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「超・悪人」から「愛してる!」へ 白石晃士の描く女と性欲


【上映情報】2023/2/16追記

2/18(土)~2/24(日)、シネマスコーレで「愛してる!」が上映されます。
さらに! わたしナツメも出演する白石監督の新作短編「ミッドサマー・ウィッチ」も併映されます。よろしければぜひ!


白石晃士監督作品が好きだ。

白石作品といえば真っ先に想起されるのは「オカルト」「ノロイ」「戦慄怪奇ファイル コワすぎ!」シリーズなどのフェイクドキュメンタリーホラーだろう。次いで「貞子VS伽椰子」などの劇映画ホラーや、「バチアタリ暴力人間」「殺人ワークショップ」などのバイオレンス寄りの作品群を挙げる人が多いだろうか。

わたし個人として、強いてベスト3を挙げるとすれば、「オカルト」「コワすぎ!FILE-04【真相!トイレの花子さん】」そして「超・悪人」だ。
「超・悪人」は、大きく区分するならバイオレンス系のPOVということになると思うが、他作品にない特徴がある。
「青春H」という企画に寄せられたこの作品は、その企画名の通り「H」、つまり性や性欲、セックスがフィーチャーされている。強姦魔と処女の異色の純愛ラブストーリーだ。
2014年、今はなき吉祥寺バウスシアターのオールナイトで「超・悪人」を初めて見たわたしは、それはもうボロッボロに泣いた。これはわたしの話であり、フィクションによる救済であると思った。同時に、なぜ男性監督である白石晃士がこんな映画を撮れるのだろうか、と不思議に思った。

その白石監督が、日活ロマンポルノを撮ったという
ロマンポルノ50周年記念プロジェクトROMAN PORNO NOWに寄せられた「愛してる!」という作品は、はたして大傑作であった。
今でも「超・悪人」は大好きだが、それを超えてベスト3に食い込む勢いで、この「愛してる!」という作品は素晴らしかった。

今回は「超・悪人」の良さと、それを踏まえた上で何倍にもパワーアップし、この令和の時代感もうまく捉えている「愛してる!」の素晴らしさについて語りたい。
いつもnoteに書くのが後手後手になるので、なるべく上映期間中の早いうちに上げられればと思う。
などと言っていたら、10/20で東京の終映が決まってしまった。これから公開の地域もあるし、また都内での上映もあると信じて19日中に上げようと思う。
冒頭に追記したように、12月に池袋シネマロサでの上映が決定したようだ。もし、この記事を読んで興味を持ってくださった方がいたら、ぜひ劇場に足を運んでほしい。

自分の中ではどうしてもこの2作品の間に起こった変化が書きたいので抱き合せで書くが、「愛してる!」の感想だけ見たい人は目次から飛んでください。
あとわたしの初見時の感想ツイートも埋め込んでおきますね。

「超・悪人」

あらすじ

とある実録犯罪系雑誌の編集部にある日、1本のビデオテープが届く。そこには、過去10年間に107人もの女性を強姦(ごうかん)したと豪語する自称「悪人」の男からの告白と、ある強姦殺人事件の一部始終が収められていた。編集者の白石とルポライターのヤエコは、その男を取材するため指定された場所へ向かうが……。

https://eiga.com/movie/56258/

もう少し仔細にあらすじを説明する。以降ネタバレを含む。

悪人(宇野祥平)が送ってきたビデオには、強姦殺人の現場に加え、ある女性をストーキングする様子も写っていた。相手はメイドカフェで働く「みぃむぅちゃん」(高橋真由美)。次のターゲットだ。
悪人に呼び出された白石(白石晃士)とヤエコ(清瀬やえこ)は、すぐそこにみぃむぅちゃんの自宅があることを知らされ、そこで悪人が行う記念すべき108人目の強姦を記録しろと恫喝される。仕方なく犯罪に加担する二人。
帰宅したみぃむぅちゃんを縛り上げ、仲良くエッチするか、強姦されて殺されるかを選べとささやく悪人。それに対してみぃむぅちゃんは、自分は処女だと告白する。それでも良ければ仲良くエッチしたいと。
これは奇跡だと喜ぶ悪人にバレないよう、ヤエコは反撃を試みる。彼女は、悪人の過去の強姦の被害者であった。復讐を果たそうとするヤエコだったが、真実の愛を得た悪人はそれをはねのけ、己の命惜しさに反撃してきた白石もろとも手にかける。
邪魔者はいなくなり、悪人とみぃむぅちゃんは晴れて結ばれる。

処女と性欲と救済

「超・悪人」を初めて見た時ボロボロ泣いたと書いたが、それはみぃむぅちゃんのオナニーシーンだった。
母親から電話で「彼氏はいないのか」と聞かれ適当にいなした後、電話を切ったみぃむぅちゃんは一人つぶやく。
「うんざりだよ! 私だって彼氏欲しいし! やりたいし!」
「私だってやりたいよ! もう一人はうんざりだよ」
「私、けっこうイイ子なのに、どうして?」
そして彼女は泣きながらオナニーをする。

「非モテ女性」という属性は、創作においてあまりリアリティを持って描かれてこなかったのではないかと思っている。
いや、単に恋愛に興味がない女性や、いわゆる「オタク」で自ら恋愛を遠ざけているというキャラクターは過去にも多く存在しただろう。
しかしそういった本人の選択ではなく、「周りの女の子と同じようにごく普通に暮らしているのに、なぜか恋愛関係に至らないし本人はそれを強くコンプレックスに思っている」という造形を、わたしはこの時まであまり見たことがなかった。
さらにそのコンプレックスの内訳が「デートの経験がなくて恥ずかしい」とか「友達に比べて劣っているように感じる」とかではなく「セックス出来ないのが辛い」として表象されていることに大きな衝撃を受けた。

「一人称としての処女の性欲」は透明化されてきたように思う(「処女なのに性に奔放」という属性はアダルトコンテンツの文脈では存在するだろうが、それは性的な対象として描かれるもので、処女側の視点ではないだろう)。例えば、「一人称としての童貞の性欲」と比べるとその語られなさは明白だろう。
実際には、当然ながら処女にも性欲はある。(人によるが)自慰行為もする。それは生理的なものなので当たり前なのだが、体験談としても創作としても、他人のそれに触れる機会はほぼない。処女には性欲と共存するモデルケースがとても少ないのだ。

もう少し自分に寄せて話そう。わたしは二十代前半まで男性との性交渉の経験がなかった。本作を見る直前くらいまでみぃむぅちゃんと同じ処女だったわけだ。
当時すでに死語だったと思うが、「やらはた」という言葉があった。やらずに二十歳、という意味である。そんな言葉がある程度には、「二十歳を過ぎて性交渉の経験がないということは恥ずかしい/異常である/特筆すべきことだ」という規範が、世の中のどこかにはあったのだろう。そのぼんやりとした空気をわたしもまた内面化していた。
だから、オナニーしながらぽろぽろとこぼれるみぃむぅちゃんの叫びに、もうアホほど共感したのだ。DVD付録の第2稿脚本によると、みぃむぅちゃんの年齢は27歳だそうだ。わたしよりもその苦痛は深く長かっただろう。
(まあ、みぃむぅちゃんにはワキガという明確な理由があるので、明確な理由のなかったわたしよりも救いはあるのだがそれは置いておく)

そのみぃむぅちゃんにとって、自分に対して「惚れた」と言い、自分とセックスをしたいと言う悪人の存在は、まさに救済として描かれている。
これはまじで、処女であることにコンプレックスを覚えた人にしかわからない感覚だと思うのだが、そのコンプレックスを持つ者は他人から性欲を向けられたいと切望し、それを向けられない自分は生物としてなにか欠陥があるに違いないと考え、自分の身体を気持ち悪く感じるようになる。そんな処女にとって自分とセックスをしたい異性の存在は渇望するとともに、一生自分には訪れないであろう奇跡のようなものなのだ。
運命の相手を探して強姦をしつづける悪人にとってみぃむぅちゃんが奇跡だったように、みぃむぅちゃんにとってもまた、悪人の存在は奇跡だった。

同じ(ヘテロ)女性でも共感されにくいであろうこの感覚を、白石監督はなぜ描き出せるのだろうと不思議だったのだが、こうして書いてみると、もしかしたら童貞のコンプレックスとほぼ同じなのかもしれない。
いずれにしても、倫理観や道徳を抜きにすれば、この物語は「誰からも性欲の対象にされない自分」の人生に「愛情と性欲を同時に向けてくれる異性」が突如として現れる。さらに恥であるはずの「処女であること」を告白し、それすらも受け入れて奇跡だと喜んでくれるという、究極のシンデレラストーリーであり、処女への福音なのだ。

「超・悪人」ではもうひとり、ライターのヤエコという女性が登場する。彼女は悪人の最初の被害者であり、悪人へ復讐するために強姦ネタを取材しつづけて彼を探していた。ヤエコは悪人の行為を明確に憎んでいるが、一方で人生のほとんどを彼への執着に費やしている。自分が人生をかけて執着した相手とついに再会した時、相手は自分のことを覚えてもいない。悪人に性対象として見られたくはないが、自分の目の前で他の女と純愛を育もうとしている居心地の悪さのようなものも鮮烈に描かれていて、この点もものすごく面白い。

配信がないのが残念だが、興味があったらぜひ見てみてほしい。

問題点

一方で、客観的に見てこの作品に多くの引っ掛かりがあるのも事実だ。
むろん、フィクションの作品として、上記の内容を伝えきっている時点でこの作品の価値は揺るぎないのだが、2011年に撮られたこの作品を現在、2022年の感覚で語るならば、いくつか留意しておいたほうが良い点はあるだろう。

まず、根幹となっている「処女であることが恥ずかしい、辛い」という感覚自体、今の感覚ではあまり正しくないだろう。リプロダクティブ・ライツという言葉が提唱されて久しく、自分の身体や性経験に関する決定権は自己にあり、他人と比べたりするようなものではないというのが常識である。
だが、実際問題として、「それでも恥に感じてしまう」という心の動きそのものは現代にも存在するだろう。ただ、もしこの時代に同じテーマをやるのであれば、その点への言及(「恥じる必要がないとわかってはいるが辛く感じてしまう」)が必要になってくるだろうとも思う。

同じ観点で、「異性から性欲を向けられる」ことが「救い」になるというのも、ごくごく私的なものであり、常識的には間違っているということも、今だったら明言する必要が出てくるかもしれない。
みぃむぅちゃんはオナニーの際、「誰か来て」「気持ちよくして欲しいよ」と言うのだが、これは彼女の中の、性的な接触は自ら試みるものではなく、他者から与えられるものであるという意識の現れなのだろう。これが性別に起因すると明言されてはいないが、わたしたちは「性に積極的な女性ははしたない」という規範がかつてあったことを知っている。その規範に縛られている状態を無批判に描くことは、現在では難しいかもしれない。

なお、悪人の犯罪行為を通してカタルシスを得る構造や過去の罪が追求されないことに抵抗を覚える人もいるようだが、それはあらゆる犯罪系フィクションと同じなので、その点については2022年時点でもそんなに問題ではないと個人的には考えている。

「愛してる!」

あらすじ

ドキュメンタリーの密着取材を受ける地下アイドルのミサは、SMラウンジ「H」のオーナーから、女王様の素質があると見込まれスカウトされる。困惑するミサだったが、人気女王様カノンとの出会いを通して、知らなかった快感に目覚める。そして、アイドルとSMの世界双方で上を目指そうと決意をするが……。

https://eiga.com/movie/97267/

こちらもつづきのあらすじを書く。以降ネタバレを含む。

女王様見習いとして「H」に入店したミサ(川瀬知佐子)はカノン(鳥之海凪紗)の下で奴隷研修を受ける。
アイドル業も順調で、カノンのM奴隷として自分の欲求に素直になるのと比例して、アイドルとしての人気も上がっていく。研修を終え女王様デビューを果たしたミサだが、カノンに対してはいつまでも奴隷でいたいと言う。

ある日のライブ後、ミサは清純派アイドルのユメカ(乙葉あい)に絡まれる。イロモノのミサにファンを取られて気に入らないのだ。
そこへカノンが現れ、バイブを取り出しプレイを匂わせる。アイドルとしての仕事場でそれは無理だと拒絶するミサに、カノンは背を向け、そのままHにも出勤しなくなった。

ミサが自宅で動画配信を終えると来客があった。カノンだった。新しい奴隷と言ってユメカを招き入れ、ミサの目の前でプレイを始めるカノン。それ自体がミサにとってNTRプレイとなり、彼女は感涙しながらオナニーする。
カノンは奴隷用の首輪でミサの首を絞める。ミサは思わず言う、「愛してる」と。それは心からの告白だったが、最初に設定したストップワードでもあったため、カノンは手を離し出ていってしまう。
動画配信が切れておらず、その一部始終は生配信されていた。

配信後、ミサはライブに出る。そこにカノンが乱入。ステージに上がり、「お前が全部さらけ出せるか見届けにきた」という。ミサは観客の前で「カノンにいじめられるところをみんなに見てほしい」と欲求をさらけ出す。カノンはご褒美としてミサの顔面に放尿する。


ここまで書いてみたが、正直あらすじだとどんな話かわかりにくい。出来事の積み重ねよりエモーションの積み重ねで進むタイプの物語である。

内容の詳細については感想と一緒に語っていけたらと思う。

意識されない「当たり前の性欲」

わたしがこの作品を好ましく思い、かつ「超・悪人」との違いをもっとも大きく感じたのはこの点だ。

ミサは自分の性欲を完全に受け入れており、それに対して意識が向いていない
カノンと出会った日の帰宅後、ミサは密着カメラがいるにも関わらず我慢できなくなってオナニーをおっ始める。果てた後、カノンにおしっこをかけられた時にいかに興奮したかというのをカメラを回している佐藤(根矢涼香)に向かって語り、指についた愛液を見てケラケラ笑う。
(余談だが、この愛液を見て笑うシーン、「なにがおもろいねんw」となってこっちも笑ってしまう。まじでなにをそんなに笑うことがあるのかw)

先述のみぃむぅちゃんの自慰シーンと比べて、なんとあっけらかんと健康的なことか!
このシーンに限らず、そしてミサに限らずすべての登場人物において、この作品では「性欲」というもの自体へのネガティブな感情が一切表現されていない
これが本当に心地よく、またこの物語をより遠くまで行ける(ポスターのコピーにあるとおり)ようにしている大きな要因でもある。

「超・悪人」では、自分自身(身体・精神)と性欲が釣り合っていない様が描かれていると感じた。性欲があるところにみぃむぅちゃんの苦痛があった。それを苦痛たらしめているのは、問題点の項で挙げたようなある種の規範であり、その規範は、こと女性と性欲を分断するようなものだった。
身体や精神と切り離された性欲は「特別」なものとなって前景化される。「性欲がある自分自身とどう向き合うか、性欲がある自分自身をどう受け入れるか」という段階の話であって、いわばマイナス地点からゼロに向かうような話だ。

「愛してる!」で、もはや性欲は自分自身と渾然一体となり、それ自体にフォーカスが当たることはない。
ロマンポルノは見てこなかったのでその文脈で語ることはできないが、性を主題とし扇情的な内容を作ろうとするときに、この「性欲の前提化」はなかなか攻めた手法なのではないかと感じた。
というのも、性的興奮を喚起する要素の一部には、間違いなく「罪悪感」「背徳感」「特別感」があるからだ。こと女性の性欲を秘めたものとし、それを暴く/覗くという構造、あるいは自分にだけ開示されるというようなシチュエーション、そういったものが情欲を煽るというメカニズムは、いまだアダルト的娯楽表象において健在であると思う。
女性キャラクターが自身の性欲を受け入れるということは、彼女の性的な行いには罪悪感も背徳感もなく、また特別でもないということだ。つまり、エロティックを演出するためのひとつの要素を丸々捨てている。

だが、これこそが「愛してる!」という作品を特別で最高たらしめている点であり、また現在のわたし(たち)がブチ上がれる点でもあるのだ。

セックスは楽しい! というモデルケース

2011年の「超・悪人」から2022年の「愛してる!」の変化は、そのまま時代の空気感の変化であるとわたしは感じている。

「超・悪人」の良さは、見落とされてきた悩める処女に寄り添う姿勢だった。悲しみや辛さというネガティブな感情に共感し、そこからの救済を描くことで、見ている側も一緒に救われる。

一方で「愛してる!」はモデルケース、憧れの姿としてわたしたちの前を進んでいる。
先述のように、この10年で性にまつわる認識や常識は大きく変化している。ジェンダー間の性にまつわる意識の差は徐々にフラット化され(身体的なものは置いておくとして、理念的な部分や観念的な意味でだ)、「性欲も当たり前にもつ一人の人間」としての自己認識がしやすくなったように思う。
とはいえ、われわれはまだ、楽しいセックスのモデルケースをあまり持っていないのではないかとも思う。それは先述の通り、性的興奮と背徳感が文化的に強く結びついているからだ。これは何も女性に限ったことではなく、男性キャラクターであっても「隠されない=オープンな性欲」は笑いに転じてしまうことが多い。
登場人物が性欲を隠さないという前提の上で、ちゃんとエロティックに描く。それこそがわたしたちが、少なくともわたしが、今この時代に求めているポルノのあり方だと思った。

調教を受けたあと、ミサはカメラの前で「すげー気持ちよかったッス」と語る。その笑顔を見てスクリーンの前のわたしが感じるのは、あけすけな性欲への萎えではなく、ギャグとしての笑いでもなく、楽しいセックスの幸福感である。

遠くまで 人類普遍の「魂の解放」と「愛」

ここまで主に性欲やセックスについて話してきたが、「愛してる!」の主題はそこではない。むしろ、すでに述べたようにそれらを前提化することで、もっとずっと遠く、深いところにたどり着いている。

もし仮に、この話の主人公が性的な事柄に恥じらいがあり、葛藤や抵抗を見せながらもSMプレイを介してそれらを克服し、自分の性欲と向き合っていく物語だったらどうだろうか。変化としてはわかりやすいが、ここまでの感動は作り出せなかっただろう。
「超・悪人」はマイナスからゼロへ向かう物語だと述べた。むろん、マイナス地点にいる人に寄り添う作品というものは必要だし尊い。そこで大事になるのは終着点ではなく、そこに至る経緯である。
一緒に遠くまで行くよ!」というコピーが書かれている「愛してる!」はそれとは正反対と言えるアプローチで、終着点で見たことのないところに連れて行くことが重要になる。そのためには、スタート地点がプラスであればあるほど良い。
全員が性欲に対して葛藤がなく、それにポジティブで貪欲という前提は、何メートルも先に進んだところから物語を始められるブースターだ。

では、この映画はわたしたちをどこまで連れて行ってくれたのだろうか。特殊性癖の極北? いや、むしろその反対だ。
自分ととことん向き合って本当の望みを自覚すること、余計なことをうっちゃって本当にしたい・すべきことを貫くこと。「魂の解放」だ。
この言葉は「殺人ワークショップ」の予告で使われており、本編中でも「解放や!」という印象的な台詞が何度も発されるが、「愛してる!」で描かれているのは「殺人ワークショップ」以上の魂の解放であるとわたしは感じた。
これまでの話を言い換えただけになってしまうが、ミサは物語のスタート時点で、精神的にマイナスな点がない。アイドルとしてうまくいってはいないが、自分のスタイルを貫いているし、落ち込んでも悩んでもいない。
「超・悪人」のみぃむぅちゃんは処女であることを悩み、「殺人ワークショップ」の参加者たちはそれぞれ誰かを殺したいほど憎んでいる。彼らに訪れる「解放」は「苦痛からの解放」だ。
しかし、苦痛がない状態からミサは「解放」される。良いものはより良く、美しいものはより美しく。それはこれまで到達したことのない高みへの到達であり、世界認識のレイヤーがひとつ上がるような体験だ。モノリスみたいなものである。

実際ミサはモノリス的な役割を果たしており、クライマックスのライブは見るものの認識を変えていく。その象徴として配置されているのがユメカだ。
ユメカは悩みや妬みなどのネガティブな感情に支配されている人物であり、マイナスからゼロに向かう物語であれば主人公に相応しいと言えるかもしれない。しかし本作は彼女を周縁に置く。
自らの痴態が生配信されたことを気にして、ユメカはアイドルを休業、もしくは引退したらしい。対照的にステージに上がろうとするミサに「なんで? 恥かくだけだよ」と詰め寄るが、「ライブ見てってよ」と返されてしまう。
そのライブで、ミサはコルセットを脱ぎ捨て胸をさらして歌い、乱入したカノンとのプレイを繰り広げ、最後にはご褒美としてカノンのおしっこを飲む。これはミサの「本当にしたいこと・すべき」であり、彼女がまだ見ぬ境地に到達した瞬間だ。
このとき、ミサ、カノン、ユメカ、三者の笑顔が映し出される。自分の望みを貫いたミサ、特別な相手であるミサと真に心が通じ合ったカノン、そして、その変化の瞬間に立ち会ったことでこれまでのしがらみから解放されたユメカ。
明言されないが、おそらくこの時ユメカは「アイドルとして売れるためにやりたくもないキャラづくりや営業をやらなきゃいけない」「その努力をしないで好き勝手してるのに売れてきているミサが妬ましい」「私のほうが可愛いのに納得いかない」「ミサへの嫌がらせとしてカノンの奴隷になってやろう」などの、これまで彼女の中の多くを占めていた考えや感情がぜんぶ「余計なこと」だったと、理屈ではなく体感でわかったのだろう。見えている景色が変わる瞬間である。
わたしはこのシーンのユメカの横顔を本当に美しいと思う。敵役、嫌なヤツとして登場したユメカだが、嫌なヤツのまま勝ち逃げするのでも痛い目を見るのでもなく、そのユメカまでもを連れて遠くまで行く。だからこそこの映画の主題には説得力があり、深い感動が呼び起こされるのだろう。

そして本作がたどり着くもう一つの着地点、それがタイトルどおりの「愛してる!」つまり「」だ。
「超・悪人」も愛の物語ではあったが、みぃむぅちゃんに関していえばどちらかというと愛されることによる自己実現、自己肯定という色が強い。「殺人ワークショップ」でも他者から解放されて自分自身を取り戻すというような方向性だろう。そのパワーは内向きで、自分を一人の人間として完全なものにする、受け入れるというところが終着点になる。
「愛してる!」では、そこからさらに世界が広がる。自分という人間をしっかりと持った上で、他者との関係に目を向ける。「一人の完全な人間として、主体的に他者を愛する」。これがこの映画の本当の終着点ではないだろうか。

この観点では、ミサよりもむしろカノンの変化が大きいように思う。
ミサのほうはシンプルで、もともとは「愛してるって言葉は簡単に言うもんじゃない」という考えの持ち主だ。自分はまだ本当の愛を知らないし、だからその言葉を口に出すこともない。そう思ってストップワードに設定するが、ついに得た「本当の愛」の相手はそのストップワードを使う対象である女王様・カノンだった。一度はプレイとしての制限に阻まれるが、ステージで「オレはこの女を愛してしまった!」と真実の想いを口にし、その愛情を全身で示して、二人は愛によって強く結ばれる。

他方、カノンは基本的に考えていることがわからないように撮られている。だが、ミサへの感情はいち奴隷から特別な相手へと変化しているのがわかる。
最初にその変化を見せるのは、ミサとの決別のシーンだ。終演後のライブハウスでミサに「すみません、自分はそこまでは」とプレイを拒絶されたカノンは、バイブを投げ捨てて去ってしまう(このときの「え?」とも「あん?」ともつかない威嚇するようなカノンの声がめちゃくちゃかわいい)。これは女王様=プロのSらしからぬ行動であり、研修の延長、契約としての主従関係ではなく、カノン個人の感情からの行動であるように見える。
ミサから拒絶されることなど想定していなかったのだろう。この時点でカノンはまだ「ご主人さまと奴隷」という関係にあぐらをかいていたのかもしれない。
次に登場する時、カノンは新しい奴隷としてユメカを連れているが、その意識は完全にミサに向けられている。ユメカはミサとのNTRプレイの道具にすぎない。この時、カノンがどのようにミサとの関係を回復しようとしていたのかは謎だが、ストップワードである「愛してる」を言われて再び動揺する。それを拒絶と受け取ったのか、はたまた愛の告白を受け入れる準備がなかったのか。
配信後のライブで、カノンは覚悟を持ってミサの気持ちを確かめにくる。自分のミサへの愛情は、ミサのM願望を満たしてやること。そしてミサはもうすでにそれに応える準備があることもわかってきているはずだ。ミサの部屋で受け止めきれなかった「愛してる」を一人の時間で受けいれ、その返事をするためにカノンはやってきたのだろう。だから、このライブシーンは本作の中でもっとも「プロレス的」であると思う。もう答えは決まっている。どう決着するかはお互いにわかっている。だが、確認するためにあえて観客の前でそれを見せる。プロレス・アイドル・SMの3つの要素が完全に一体化した素晴らしいシーンだ。

こうしてミサとカノン、双方からの「愛」がしっかりと描かれて、エンドロールへとつながる。もう女王様のコスチュームもいらない。SMという縛りもいらない。同じ部屋で過ごし、キスをしてセックスをする、愛し合う二人の姿で映画は終わる。
このラストシーンが象徴するように、この映画で描かれる終着点はごく普遍的な幸せなのだ。この二人の場合はそれが恋愛関係という形だったが、何もそれに限ることはない。自分のしたいことをして、好きな人を好きでいること。誰にでもできるが、その実ほとんどの人がそこに至るまでのどこかで機能不全を起こしている。とても近くてとても遠い、美しい境地まで、この映画はわたしたちを連れて行ってくれるのだ。

その他のよかったところ

記事も1万字を超えて、ついでに19日に上げると言っていたのに日付も変わってしまったので、ここからは駆け足で行こう。
細かい描写や各俳優の良かったところもとても多かったので、書けるだけ書き出しておきたい。

  • ミサの曲がめちゃくちゃ頭に残る。「赤い爆弾娘さ」の部分の昭和感たるや! 配信でも良いので音源出してください。

  • ryuchell×フェイクドキュメンタリーの意外な相性の良さ。これは観客がもともと「タレントとしてのりゅうちぇる」を知っていることの効果のように思う。まったく知らない俳優が同じ喋り方をしていたらリアリティないな…と思いそうだが、実際にあの喋り方で普通に喋っているの知っているので、逆にごく自然に感じるという不思議な経験をした。

  • カメラマン佐藤、過去イチ動じないカメラマンじゃないだろうか。カメラ全然ぶれないし基本的にちょっと苦笑くらいですべてを受け入れている。カメラマンの存在感が薄くてちょっと残念な気もしたが、話の内容的にこれ以上存在感があるとノイズになるのかもしれない。

  • 高嶋政宏の説得力。やはりフェイクドキュメンタリーに本人役はテンション上がる。

  • 縛られたミサが腰を前後にヘコヘコさせる描写が本当にめちゃくちゃ好き。良かった。5億点。女の子が感じている描写として「膝をもじもじ」系じゃなく「腰をヘコヘコ」にしたのすごくセンスがあると思う。実際感じてる時って腰が動くと思うんですよね。リアルだしエロい。

  • 緊縛が好きなので(実際の経験は2回くらいしかないけど)、縄で抱きしめられる感覚がセリフで言語化されててよかった。最初のHのステージでも、縄解くときに後ろから抱きしめてる描写があったし。

  • M男たちみんなとても良い。ここで変に(役ではなく演者由来の)雄みみたいのを出されると萎えるな……と危惧していたのだがそういうのが一切なかった。特に大迫さんのM男の演技はものすごく良かった。

  • ミサがムチ打つときの「いきたいね!? いきたいね!?」って掛け声がなんかおもしろすぎる。あとミサが縄咥えて見得を切るところも意味わかんなくて好き。

  • カノンがミサの首締めるときのコートのシルエットがなぜかたまらなく好き。美しい。

  • 最後のライブで「動画撮っていいですよ」ってアナウンスを流すことでマルチアングルできてるの、シンプルながらとても良い。あのシーンはユメカが重要なので絶対必要な設定だった。でもライブそっちのけで客席のユメカがオナニーしてるのを真横で盗撮してるやつがいたんだな……と思うとちょっと微妙な気持ちにもなるw

  • 上でも書いたが、ミサの「オレはこの女を愛してしまった!」というセリフが本当に涙腺に直撃する。

  • カノンのM男神輿入場がカッコ良すぎる。カッコ良すぎてもう笑いとか出ない。カッコ良い。

  • カノンの声とスタイルがあまりにも通るし目を引くので、「天才女王様」のキャスティングとしてあまりに完璧だな……とため息が出る。相対的にミサの声はマイク通してもけっこうBGMに紛れがちなんだけど、キャラに合ってるので問題ない。

  • 全体を通して性指向が一切話題にならないのが潔くていいと思う。すくなくともこの作品に出てくる人物で性別の組み合わせを気にしている人間がいない。現実との関連を考えると場合によっては問題の透明化にもなりそうだが、本作は上手いバランスで良い方に転ばせているように思う。

白石晃士の描く女と性欲の未来

「超・悪人」「愛してる!」の2本を「女と性欲」の観点から見てきた。
世の中には「男性作家なのになんでそんなに女の気持ちがわかるんですか!?」と思う作家もいる。わたしの場合はケラリーノ・サンドロヴィッチや京極夏彦の作品でそう感じる。
だが、白石監督については、やや感じ方が異なる。女性の視点で撮っているというわけではなさそうなのだが、それでいて女性を対象化しているようにも感じない。不思議なバランスだ。
わたしにはこのバランスがとてもハマる。
うまく言語化できないが、ただそこにある「出来事」や「現象」として女性と性にまつわる事柄を扱っているように思う。だから時代感覚も反映されるのかもしれない。
白石作品のなかで性をメインテーマとして扱ったものは稀だが、その稀な2本が2本とも傑作であるので、ぜひまた数年後に撮ってほしいといちファンとして思う。その時は、もしかしたら「女」という要素すらも取り上げなくなっているかもしれない。時代の感覚によってその内容も自ずと変わってくるだろう。

と、最後に実はもう一つある白石監督の性を扱った作品、King Brothers / The MachineのPVを貼っておこう。

https://youtu.be/Nmjs5LmZax4
※年齢制限があるので埋め込みができなかった

わたしも出演してるので見てね!(最後の最後に宣伝)

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