フラットな視点で進化論と創造論をくらべる

・正直よくわかんなくない?っていう
進化論と創造論のどっちが正しいかって正直よくわかんなくない?って話なんだけどさ。
いや、僕自身は進化論が正しいと考えていてそれがなんでかってとこまでここで書こうと思ってるんだけど。

進化って基本僕らが生まれるずっと前に起こったことだし、創造論も神様が生き物作ったとこを実際に見た訳じゃないのにどっちが正しいってなんでわかるの?っていう。

日本に住んでたらまあほとんどの人が進化論が正しいって言うけど、でもなんで正しいのかちゃんと説明できる人って正直あんまりいないと思うんだよ。

普通の人はどこでどんな化石が出たとか知らないし、遺伝子がどうのみたいな細かい話もよく知らないんじゃないかな。

8割の人は単純接触効果でそう信じてるだけだと思うんだよ。
接する機会が多い話を本当だって信じちゃうとかなんかそんな感じのやつ。
まあ進化論に限らずだけど。

例えばこの世界のあらゆるものは原子が集まってできてるって言うけど、それが正しいと言える根拠まで説明できる人は少ないんじゃないかな。
まあその話は今はいいや。

結局、日本で生まれ育ったら進化論を信じるようになるし、アメリカで生まれたら半分くらいは創造論を信じるようになる。
この数字が本当かどうか知らないけど。

別に日本人方がアメリカ人よりも頭がいいとか理性的だとかっていうことじゃなくて、みんながそれを正しいと思ってるからそうだって信じてるっていう話。

じゃあ自分もその程度の認識でみんなが言うことを信じておけばいいや、とは全然ならなくて、本当はどうなのかやっぱり知りたい。

これってどっちが正しいんだろうって問題は進化論に限らず世の中に山ほどあって、それを全部どっちが正しいかよくわからないってすませていると、何もかもが理解できなくなるし全然面白くない。

少なくとも自分が興味ある範囲、おもしろいと思うことについては何が正しいか知っておきたい。

僕は進化の話が面白いと思うし、どうやって生き物が生まれたか興味がある。

大昔に魚が陸に上がって両棲類が生まれて、恐竜が繁栄する時代が来て、大量絶滅の後に哺乳類が栄えて、みたいな話が僕は好きなんだけど、それが現実とは関係ないファンタジーの話です、ってなっちゃうとこの面白さは激減する。

それに何にもなかった地球にいつのまにか生き物が現れたのって不思議で面白いことだと思うんだよ。

・フラットな見方でくらべたい
どっちが正しいかを考えるなら、先入観なしで判断したい。

創造論者はなんか宗教っぽくてあてになんないけど、進化論者もなんか一方的な感じがしないでもない。

創造論なんてデタラメだって言いたくなる気持ちもわかるんだけどさ。
そもそも神様なんていないんだから。

でもそれって先入観で、どっちが正しいか判断する上では邪魔なものなんじゃないかって気もするんだよな。
そもそも創造論って神が不可欠でもないし。

ネットで検索すると特になんだけど、進化論と創造論の議論って自分の側が正しいって話ばっかりでフラットに見たときに参考になるものって少なくない?って思ったりする。

神がいようがいまいがどうだっていいんだけど、生き物はちょっとずつ進化していろんな種に分化していったって考えた方が観察とか実験とよくあうのか、それとも突然パッと生き物が誕生したって考えた方がよくあうのか、そこが議論の本筋でしょっていう。

質量とかエントロピーとかの時間的連続性を考えると突然パッと誕生するってなんだよって気持ちもよくわかるんだけど、生物が連続していた可能性もしていなかった可能性も両方排除しないで、どっちが実際のデータとよくあうかで考えたいんだ。

現在でもいろんな種類の生き物が現実にいて、すでに絶滅した過去の生き物の姿も化石からそれなりにわかって、生き物のDNAなんかも読めるようになってって感じで、議論に使えそうなデータが結構そろってきた中で、じゃあそれをもとにして現実を合理的に説明できるのはどっちかっていうのを真正面からくらべようと思うんだよ。

・生物は連続しているか?
進化によっていろんな種が生まれたのか、それともいきなり完成した種が現れたのかって、要はその間に連続性があったかってことだけど、そこで大きな争点になるのが中間種の問題なんだよね。

連続してたなら間になにか見つかるよね。してなかったらないはずだよねっていう。

で、僕はこの議論だけじゃ進化論が正しいか創造論が正しいかってよくわからないんじゃないのって思ってるんだけど、その話の前にまずはちょっと中間種についてどんな議論がされてるかって話をしようと思う。

まずは中間種って何かって話。
これは進化論が正しいとすると、ある生き物と別の生き物の間には進化的なつながりがあって、進化の過程ではその両方の中間的な生物がいたはずだっていう考えをもとにしてる。
この中間的な生物種が中間種で、中間種か見つからないところをつながりが失われてるってことでミッシングリンクなんて言ったりする。

この中間種の問題には2つの論点があって、1つは種と種の直線的なつながりについてで、もう1つは1本の線が2つに分かれるように分岐した場合について。

直線的なつながりがどういうことかっていうと、例えばキリンだったら、昔はもっと首が短いキリンの祖先がいて進化論はそれがだんだん長くなったっていうんだから、その中間の長さの生き物がかつてはいたはずっていう話。
ある点とある点の間に線が引けるなら、その間にも点が存在するはずでしょっていう。

もう1つの分岐っていうのがどういうことかっていうと、例えば現代でもヒトとか魚とかいろんな種類の生き物がいるけど、ずーっとさかのぼればそれが1つの種にたどりつくよねっていう。
この向きを逆にすると、1本の線が2股に分かれて2本の線に分岐する。
だからこの分岐点の生き物もかつては存在していて、探せばその化石も出てくるはずでしょっていう。

この2つ目の点は結構誤解を受けやすいんだけど、どんな生き物の間でも、例えば人と魚でも中間種がいるはずなんだけど、中間種っていうと人のようでもあり魚のようでもありみたいな、魚人とか人魚みたいな生物のことだって思う人が結構多かったらしい。

でも実際には分岐点の生物には、その分岐点よりも過去のことしか反映されない。
分岐した後に身についたり失われたりする特徴も当然あって、そういった特徴は中間種が持っている特徴とはみなされないんだよ。

だから魚みたいな分岐した点からあまり姿を変えてないような生き物の場合は、中間種っていう言葉の響きに反して魚そのものの姿をした生き物になる。

まあこれは魚っていうざっくりした分類を使ったからであって、本当はどの魚も分岐した後にも進化を続けているから話はちょっと変わってくるんだけどね。
例えばマグロとかカレイとかとヒトとの中間種は、マグロでもカレイでもない分類でいうと魚だけど今生きているどの魚とも違う魚ってことになる。

哺乳類なんかは分岐した後の進化が色濃く出ていて、クジラとゾウの中間種は?とかいうとクジラともゾウとも全く違う姿の哺乳類になる。

とういうことなんで、生物は連続してるの?してないの?っていう連続性を考えた場合、こういった中間種の化石が見つかるかが大きな議論の争点になる。

・化石の証拠は完全か?
実際に中間種は見つかっているのかっていうと、見つかっているとも言えるし、いないとも言える。

例えば魚から両生類に進化する過程だけども、魚と両生類までの間にいくつかのレベルで両生類っぽさを持った魚の化石が見つかっているんだよね。
魚だとひれは体の横にひらひらついてるだけだったけど、そのひれに肉がついた肉鰭類っていう魚がでてきて、そのうち胸びれの中に骨が入って腕みたいになったやつがいて、さらに胸びれと尻びれに骨があるうえに間接があって頭と体の間に首もあるやつがいて、みたいな感じで。

これがじゃあ厳密的な意味で中間種かっていうとそうとも言いきれないんだけどね。
っていうのは、例えば遠い未来にヒトがこの先もずっと進化していって別の種になった場合を考えてほしいんだけど、
文明は一度崩壊して、その新ヒトのずーっと祖先のサルの化石は見つかっているけど、ホモ・サピエンスの化石は見つかっていないとするよ。
で、地面を掘ってたらネアンデルタール人の化石を見つけましたって場合に、じゃあこれって中間種なのっていう。

この場合、ネアンデルタール人は祖先サルと新ヒトの中間的な特徴を持っているけど新ヒトの祖先じゃないから厳密な意味では中間種とは言えないんだよね。
じゃあ、ホモ・サピエンスの化石が出るまで頑張ればいいかっていうとそう話は簡単じゃなくて、もうその頃には地球上にホモ・サピエンスの化石が存在しないか、そうでなくても確率的に見つけることが不可能なくらい数が少なくなっているかもしれないんだよ。

死んだ後その生き物が化石になって、しかもそれが地表近くの発掘可能な場所にあるって実はかなりレアケースで、全ての生き物が化石として見つけられるわけじゃないんだよね。
この産地ではこの時代のこの地域の生物群が化石として残ったけど、それより前の化石を探そうと思ったら他の産地は何百万年か時代が空いててしかも場所も違う、みたいなことになる。

だから、これが中間種って君たち言うけど前後では存在していたこの特徴がないから中間種じゃなくない?みたいな批判をされると、確かにその通りなんだよね。

あと全ての化石が見つかるわけじゃないっていうのも問題で、個別の種についてこれとこれの中間種が見つかってないよねってツッコむ余地がほとんど無限に存在する。
理屈で言えばあらゆる種の間がいくらでも分割できて無数の中間種を想定することが可能なんだけど、現実的にはすべての中間種どころかごくごく一部を見つけるだけで精一杯なんだよね。

じゃあ、人間の力じゃ全ての生物種を網羅することは不可能だって開き直って、それでもいくつかの種の間に中間的な特徴を持つ生き物が見つかっているから、それは厳密な意味では中間種とは言えないかもしれないけど連続的なつながりを示すには十分でしょ。それがこれだけ見つかっているんだからもう進化論が正しいでいいじゃない。
こんな感じで考えてる人が結構多いんじゃないかな。

でも本当にそうなのかな。
そうやって言う理屈はわかるよ。
どうしたって無理なもの無理だけど、少なくとも現在見つかってるあらゆるデータや化石の証拠を進化論は矛盾なく説明することができる。

でもあらゆるデータを矛盾なく説明できるということなら創造論でだって可能なんだよ。
だって神がそうやって作ったって言ってしまえばいいんだから。

・一見もっともらしいけど間違った仮説は存在する
誤解のないようにもう一度言っておくけど、僕はやっぱり進化論が正しいと思っているし、それがなんでかってところまで書くつもりだけど、でももうちょっとその証拠だけじゃ進化論が正しいとは言えないっていう話を書いていくよ。

統計学には、どれだけ明確な相関関係があったとしてもそれは因果関係があることの証明にはならないっていう考え方がある。

例えば、ある夏のソフトクリームの売り上げと市民プールの利用者数には明確な相関関係があるとする。

だからって別にソフトクリームの売り上げが上がったことが市民プールの利用者が増えた原因ってことにはならないし、逆に市民プールの利用者が増えたことが原因でソフトクリームが売れたってことを示す証拠にはならない、という話。

ソフトクリームの売り上げと市民プールの利用者数の間に因果関係があるっていうようなそれっぽい理屈を考えることもできる。
市民プールの近くにソフトクリーム屋さんがあるかもしれないし、運動するとエネルギー補給のために甘いものが食べたくなるのかもしれないし、他にも桶屋が儲かる的な理屈でいいならいくらでも考えられる。

だけどソフトクリームが売れたのがその日の気温が暑かったからだったらどうだろう。
その場合、市民プールが混んだのも同じ理由かもしれない。
そうなると、ソフトクリームが売れたから市民プールが込んだということにも、その逆にもならない。
何か別の原因があって2つの現象が起こった時、その2つに因果関係がなくても相関関係は発生するのだ。

相関関係があってそれを説明する理論があっても、それだけじゃ因果関係を示すことにはならないんだよ。

進化論で考えると、横軸に時間をとって、縦軸には両生類っぽさみたいなパラメータをとったグラフにいろんな化石をあてはめていったら、明確な相関関係があらわれるかもしれない。
でも統計学的に言えば、このグラフでいくら相関関係が認められようとそれは進化的な因果関係を示すことにはならないんだよ。
ましてやこのグラフに全然のらないような別種の生物とか、両生類への進化が起きた後も魚であり続けたやつらの化石は意図的に取り除いて、グラフに乗るやつだけをプロットするわけだしね。

じゃあ相関関係じゃなくて因果関係であることってどうやって証明するのって話なんだけど、科学的な方法としてよく使われるのは対象実験だね。
その原因となると思われるものを取り除いたときに結果がどう変わるかを調べるっていう。
食べ物が腐る原因が微生物にあるかどうか調べるには、微生物がいる場合といない場合でどうなるか実験して比べてみればいい。

とはいえ進化の場合は地球の歴史をもう一回やり直すなんて不可能だから対象実験のしようがないんだよね。
人間には1万年以上の品種改良の歴史があって、60年以上暗室でショウジョウバエを飼って遺伝子変異を調べてる暗黒バエの実験もあるけど、今のところ創造論者に新種が生まれたと認めさせることはできていない。

いくら中間種が見つかろうと進化論を証明することにはならないというわけ。

・矛盾なく現実を説明できる仮説が複数ある時の対処法
最後にするのは、あらゆる観察・実験の結果を矛盾なく説明できる仮説が複数あったときに人はどうやってより合理的な仮説を選択するのかという話。

進化論も創造論も実際のデータを矛盾なく説明することができるんだ。
じゃあ両論併記でいいじゃない?いやいやそんな話じゃ終わらせられないよっていう。

で、たぶんオシャレな人は反証可能性とかそういうので説明するんだろうけど、僕的にはもうちょっとスッと腑に落ちた例えがあったので今回はそっちを使ってお話ししようと思う。

これはとある裁判員裁判で使われた例えなんだけど、、、
朝起きて庭を見ると前日には全くなかった雪が一面に降り積もっていた。
それを見れば雪が降ったところを直接見ていなくても夜中に雪が降ったことがわかるでしょう。

知らぬ間に庭に入ってきた見知らぬおっさんが人工降雪機を使って庭一面に雪をまいたとか、あるいは魔法使いが雪を降らせたとか、他にも矛盾のない仮説を立てることはできるけど、誰もそれを合理的な仮説とは考えないよね、という話。

これは直接の証拠を得られなかった検察が被告を有罪にするために使ったんで結構批判が多かったんだけど、何が合理的かを考えるにはわかりやすい例えだと思う。

要は万能の力を持った都合のいいおっさんが全てを解決するような仮説は合理的ではないという話。
そんなことを言うと創造論はもともこもない感じがするけど、まあまずは科学一般の話から。

科学的な仮説ならばそんなおっさんは一切登場してはならない、かというと実はそうとも言えない。
例えば昔、気体の性質を調べたときに、人間の能力では観測できないほどの小さな粒を仮定すると多くの事が説明できる、なんてことがあった。
この小さな粒は実在を確かめることも、存在を否定することもできない、あるともないとも証明できない存在だった。

中身を覗けない箱の中に実は妖精が入っているみたいな、そんな馬鹿げたことは科学で議論すべきことじゃない。
そんなことを考えて批判した人は結構多かったみたいだ。

おっさんの話をしていたのに妖精が出てきてなんだか変な話だけど、おっさんも妖精もあくまでも比喩だからね。
要は、何かを説明するために実在が確認・証明できないものを使ってもいいのかという話で、科学的な議論であってもそういった存在が全くないというわけではないということが言いたかった。

ちなみに、原子の存在が確定的とされたのは、植物学者ブラウンが水の上を微粒子がランダムに動く現象を発見して、アインシュタインがそれを分子の運動を用いて数式化して、それをペランって人が技術的な困難もありつつも実験で確かめたという流れらしい。
それまでは原子を使ってうまいこと説明できるって話だったのが、原子を使わないと説明ができないって現象が見つかったのが大きかったみたい。

今ではいろいろ条件はあるものの原子の観察ができるようになってきて、正体不明のおっさんはおっさんでなくなりつつある。

話を元に戻すけど、実は進化もこのおっさん的要素を含んでいるんだよね。
いろいろな化石記録があって、その点と点を線で結んでその間に進化があったと言うけれど、その間に起こった出来事を証明することはできない。
上の方に書いた中間種の議論をざっくり言うとそういうことだ。

これって、原子が証明も否定もできなかった状態とちょっと似てる気がする。
過去をタイムマシンで覗き見ることができない以上、箱の中の妖精は確認する術がない。
化石の証拠をうまく説明できるって点も、原子を使うといろいろなことがうまく説明できたことと似ている。

じゃあ、原子の話のときみたいに、進化論を使わないと説明できない現象はないかって話になる。

これは創造論が、神がそうやったって言ってしまえばありとあらゆることが説明できてしまうものだから結構厄介なんだよね。
創造論があらゆることを説明できるから、進化論を使わないとっていうのが難しい。

でも、都合のいいおっさんをたくさん使わないと説明できないって例ならいくつか見つかっている。

例えば、なぜ生物がこんなにすばらしく環境に適応した姿をしているのか。
これについてはおっさんが人間には想像もできないくらい優れたデザイナーだったからという説明が創造論ではなされてきた。
おっさん1”神が生物種を生み出した” + おっさん2”神は優れたデザイナーで環境に適応した優れた性質をデザインできる”

優れたデザインを自由に生み出せるのなら、なぜ”4足歩行で羽も生えたトカゲ”だとかいった進化論的にはありえないような生物を生み出さなかったのか?
→ おっさん3”神にはデザインのクセがあり、そういった生物は進化論的にありえないのではなく神がそのデザインを好まなかったのだ”

他にも、同じような環境にありつつも地理的に分断された場所では異なる種が暮らしているのはなぜか?
尾てい骨、視神経が束ねられた死角、クジラの足の名残などもっと優れたデザインがありながらそれを採用しなかったのはなぜか?
などなど、進化論を用いれば簡単に説明できることを投げかけるたびに、新たなおっさんが量産されていく。

神の存在という最高に反証不可能な仮定の上にいくつもの反証不可能な仮定を重ねていかなければならないような仮説はとても科学として扱えないだろう。

もっと言えば、ダーウィンが自然淘汰という概念を発明した後、突然変異が発見されて、突然変異の積み重ねで動物の特徴が変化していく様子も観察されていって、みたいな過程があって今や進化論の方はおっさんがおっさんじゃなくなりつつある。

そんなこんなで、科学的な仮説としてみるとやっぱり進化論に軍配が上がるというお話。

進化論が正しいって一般に考えられているほど自明じゃないってことと、そこで話が終わるとじゃあ創造論が正しいの?ってなりかねないんで長くなったけど進化論のほうが合理的だと考えられる理由までまとめてみた。

今回の話はあくまで化石による証拠を中心とした話で突然変異の話がほとんどできなかったから、進化論は本当におっさんを絶滅させることができたの?ってところがこれだけだとまだはっきりしないかな。
そこら辺の話はまた今度書こうと思う。

蛇足
ドーキンスの”進化の存在証明”をこれ書き終わったら読もうと思っていた。
なにかしら知識のアップデートがあるといいなあ。
この本自体あんまり新しいものではないんだけどね。
あと反証可能性とベイズ推定についても詳しい本を読みたい。
反証可能性に関する議論の原点でもあるカール・ポパーのやつは専門書でやたら高いから、昔新書で流行った99%は仮説みたいなタイトルのやつを読み直そうかな。

以上

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