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【小説】Lemonade

【Lemonade】
お題:『習慣ほど怖いものはない』
https://shindanmaker.com/392860

◇Mili - Lemonadeより
https://youtu.be/_-9YVWH6YZI

 冷蔵庫から買っておいたレモンを取り出して丁寧に洗い、包丁を入れる。柑橘類の爽やかな香りが鼻をくすぐる。
 皮ごと薄切りにして、少し大きめのタッパーへ敷き詰める。その上へ砂糖を重ねて、更に上から残りのスライスしたレモンを乗せる。それを何度か繰り返して、最後に蜂蜜を加えてラップをする。まるで宝物を捧げるように両手でタッパーを持ち上げて、冷蔵庫へしまう。明日の朝には美味しいレモンシロップになっているだろう。
 入れたタッパーの代わりに、残り少ないシロップの入った瓶を取り出す。それと、よく冷えたミネラルウォーターと氷。それらをイッタラの——模造品の——グラスへ入れる。青い、ペアになっているグラス。デザインも本物とよく似ていて、普段使いする分には全く問題がなかった。シロップが水と混ざり合って、グラスの底が歪んで見えた。お手製のレモネード。冬はホットレモンにしてもいいし、炭酸水と割ってレモンスカッシュにしてもいい。
 けれど私は、レモネードが一番好きだった。懐かしい味。思い出の味。明日もきっとレモネードにして飲むんだろう。そんな事を考えながら、もう一つグラスを手にしようとして、止めた。もうそうする必要はなかったのを思い出して、私はかぶりを振った。
 染み付いた習慣というのは怖ろしいもので。もうずっと繰り返してきた事だから、簡単には抜け切らない。
 気を取り直して、出来たばかりのレモネードを手にリビングへ向かう。今日は珍しく湿度も高くなく、カラッとした暑さになりそうだった。広いリビングに差し込む光が少しだけ優しく感じる。グラスへ光が乱反射して、これが夏の象徴であると言われたら信じてしまいそうだった。
 フローリングへ腰掛けて、レモネードを口にする。少し苦くて、少し甘くて、少し酸っぱい。明日出来上がるシロップも同じくらい美味しいといいなと思う。レシピを覚えてからずっと変わらない味。
 この味を、私の作るレモネードを、世界一だと言ってくれた人がいた。
 もう、その言葉を聞く事は出来ないのだけれど。
「あっ」
 考え事をしていたせいで、手に持っていたグラスを滑らせてしまった。カランとグラスが転がる軽い音と同時に床へ溢れるレモネード。早く拭かないと染みになってしまうと分かっていながら、私はその光景をじっと見つめたまま動けなかった。
 毎日一緒にレモネードを飲んだ。それが習慣になっていた。君は美味しいってお揃いのグラスを手に微笑んでくれた。私も君のそんな笑顔が見たかったから、何度だってレモネードを作った。君が私のレモネードを気に入ってくれたから、私もいつしかレモネードが一番好きになっていた。
 なのに、君はもう私のレモネードを飲む事はない。溢れてしまったレモネードが二度とグラスへ戻らないように、君も、そうなってしまったの?
 どうしてなのかしら。君は飲みかけのレモネードも、そして私も。全部全部置いて何処かへ行ってしまった。
 どうしてなのかしら。少し苦くて、少し甘くて、少し酸っぱい、まるでレモネードのような愛を置いて。
 どうしてなのかしら。沢山のものが私から零れて戻らない。
 キラキラと煌めく、床のレモネードとグラス。明日も明後日も、きっと私はシロップを冷たいミネラルウォーターで割ってグラスへ注ぐわ。そうしていつか、今日と同じように床へ零してしまって、その度に思い出すのよ。いつか君がもう一度、私のレモネードを美味しいと言ってくれるまで。
 君の事を。床へ広がるレモネードを。戻らない様々なものを。
 お願いよ。私からこれ以上零れ落ちないで。

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