【映画批評】戦争と女の顔
ごめん。これは駄作です。駄作ってなんや? もちろんその定義は様々です。これを良いと感じた人もいるでしょう。様々なことを感じ、学び、今後の人生に教訓として活かせる人もおられるでしょう。 でも人間は映画を観た際に「あ〜これ駄作。。。」って断言する権利は皆が持っていると、自分は信じています。なのでこれは駄作。駄作と言っちゃう。つまり、超個人的な意味での駄作ってことです。
なにをごちゃごちゃとみみっちいことを言っているんだろうね。これがいつもの戦争映画レビューなら「眠っちまう度100」、「金返せ度100」、「ワクワクする度0」「総合得点20点とか書きなぐった挙げ句にトンズラかますところですが。そうも言ってられない事情もあります。とりあえず、今回はめちゃくちゃ酷評記事なので、この映画の深みに更に浸りたいという方はこの文章を読まないようにお願いします。
とりあえず、この映画は2時間半ぐらいあるんですが、自分は1時間半で途中退席しました。貴重な休日、わざわざ時間と金の負担をかけて劇場まで映画を観に行ったのです。つまらない映画にそんな真似をするほど若くはない。絶対おもしろいだろうと確信して観に行ったのです。途中退席なぞ誰が望みましょう。しかし、そうせざるを得なかった。それほどこの映画はイマヒトツだったわけです。
どういう映画かと言えば、これはノーベル文学賞スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」を原案と仰ぐ作品なのですね。「原案」?「原作」とちゃうんかい、と多少の胡散臭さを感じていたのは否めません。テーマは戦争に従軍した女性がトラウマを抱えつつ戦後をどう生きたか?といったもので、まあ、そう言われたら確かに「戦争は女の顔をしていない」そのものと言えましょう。なので、あまり疑うことなく、前評判などもほとんど調べずに、少ない余暇を見繕って劇場まで出かける計画を立て、どうにかこうにか時間を作って観に行きました。しかし・・・
導入は良かった。舞台は終戦直後のレニングラード。異常に背の高い看護婦が主人公。彼女が発作を起こして立ったまま固まっている。周囲の同僚はああまたか、今度は長いわね、といつものことって感じの会話。不穏な雰囲気の開幕。これは良かった。
病院で負傷兵を看護する日々。2歳ぐらいの小さな子供がいて、楽しそうに一緒に暮らしている。しかし、ある日子供とじゃれ合ってるとその体が固まる発作が起き、そのまま子供を押しつぶして窒息死させてしまう。その後、説明もほとんどないまま別の女兵士が登場。俺はこれはてっきり過去の回想シーンかと思ったがそうではなくストーリーは常に現在進行系である。マーシャと名乗るその女。どうやらさっき押しつぶした坊やの本当の母親だという。
そこから二人の奇妙な生活。マーシャはどうやらベルリンまで行ってソ連軍勝利を見届けて帰ってきた元女兵士。高射砲部隊勤務。のっぽの看護婦さん(イーヤ)は多分彼女の元部下だろう。頭に傷を追って時々発作が起こる体になったこともここで語られる。
帰ってきたら預けた息子が死んじまっていた。しかも殺したのはどうやらイーヤだ。普通ならここで殺すか殺されるかの戦いが勃発するであろうが、この二人はやけにお互いに依存しており、いわば一心同体かと言わんばかりに仲が良い。でも性格は全く正反対で、唐突にカジュアルセックスするマーシャにドン引きし振り回されつつ子供を殺してしまった負い目からなのかなかなか離れられないイーヤ。彼女が言うがままに行きずりのセックスをし、もし妊娠したらその子をあげると約束してしまう。
まったくもって理解不能で共感不能な奇妙な物語。それがほぼ説明セリフなし、モノローグもなし。ついていくのも大変だ。この手の話で共感性を排除するのは、彼女たちの際立った孤独を表現するために相違ないが、いささか度を超している。例えば、映画前半で子供が窒息死する場面、ここをイーヤが意図的に絞め殺したと解釈し、「戦争のトラウマは善良な人間に唐突にこんなことをさせてしまう」云々と語る輩がいた。そんなミスリードをさせられてしまうほどこの映画は読解力が低い者にとって難解だ。俺だって別にその辺りに自身があるわけでもなく、もともとロシア人の戦後の話に過剰に感情移入する気もない。だから途中で「ああ、もういいや」と思って出てきた。時間の無駄だと思った。こういうのを見切りをつけるのは速いに越したことはない。余った時間を有効に使えるからだ。
そもそも戦争のトラウマ、PTSD、戦争神経症などをテーマとして扱うのならば(少なくとも宣伝ではそう謳っているのだから)、もう少しわかりやすく表現しても良かったのではないか?
確かに日本の低レベルの子供映画みたいに何でもかんでもキャラに喋らせる必要はない。余韻も何もあったもんじゃない。興ざめだ。こないだ観た「ベイビーブローカー」ではキャラに「生まれてきてくれてありがとう」と映画のテーマを直接セリフとして喋らせていたので失笑したものだ。しかも立て続けに4回ぐらい。これには呆れた。
ここまでわかりやすくする必要はない。観客は大抵読解力ゼロの幼児ではないからだ。とはいえ、この映画はいくらなんでも難解過ぎる。台詞も少なく表情もほとんど動かない活気のない人々が、戦争でどんな傷を負って何考えながら生活してるかなんてわかるはずもない。観客にわかってもらいたいなら普通に回想パートなどでトラウマになったような場面を描くべきだ。しかし、ひとシークエンスもそのようなシーンはなく、回想シーンと呼べるものはこの映画には存在しない。PTSDを患っていると言う割には、主要登場人物にそれを思わせるような症状が全く見つけられないのも残念だ。イーヤの発作は砲弾で脳に受けたダメージが原因だと明かされるし、マーシャが子供を産めないというくだりも普通に負傷が原因と思われる。腹の傷は帝王切開の跡のようにも見えるのだが詳しいくだりはここでも語られていない。これではPTSDというよりは戦争で負傷を負って、その後遺症に苦しむ人々の話ということになる。子供をやたら欲しがるマーシャの心理も戦争後遺症に特異なものとは思えず、そもそも子供が死んだのは戦争とは無関係なので、この話を主軸に持ってくるのはどう考えても勇み足だ。明後日の方向を向いてのフルスイングだろう。いろいろほんと不思議なストーリーだ。奇をてらいすぎてこうなってしまったのだろうか? ロシア人との文化の違いを痛感させられ、共感など一欠片も感じることができない。
以上のように、いかにも中東欧の、冗長で台詞が少なく異常なまでの長回しカメラと説明が排除された不親切仕様のストーリー。これらはロシア映画に関して言えば特に個性的とも言えず、前衛的ではあると思うがそれは決して褒め言葉ではない。共産圏時代のように思想検閲が日常化しているわけでもあるまいに、ここまで難解に描く必要は今はないと思っている(個人的意見です)。
断片的に見る場面がなかったわけではないが、ワタクシもまずまずの戦史マニアであるから、特に目を引くような目新しい部分はなかったです。なぜレニングラードを舞台にしておきながらレニングラード包囲戦を全く描かなかったのか?「犬をみたことないだろう?」と大人が子供に語りかける部分だけでその意味を理解できる者が日本に一体何人いるんだ?賭けてもいいが10人もいないと思うぞ。
「原案」スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの部分であるが、これの原作は非凡であり、日本産のコミックもまずまず読む価値があると思うのだが、例えばだが、これら原作に触れてさらなる深みを求めてこの映画をチョイスするのだとしたら、絶対に失敗するであろうことは請け合えます。なぜ「原作」と呼ばないのか? その理由はこの退屈極まる難解なストーリーに集約されていると思う。正直、似た話のはずだが似ても似つかない。こう思っちまう。
「原案」はある意味ではとてもキャッチーな話で、退屈な情景描写とか何考えてんだかわかんない登場人物の文学的な含蓄やら、そういうの殆ど無いんですよね。ノーベル文学賞だけど堅苦しさとかなくて、いかにも文学って感じ、しないんだよね。このキャッチーさが結果的に多くの人々の共感を読んだのだと思う。その点、この映画は望むべくもなく、登場人物の行動の奇怪さもさることながら、シンプルに描き方として方向性が違うような気がする。これでは肝心の共感を呼ぶことができず、映画マニアや、「わかりたがり」の意識高い系の人々の自己顕示欲を15秒ぐらい満たすだけで終わっちまうと思うのだ。俺はこの題材は世界中に普遍的な悲劇として知るに値すると思っているのだ。こんな難解で高尚で色々ハードルの高い映画にしてもらいたくなかった。この手の話を敷居高くしてどうするんだ?と思っちまう。ただでさえ敷居がクソ高くて誰も見たがらない、聞きたがらない分野だ。女兵士や子供兵士、いや普通の兵士たちの戦争神経症に関する教訓はこれからも人類が必要とするのは確かだからだ。一部のロシア人だけ満足するような映画にしてもらいたくなかった。本当にそういう想いである。
もちろんこの映画のような映画も存在して良いし、感動する人もいるのだろう、非凡な何かを感じとる人もいるのだろう。だが俺のようにあまりのつまらなさに途中で寝たり退席する人間もいる。本来途中で寝られるような話ではないはずである。それを眠っちまいそうな退屈な映画に仕上げてしまったのは紛れもなくこの映画の製作者たちなんで、後続はこの映画を反面教師にしてもっと良い映画を作ってほしいと思います。さんざん偉そうなこと言ったけど正直な気持ちです。
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