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【小説】save you

【save you】
お題:『生きている理由なんて、そんな』
https://shindanmaker.com/392860

 鉄の味がする。
 殴られた頬が痛い。口の中を切ったのだろう。じわりと不快な味が舌をざらつかせる。男は忌々しい顔をして俺を見下ろしてから、ふんと鼻を鳴らして自室へ戻っていった。投げ捨てられた鞄と荒らされた居間を見て、俺は溜め息を吐いた。
 熱を帯びて痛む頬を押さえながら立ち上がる。腕や腹を蹴られたが、取り敢えず身体は動くようだ。よろよろと居間を出て、しっかりと鍵の掛けられた扉をノックする。
「俺だけど」
 カチャリ、と鍵の開く音がして、中から妹がそろそろと扉を開けて覗き込んできた。そしてすぐに俺の顔を見て小さく悲鳴を上げてから「早く入って」と俺を部屋へ招き入れた。重い足取りで部屋へ入り、殆ど倒れ込む形で床へ座り込んだ。
「大丈夫?」
 再度しっかりと鍵を掛けてから俺の肩を抱く妹の手は、何処か震えていた。無理もない。先程まで大人の男の罵声が家中に響いていたのだから。そして、目の前に傷だらけの俺がいれば、恐怖で震えない方がおかしい。
「大丈夫だよ」
 せめてもの強がりを見せるも、妹には逆効果だったようだ。妹はかぶりを振り、涙を浮かべて俺を抱き締めた。
「もうお兄ちゃんが傷付くのは嫌だよ」
「俺は大丈夫」半ば自分へ言い聞かせるように繰り返す。「大丈夫」
 そうして、俺も妹を抱き返す。妹は相変わらず俺の腕の中でぐすぐすと泣き続けている。妹を泣かしてしまったのが心苦しくて、身体の痛みよりもそっちの方が辛かった。
 俺を殴ってきた男は、母親の再婚相手だった。俺達の本当の父親の顔は覚えていない。妹が生まれてすぐ父親は死んだって言っていたけれど、多分嘘だと思う。母親は男癖が悪くて、今までも取っ替え引っ替え男を連れて来ては遊んでいたから。
 結婚と離婚を繰り返す度に父親が変わり、中には妹へ手を出そうとする奴もいた。当然、母親はそれを知らない。俺はそんな輩から妹を守る為に、子供部屋へ鍵を付けて、絶対に俺から離れないように言った。そうして、俺は男達——父親と呼ぶのも憚れる——の矢面に立って、全ての鬱憤が俺へ向かうように仕向けた。そうすれば、妹の事を守れる。そう信じていたから。
「さっきさ、言われたんだ」ぽつりと呟く。妹は黙って俺を見上げている。
「『お前は何の為に生きているんだ』って」
 本当はもっと汚い言葉で罵られたけれど、言わなかった。
「俺が生きている理由なんて、そんな。今更聞くまでもないよな」
 抱き締める腕の力を強める。俺の命は全て妹の為のものだ。妹が生きていてくれればそれでいい。
 すると、妹は俺の腕の拘束から逃れるように身体を捩らせ、俺の胸を押して身体を離した。思い掛けない事態に身動きが取れずにいると、妹は俯いたまま、ぱたぱたと涙を零しながら呟いた。
「お兄ちゃんの重荷になりたくないの」
「そんな、俺はお前を重荷だなんて思った事なんて無いよ」
「お兄ちゃんが私を守る為にお父さんに殴られているの、知っているから。お兄ちゃんが私を守ろうとしているのと同じ位、私だってお兄ちゃんの事を大切に思っているの」
 肩を震わせる。そう、そうなのだ。妹が俺を大切に思ってくれているのは知っている。俺達の願いが相反する事も。じゃあ、どうすればいい。俺はお前を守りたい。お前も俺に傷付いて欲しくない。俺達の願いは同時に叶わない。
「ねえ、お兄ちゃん」
 消え入りそうな声。傷の痛みと連動する、耳を打つ心臓の鼓動が煩い。妹の一字一句、聞き逃さないように耳をすませる。今すぐ抱き締めたい衝動を抑える。
「何?」
「私のお願い、聞いてくれる?」
 ああ。多分、その先は。
「いいよ」抱き締める代わりに、そっと頭へ手を伸ばす。柔らかな髪が指先に触れる。妹の髪へ触れるのが好きだった。大きくなっていく妹の身体へ触れる度、俺が妹を守れたのだと実感出来た。この身体は俺が守った。だから。
「お兄ちゃん」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔を向けながら、妹は離したばかりの腕を伸ばしてきた。引き寄せられるように妹を抱き締める。暖かい。そしてやはり、その身体は震えている。嗚咽混じりの吐息が熱い。
「お兄ちゃん」
 その先はきっと、聞いてしまったら終わりだと思いながら。
「うん」
 俺は妹の肩越しに頷いた。俺が生きている理由なんて、そんな。
 妹が望む事をしてやるだけだ。
「一緒に——」
 溺れていく。息が出来なくなる。
 俺が俺でなくなったら、妹は悲しむだろうか。

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