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『danse macabre to the HARDCORE WORKS』 あとがき(1996年1月 NGP)

 1995年6月、僕はモスクワにいた。モスクワは連日30度を超す猛暑、僕はスチームはエアコンもファンもない、しかし値段だけは一流のホテルで警察の取材許可が下りるのを待っていた。来る日も来る日も電話を待った。思えばタイもコロンビアもうまくいきすぎたのだ。行き当たりばったりで飛び込んで、いい友人、いいドラッグ、いい死体に巡り合うことができた。しかし、ロシアで行き当たりばったりは通用しなかった。取材許可が出るまで恐ろしく時間がかかる。食事は恐ろしく高く、しかもまずい。僕はいつしかウォッカと黒パンを買いに出る時以外は部屋に閉じこもるようになっていた。身悶えするような時間が流れる。ウォッカをあおる。僕はふと忘れていた映画の企画を思い出し、絵コンテにまで一気に仕上げた。夜も10時を過ぎているというのに、外は真昼の明るさだ。そのかわり冬は昼間も暗い。モスクワの夏はまさに太陽の季節なのである。僕は、AV監督の時にほとんどナイトシーンの台本を書いて照明のH氏を困らせたことを思い出した。H氏はAV業界では珍しい作家主義的な技師だった。自殺癖があり、精神病院の入退院を繰り返していた。「狂ってからかつての照明がどうしても取り戻せない」という。リハビリのH氏に僕の組は少々ヘビーだったかもしれない。僕はそんなH氏の都合を意識して考えなかったし、H氏もそれを望んだ。そして今度、映画をやる時も一緒に、と思っていた。「僕は狂うずっと前に……学生運動で挫折した時にはもう死んでたんですよ……」H氏は3月に野方駅の階段から転んで死んだ。駅員に「名前は?」と聞かれて「29歳です」と答えたのが最後の言葉となった。そういえばH氏は29歳の時にDJを辞めて照明の世界に入ったのだ。今年29になる僕はちょうどその頃バンコクで死体を追いかけていた。レスキュー隊の事務所での待機中、隊員のオフとビローシャナが血相を変えてやってきた。ヘラルド・トリビューンを僕に見せ、「日本で死人が出た!」と叫ぶ。まさかH氏のことではない。その日のトップ記事は地下鉄サリン事件であった。僕は「またやられた!」と思った。「また」というのは、その2か月前、僕は阪神大震災のニュースをニューヨークで知り、そのままボゴタへ向かった時に、僕が世話になっている新聞社のカメラマン、アルバロに「コーベの死体写真は、もちろん撮ってきたんだよね?」と聞かれて悔しい思いをしていたからである。僕には日本人の死体なんて一生撮れないかもしれない。それにしてもタイ、コロンビアという2大死体大国の死体ビジネスに関わる人々にお悔やみを言われて僕は妙な気分だった。そしてロシア、僕は焦っていた。まあタイでもコロンビアでも、1日に撮れる現場の死体はせいぜい5体。まったく撮れない日も結構ある。待つことには慣れているとはいえ、ロシアの地獄の待ちは少々質が違っていた。僕は思いあまって「レーニンの死体を撮ろう」と考えた。赤の広場のレーニン廟の中にはレーニンの死体が永久保存されており、観光客も見ることができる。撮影は厳禁。僕はニコンF3を股間に仕込み、金属探知機をくぐり、当然反応するのでボディチェックを受けた。「エンジニアブーツに鉄が入っている」と言ってクリア、3メートルおきに立っている警官の目をかいくぐり、いよいよ廟へ入っていった。地下の狭く暗い部屋の中にレーニンはいた。蝋人形にしか見えない。兵士が3人、全員が死角を作らないよう別々の方向を注視し、身じろぎもしない。つまり無理だった。第一静かすぎた。立ち止まることも許されない。暗い廟を出ると太陽がまぶしかった。その夜、生まれて初めて酔って寝ゲロをはいた。胃液にまみれたパンのくずとウォッカでベッドが汚れた。「何をやっているんだろう、俺は……」そうして遂に取材許可が下りた。しかしこのモスクワ旅行は長期間だったにもかかわらず、撮れた死体はたった1体であった。それでも時間だけはとれたので8ミリも回した。検視官のコルサコフはこの成果を気の毒に思ってくれて、モルグの所長をしている友人に手紙を書いてくれた。後日、行ってみると「保健省の許可が必要」とあっさり断らてしまった。目の前がクラクラした。もう時間切れでもあった。警察署詰めの最終日、当直室にホテルのよりチャンネル数の多いテレビがあったので、今まで見たことのないチャンネルを回して何気なく見ていた。すると、なんと死体映像がバッチリ映っているレギュラーの犯罪報道番組をやっているではないか!コルサコフは「スタッフと同行取材するのが一番近道だ」と言った。それを早く言え!ああ、もう1回来なくてはいけないのか!もう1回、もう1回、そうやって僕はコロンビアへ4回出かけた。最初の旅行の直前、僕はアメリカ西海岸をぶらぶらしていたのだが、いきなり夜中に昔の恋人から電話がかかってきて「行っちゃだめだ。マジで殺されちゃうよ!」と言われてビビッてしまったし、行ったら行ったでサブマシンガンの銃撃戦に遭遇するし、それでも僕は常に何かに突き動かされていたのだ。僕はそれほど死体が好きなのだろうか?そうでもないと思う。死体はポートレートでもなければ単なるブツ撮りでもない。被写体として面白いことは確かだ。僕はそのフォルムに死体損壊の共犯者としての罪の意識を感じるほどひかれている。関係ないが、バンドのライブでベースを弾きながらよくガソリンで火を吹いていたのだが、1度客を火だるまにしてしまった時に、それが出来すぎたショーのようで妙に興奮してしまったことがある。僕にとっての死体を一言で表現するのは難しい。例えばボゴタのあるパーティーからの帰りに見た光景に持った印象はそれを説明するのに適当かもしれない。アルバロのガッタガタのルノーでボッコボコの道をカナビスとコカインでヘロヘロになりながらひた走る。僕は助手席で南の地平線近くにひときわ美しく輝く天の川を見つめていた。北米横断中にニューメキシコあたりで見た満点の星空以上の感動があった。一瞬のストーンの後、それがボゴタの中でも最も治安の悪い、丘陵地帯に張りついている貧困地区の街の灯であることに気付いた。僕は実際毎日のようにそこに出かけて何体もの死体を撮影していたので、そこの環境の劣悪さは知っている。しかし、その時の僕の気持ちよさは変わらなかった。カーステレオからはドアーズが流れていた。スパニッシュキャラバン、そしてムーンライトドライブ。人間の愛憎もスカトロも死体も、皆美しさを持っている。小津安二郎もピエル=パオロ・パゾリーニも、僕にとってはまったく等価であり心の師だ。そして僕は、死体カメラマンだ。

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