小諸の旅 #シロクマ文芸部
秋桜の丈まで霧が降りてくると小諸は秋だ。
恋人まゆとのたった一度だけの旅、それはこんな秋の日のことだった。
まゆと僕は同級生、僕たちの高校は芸術が音楽、書道、美術、の三科目に分かれていて、僕は一番楽そうな音楽を選んだ。そのクラスでめぐり会ったのがまゆだった。彼女は成績が良く、運動ばかり得意で劣等生の僕からは、なにか気安く近づけない雰囲気を持っていた。そう、あの日までは。
二年三学期最後の歌唱テストは、「千曲川旅情の歌」を一人ずつ皆の前で歌う、というものだった。藤村の詩「小諸なる古城のほとり・・・」にメロディをつけたものでかなり難しい。すっかりあがってしまい、僕は見事に音程をはずして身の縮む思いで席に戻って来た。次はまゆの番。なんと彼女も同じところで音程が外れ、僕は内心ほっとした。歌い終わって目が合ったとき、彼女がかすかに微笑むのを見て僕の胸はドキリと脈うった。わざと間違ってくれたのだ、僕を励ますために・・・一瞬で恋に落ちた。
三年生になったらクラスも変わり告白する機会もないまま卒業、
再会したのは十年後の同窓会だった。彼女は苗字が変わっていたが、
僕は独身のまま。周りに人がいないのを見計らって、酒の酔いも手伝い
「一緒に旅にいこう」と誘うと意外にもOKの返事。僕は舞い上がった。
行く先は小諸、僕の予約した小さなペンションは秋桜咲き乱れる高原の近くだった。天井の一部がガラス張りになっていて星の見える部屋。ベッドで愛を確かめたあと、身を寄せ合ったまま空を眺めた。あいにく
星は見えなかったが滲んだ半月が浮かび、僕たちをのぞき込んでいるようだった。
「月の裏って地球からは見えないって知ってた?」
まゆがささやき声で言った。
「え?そう?」
「うん、だからお月様の裏側に隠れていたら絶対だれにも見つからないのよ」
「それはいいね」
僕もささやき声で言い、彼女の背に耳を付けた。
「まゆの声を一人占めしたい。こうすればまだ外に出る前の声が聞けるだろ」
「じゃあ、千曲川旅情の歌、歌おうか、音程はずして」
僕たちは笑いあった。もうすぐ別れなければならない者同士の、寂しい笑い声だった。
翌日はよく晴れて、秋桜の咲く道を手を繋いで歩いた。
「コスモスの葉って編まれたレースみたい。レースみたいに指をからませていても、あの葉っぱと同じで風が吹いたら離れちゃうね」
まゆの言葉に、僕は黙ってその手をギュッと握った。
その後すぐまゆはどこかに転居し、連絡が取れなくなった。ご主人とうまくいっていなかった、という噂も聞いたが、どうすることもできなかった。
僕は今でも「小諸なる古城のほとり・・・」と歌う。まだ音程をはずしたまま・・・
おわり
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