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書きたいことがある、気がする

ごきげんよう。フレネシです。

かつて音楽を作ることもありました。が、今はほとんど作っていません。
これまでにフレネシ名義でアルバムを4枚出しているものの、音楽を作る人だった時間は人生の中でそれほど長くはなく、作る機運が高まった時に短期間で作り、あとは何も生み出さない(ライブをすることもあったがこれは音の再生で生産ではない)という感じでした。

始めて作ったのが7歳。音楽教室で理不尽に叱られた反動で生まれたような記憶があります。1曲作ったら母がとても喜んでくれたけれど、いったん正気に返ると自分の曲への恥ずかしさがこみ上げ、その先はひたすらインプットの時代が続きました。

リスナーだったりプレイヤーだったりするうちに、アウトプットの手段が増えていき、10代の終わりまでは、楽器に触れながら4~8小節程度の作曲・編曲をドリルのように日々繰り返していました。歌詞は好きなインストに詞を付けたりして、勉強の合間にノートに書き残していました。

私の場合、作曲と作詞は目的ではなく、あくまでも手段でした。何のための手段かというと、生きる上でのバランスを整えるための手段で、それは必然だったように思います。

十数年前、韓国人の友人と英語で会話している中で「ミュージシャンとして有名になって成功することが目的じゃないなら、なぜ音楽をやってるの?」と聞かれ「バランスを取るために作らざるを得ないから作ってる。出すなと言われても生きていたら出る。排泄行為と一緒」と返したら「ごめん意味が分からない」と言われ、全く理解されなかったことがありました。私の英語が拙かったせいももちろんあるけれど、何語であろうが夢のある話とは無縁の、排泄行為のような副産物的な音楽の存在意義は伝わらないものかもしれないとも思いました。

そういうわけで、必然性がないとアウトプットへはつながらず、最近は夢の中で作曲したりイメージが湧いたりすることはあっても、「この音は別に残さなくてもいいか…」という気持ちになってしまい、いつまでもまとまらない音の星雲が頭上に湧いては消えていくような状態です。

これに関して一つ、重要な因子があります。私には6歳になるネシ夫(仮名)という一人息子がいて、彼の存在が私のアウトプットを無効にしているような気がします。無効にするというか、回収するというか、循環させるというか…何といったらいいのかわからないけれど、今のところはバランスが取れているのです。

その代わり、ネシ夫は今のところ超絶アウトプッターで、1つ新しいことを知ると10倍返しで出してくるようなところがあり、もうちょっと咀嚼してから出してはどうかと思わざるを得ないようなテンポ感で、寝る間も惜しむほど絵を量産したり、文字を書いたり、モノを並べたりしています。

そんな彼の行く末を見守るという任務があるので、私は正気でい続けなくてはいけません。正気でいる間は、おそらく音楽は私の頭上で星雲のままなのです。




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