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肌に馴染むまで時間を割く


はじめに


文章に起こすという行動は、私にとってかなりハードルが高い行為だ。

理由は単純明白で、誤字脱字が可視化されるからである。
加えて文章の改行や句読点のタイミングで生まれるリズム、選ぶ表現や言い回しにその人の地力が現れるように思う。露呈するのが恥ずかしいのだ。

実際どのようなテンションで筆を取っているか、技術がないと伝わらない。
話す時と違い吟味できる時間が与えられているから、不用意な婉曲表現を差し込んだり、比喩を考えたりと空白で余計な事をしてしまう。

そんな事を踏まえた上で、なぜ文章を書くのか少し整理してみたい。

人に向けて書く

社会人になってから文章を書く機会は格段に増えた。
Webライティングの仕事はインターンの頃から継続しているから、
正味5年以上携わっている事になる。
会社で適性が認められ、最年少でプロジェクトの責任者にもなった。

しかし、上記のような執筆はいわば事務的な作業に過ぎない。

既に言語化されている概念をパズルのように当てはめていく。
読者の求める情報を、出来るだけ最新かつ信頼できる情報元から収集する。
だから一度「評価される」文章のコツを掴めば難しいことではない。
創造ではなく、検索エンジンとのいたちごっこだ。

上記で培われたのは、構成力と情報収集力。その程度だと思う。
残念ながら私の求める「書く」とはそのようなパズルゲームでは無い。

心の有り様をどのように人に伝えるか。
分からないまま放っておかず、文字の中から見えない景色や心情を見える形で外に出力する。いわば苦しみを伴いながらも、一つ一つ決定する行為である。

そこに言葉を紡ぐ事の難しさと奥深さがあるように思う。
決して独りよがりでは完結せず、読み手の存在があって初めて成立する。
音楽も同じだ。

手紙の筆が進まない

先日、気がつくと母の日だった。
欲しいもののリクエストを聞いた時、手紙が欲しいと言われた。
また先日ひょんなことから、ご高齢の茶道の師匠のご家族に手紙を書く機会があった。

さて、必要に駆られて便箋と封筒を用意したものの、どう言葉を紡げばいいかまるでピンとこないのだ。

この場合、双方日頃の感謝を伝える事がゴールだが、その結論に至るまでの助走、踏み切り、着地の肉付きが甘い。いざとなると相応しい具体的なエピソードが出てこない。

とはいえ思ってもいない事を書くのは違う。仕事の時のように提携文を使ったり、情報を収集して雛形に落とし込むのは見透かされるだろう。

ここでふと自らの想いを言語化して整理し、人に伝える筋肉が心底衰えていると感じた。

無論、何も感じていない訳ではないのだが、日々その都度、言葉にするほど大きな起伏ではない。時間と共に過ぎ去ってしまったものを、必要な時に引っ張り出しても、今回のように風化していてもはや原型を留めていない。

つまり最初から他者に伝える前提で出来事を記憶し、人と話さなければ、
どんなに親しい人間とのやり取りでさえも、まるで覚えていられないのだ。

現状、ぼんやりとした「楽しさ」「安らぎ」が残るだけの穴である。

これでは趣がない。だから文章で感情の起伏をあえてストレスをかけながら決定することで日々を仮固定したい。人に対して文章を書くこと=伝えることである以上、ここは乗り越えたいと強く問題意識を持った。

堅苦しくない発散の仕方を身につけた

話すことは自分にとって最もストレスのかからない表現方法だ。
毎週2時間以上PODCASTを収録する生活を、友人と5年近く続けてきた。

トークが熱量を帯びればまるでうねりのようなリズムが生まれ、多少の言葉の間違いはそこまで重要なミスではなくなる。話し手が楽しんでいるのは本当に伝播する。だから今は何よりも収録を楽しむ事を大切にしている。

懸念事項である自力の露呈に関しても、回数をこなし過ぎて完全に高望みできない程、自分の話術の低さという現実をみている。
マイクの前で話すことも、最初こそ抵抗があったが、もうプレッシャーは感じない。

最近はラジオ番組の生放送にも呼んで頂けたが、結局本質的にやっていることはPODCASTと変わらないので、本当に慣れだなと腑に落ちた。

執筆は喋ることよりも昔から得意な事だったが敬遠してきた。得意なことで鼻っ柱を折られるのは一番精神的にダメージが入る。だから直接的な評価を受けることを避け続けてきたが、今はその事を悔いている。

沢山数をこなして、さっさと高望みを捨てること。
そこからやっと地に足が着いた持久走が始まる。

稀有な事ばかり

PODCASTをやっている上で、毎週トークを用意するのは至難の業だ。
生きていて、そう面白いことは何度も起きてくれない。

そうなると、残された選択肢は1つしかない。
自分の認識できる領域を拡張する。これしか今のところ方法が無いのだ。

恥を承知で知らない世界に飛び込む。
その世界の規則を外側から観測する初心者として、新鮮な視点を手に入れることができる。その領域に慣れるまでは、自分の体験談を嬉々として語り、場を持たせられる他、疑問に思ったことを消化する事で学習にもつながる。

慣れてくるとその領域独特の文化や美徳が見えてくる。
あくまで腰を下さずに、気軽に暖簾を括るイメージで、その共同体の中の取り決めや規範に左右されてみる。いわば巻かれる先を選ぶといった形だ。

そしてまた、来週の収録に向けて少しずつ新しい体験に挑む。
恐ろしいもので、このサイクルを週次で繰り返すと、新しい体験に飛び込む事にも慣れてきてしまうのだ。そうなるとハードルがどんどん下がっていく。

新体験・新挑戦・能力の拡張がトークの種になるだけでも美味しいのだが、
失敗して悔しい思いをしたり、辱めを受けるとなお素晴らしい。

こういった事なら驚くほど筆が走る。
だから最近は気になる事への挑戦は確定事項で、開始するタイミングだけを考えている。

仮説:朗読こそが解決策

Audibleというサービスを愛用している。

元々音声コンテンツは好きだったが、活字を読む、分厚い本を開く事に若干及び腰になっていた私にとって、このシステムは驚くほど画期的だった。

何といっても、とにかく気軽に本に触れられる。元来、本というものは私の集中力の全てを持っていくものだったが、音声になることでマルチタスクが可能になり、移動中や休憩中でも、好きな時に本の世界に閉じこもれるようになった。

また耳から入ってくる情報の方が、目で追うよりも体力の消耗が少ない上に脳への定着率も高い。一気に聴き終えた時の達成感はなかなか心地よいものがある。本に慣れる免疫を獲得する上で、これ以上ない入り口になった。

ここで、エッセイを作者本人が読む朗読というスタイルに出会った。

Audibleは有名な作品を俳優さんや声優さんが朗読する為、声の好きな人を選んで本を選ぶ、という本来ならばあり得ない選び方も魅力である。

しかし、本人が書いたものを読む。これに勝る朗読体験はないかもしれないと思った。書き手と読み手の解釈が完全に一致しているからだ。

そして何より、自分への救済措置になり得ると確信した。

文章を書く事のボトルネックは、堅苦しい文章になってしまうこと、単純に「書く」筋肉が衰えているので、ストレスで恐らく続けられない。

しかし、朗読を前提にすると人に伝える前提で構成を練る上に、読む行為、つまり散々やってきた喋る行為の類似でハードルを下げられるのだ。

これを試験的に導入し、書く筋肉を取り戻す。
そして、朗読を通して読み物としてのリズムを文章の中に芽吹かせる。

私は心の有り様を先人たちの様に卓越した文章や比喩でありありと書きたい。痛みに慣れるために回数が必要なのだとしたら、さながらこの方法は補助輪をつけているようなものだが、私の最適解だと感じている。

おわりに

思いつきで書き始めたが思ったよりも時間がかかってしまった。
これから慣れるまでは暫く続けていきたい。










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