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高校数学と大学数学の違い


変化する数学

ありふれたテーマに対してわざわざ私が述べる意味もあるのかないのか不明だが私なりにどんなギャップがあるのか、どのような考え方で勉強をしたら良いのかを考察してみようと思う。
大学に入れば分かると思うが、大学数学と高校数学のギャップは凄い。ネット上では高校物理が大学では数学になり、高校数学は大学では哲学になると言われている。これは一部正しく、私個人も大学以降の数学には哲学性が出てくると思っている。まずは高校数学と大学数学でどのような違いがあるのか見てみよう。

高校数学

高校数学言うなればパズルゲームであり、問題は決まった問題に対してアルゴリズムを組むことである。例として皆さんの家を想像してみてほしい。そこにおいて「麻婆豆腐を作りなさい。」というのが高校数学の問である。決まりきった問題に対して「台所に向かう」→「まな板と包丁等道具を取り出す」→「調理する」→「盛り付ける」という解法を考える、という能力が求められるのが高校数学である。このことは一部ではパターンゲームとも言われている。

大学数学


大学数学はこれとは違う。大学以降に求められる重要な能力は物事の構造を分かり、その本質を理解することである。例えば家の構造を理解するのが大学数学である。今、家の中からボウルを探したいと探したいと思う。高校までの数学であれば「まな板が台所の戸棚に入っている」、「包丁が台所の戸棚に入っている」、、と言うのを全部覚えるという手法により勉強が進むが、大学ではそうではない。どういう思考をするのかと言うと、未知の道具ボウルに対して「ボウルは料理をするときに使う」→「料理は台所で行う」→「その近くに調理器具がないと不便だ」→「ボウルは台所の戸棚に入っているだろう」というふうになる。簡単な例だが実はこの思考をする為に克服するギャップは多くある。例えば調理器具が台所に存在することを導くには調理時に調理器具が近くにないと不便という感覚がないと不可能だろう。この感覚は基本的に本には書いていないものの絶対に身につけていないと困るものである。
ここで問題である。今冷蔵庫にあったはずのジュースがない。皆さんならどこを探すだろうか?人によって違いはあるだろうものの答えはリビング(溜まり場)である。実はその家は自分の弟がよく友達の溜まり場にしていて、ジュースを飲みながら皆でワイワイ楽しむという事が行われていたとする。そうするときっと昨日弟の友達が遊びに来たのにジュースを飲んだものの片付けなかったのだろうなということの想像がつく。ここには友達が来たときにはテンションが上がっていたり、話すことを優先して冷蔵庫にしまうのを忘れやすいという本質だったり、人が沢山いると一回注いだからといって一々冷蔵庫にしまわないという物事の本質が隠れている。
大学数学において大切なのは未知なものの構造に対するこのような数理的感覚であり、高校数学のように人が来たらジュースを注ぐその手順的な問題ではないのである。

必然性と一意性の話

つまり上記例では調理器具がどこにあるか、ジュースがどこにあるかというのは存在位置に対して我々はある種の必然性を感じているということになる。これと同じように大学数学においてはその物事の必然性を感じることが最も重要なことの一つになる。例えば一意性は必然性に対して解を与えてくれるものであり、それを注意深く考えることで数学力が格段に上がるだろう。例えば次の記事は三角関数の必然性について考察した記事である。

上記記事は実は結論が「座標空間を導入しその方角を考えた瞬間に(座標軸が数値的に意味のある具体的なものとして提示されているのならば)三角関数の概念は必然である」という趣旨のものなのである。そして角度$${\theta}$$から座標成分$${x}$$への変換$${\cos \theta = x}$$に対して値を一意にするために単位円を考えているのだ。この本質は制限が単位円であることではなくて、制限を設けたときに一意性が出るということである。即ち半径が7の円でも三角関数は定義することが出来、そう定義したとて今ある数学的理論体系にも本質的影響を与えないことは明らかであろう。
私の記事が小難しいのは常にその必然性を意識しているからであるが数学が得意になるためにはそれは必須事項だ。そして普通そういうのは成書には書いていない。例えば下記内積の記事でやっていることは正射影の直感的重要性から内積の直感的必然性を出すことである。

即ち重要な感覚はまだその概念が定義されていない世界にタイムリープしたとして、自分も定義を覚えていないとしても「現在の形と本質的に一致する定義を私なら作れる!」と思えることであり、実際に私は高校数学はもちろん大学教養数学くらいなら全ての定義についてその必然性から定義を自分で作成出来るという自信がある(※自信だけであり、実際には難しいのは知っているがそれでも…という感覚)。

暗記はしない

基本的に暗記はしてはいけない。高校数学に慣れた人は最初は事実上絶対に無理であるので、基本スタンスとしてだけ聞いてほしいが、定義も定理も証明も全てについて暗記は必要ない。定義さえ覚えるものではない。上述したようにそれは必然的に分かるものであるからだ。私は本を読むときに定義が出てきても大して立ち止まることはない。その本質だけすくってさっさと次に行く。詳細的に足りなかった部分が後から出てきたときに参照することは多くあるが、暗記のストレスなく後から「あれ、定義ってなんだっけ?」という感覚のみである。しかし常に必然性を考えるとしても、それを言語化するのは難しいかもしれない。内積というトリビアルなものすらその必然性を出そうとすると難読化しているので学部生には隙なく必然性を出すことは基本的に無理かもしれない。つまり大抵最初は言語化出来ない直感的必然性であると思うがそれで良いのである。重要なのは腑に落ちていないことを、形式だけ完璧に出力できるというだけで腑に落ちていると誤魔化すことである。数学の唯一の絶対的ルールは(相手ではなく)自分に嘘をつかないことである(※間違いを犯さないことではない)。

本が読めない問題

勉強とは比較的正しいであろうベクトルで思考していることそれ自体である。即ち本が読める読めないとは本質的無関係である。知識量も関係ない。ゆえに「×冊読みました」というのは100%無視でよろしい。
例えば大学数学の本と言えど不当に簡単な数学書というのがある。そういうのを読むと線形代数や微分積分に対してのある程度の知識は付くしページも進むだろう。それはやった感(※実はこのこともモチベーションという観点から軽んじられるべきではないことである)としては意味があるが、勉強という観点では1ページも進まないより実は進んでいないのかもしれない。クリティカルなのは思考時間だからである。
ただし注意が必要なのは難しすぎると思考が止まる事がある。考えが思いつくうちはたっぷり時間を使って延々と考えて良いが、それが止まった時は別のやり方をすべきである。だから矛盾するようであるが、難しすぎて全く読めない本はこの意味で意味をなしていない可能性がある。
また詰将棋でもそうであるが、3手詰みたいな当たり前の所では深く考えすぎず詰み手順を知るということも大切である。あんまり簡単な問題にこだわり過ぎると同じ思考が何度もループされ時間が勿体無い。これは将棋をやったものなら誰しもが分かる感覚であろう。

他と比較しない

ネットには化け物学生が沢山いる。その化け物学生達は実は10年前も化け物学生であった・・・。
つまり数学を続けている人はあまりいない。敵わないと思う相手が出現しても(数学者になっているのかもしれないが)結局いつか辞めている。結局凄く難解な分野を喋って凄そうに見せたかったり、精神的に美しいと思わせたいだけなのだ。諦めないことが重要なのでまるで気にしなくていい。人生というスパンで数学をやるのでその瞬間瞬間において誰が凄いだの偉いだの疲れるだけでまるで意味がない。
私の身近にいた先生で解析学賞を取った人がいる。つまり日本を代表する数学者である。その人は地方国立大出身であったし、授業で「3年生の夏にコルモゴロフの函数解析の基礎を教習所に通いながら読んでいましたね」と言っていた。それは(勿論トップクラスの学生でないといけないと思うが)驚くほど早いペースではない。解析学賞は年に3人ですね?その反面、(天才)東大生は何人出ますか?
つまり学部生のうちは微積、線形代数、位相空間をしっかり極めること。これが非常に重要である。基礎が出来ていれば応用的な数学などいつでも出来るし、それに出来ればいいのは自分が選択した応用的数学のみである。

自由という精神

いろんな記事で言っているが重要なのは自由に考え自由に行動するということだ。自由こそ数学なのである。誰かに縛られやることほど苦痛なことはない。やらなければならない数学などは人によって全然違うし、そもそもやらなくてはならないことなどないのかもしれない。例えば解析学をやりたければ代数学や幾何学をやることなどほとんど時間の無駄である。しかも解析学でしっかり奥まで進んでいたら初めてやる代数学や幾何学も学部生レベルなら難しくなくほぼ自明でありいつでも取り返せる。

やりたい事を自分で考え自分で行動する。我々は人生を他人に委ねるべきではない。
そして人生こそが大事であり数学とは単にそこに花を添えるものなのである。

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