宅に引きこもる現象、ひきこもりの問題である。ここでは、ひきこもりの「原因」そのものについての推測は試みない。むしろこの現象は、複合的な原因で起こる問題だと考えている。ここでの私の関心は、周縁性(マージナリティ)や貧困の影響よりも、中流階級の家庭生活に関連する問題、たとえば、「正常」とみなされ社会的に是認される行動や態度と、不健全あるいは自己破壊的な行動や態度とを、一般の人々がいかに区別するに至るかにある。彼らはどのようにして自分の苦悩について主張し始め、それを日常的な悲しみや修正可能な不適応と区別して、特別な介人や日常活動の一時的停止を必要とする心因性の問題に分類するようになるのだろうか。

pp.196-197 第8章 (エイミー・ボロヴォイ/安斎恵子訳)

精神疾患を明確に扱った最初の日本の法律精神病者監護法、一九〇〇年)は、精神障害者の世話と監禁を家族の責任として明示した(Nakamura 2013: 43-44)。この結果、精神障害者が自宅内または自宅に付属する狭い檻のような部屋に収容される「私宅監置」という現象が生まれた。これは、明治政府下ですべての精神障害者を収容するスペースが精神病院になかった事情に半ば起因する(この習慣は、江戸時代にその前身があるとする議論もある)。この施設は、地方の官吏(行政)、通常は警察によって管理された。中流以上の資産をもつ多くの家庭がこうした場所を設け、「監禁」と「保護」の中間のような慣行が成立した。この慣行は、東京帝国大学の精神医学者、呉秀三によって一九一八年に発表された有名な報告「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」によって世間の知るところとなる。このなかで呉は、日本の精神障害者の不幸を嘆いている。この報告は、より多くの公的施設の建設を促したが、状況は依然として嘆かわしいものであった。精神面で苦悩を抱える者を治療することなく「保護する」すなわち「施設に閉じ込めておく」傾向は、特定の形態で続き、(場合によっては)ひきこもりの現象も、精神的に病む者の自宅介護を重視してきた歴史の遺物であると論ずることさえできるかもしれない。

p.197 第8章 (エイミー・ボロヴォイ/安斎恵子訳)

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