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平和とは

平和とは、一度失うと取り返せないものだ。

私は昭和15年砲兵隊付の軍医として、支那(現在の中国)に渡った。最初は馬に乗っていたが、すぐに砲弾の標的となった。被弾して虫の息となった馬と別れるとき、馬の大きな瞳から涙がポロリと流れ出たのは忘れられない。馬の係だった兵隊が取りすがって泣いていた。後に分かったことだが、戦地に派遣された馬は一頭も帰って来れなかったそうだ。

駐屯していた場所も分からなかったが、行軍、行軍の毎日で弱って倒れた兵隊をどうすることもできなかった。
「連れて行ってくれ!行かないでくれ!」
という声が遠くまで追いかけてきた。

占領地では病人を診た。遠くから歩いたり荷車に病人をのせてたくさんの患者が集まった。一度も医者にかかったこともない患者も多く、少しの投薬で直るものが多かった。足や首に出来た腫れものを切除して直すと、「何もないがお礼に」と当時貴重な鋏をもらった。

大陸では空襲が激しく進軍中敵機がよく来た。低空の戦闘機を射撃し、墜落させたこともある。迫撃砲を受けて負傷兵が出たというので、前後を兵隊に守ってもらい急行すると射撃され、兵隊は戦死自分も膝を撃たれた。近くで迫撃砲弾が破裂し足に細かい破片が入り、一生取り出せないままになった。クリーク(水路)が多く、水に三日も浸って戦ったこともあった。

昭和21年2月瓦礫の山であった鹿児島にたどりつき、貨物列車に押し込まれて帰還できた。その年にマラリアを発症、高熱にうなされ、戦地での栄養失調がたたって、歯が全部抜け落ちた。

そのまま故郷の村で医師として昼夜いとわず働いてきたが、70歳のときついに、被弾した足が立たなくなり、寝たきりになった。飲まずにいられなかった深酒がたたり糖尿病も発症した。

医者でありながら他人の命を奪い、瀕死の兵隊を打つ手もなく放置したこともある。「軍医殿、殺してください」と言った兵隊の声が耳の奥に残ったままだった。平和の世になったが私の心に平和は戻ってこなかった。

76歳で亡くなった祖父から聞いた話はこれで終わりです。 
      


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