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『兎、波を走る。』をもうちょっと考える。


以下ネタバレしかない。


疑問の始まり

観劇から一日が経ち、『新潮』8月号を読んで、一点新たに疑問が増えた。
物語が後半に差し掛かるころに、
アリスの母が、脱兎にキックをする。
「だってここに『アリスの母が脱兎にキック』、って」
「あ、『アリスの母が脱兎に聞く』だったわ」

いかにも冗談めかしたやり取りで、実際見た時の私は笑った。
ただ、これは、彼らのやりとりが「台本上」のものであるという線引きではないだろうか。
やっぱり、「アリスと脱兎の物語」はフィクションなのか?
脱兎の実名出しておいてそんなことある??
が出発点。

フェイクスピアでは「まことの葉」が用いられて、真実の重みをぎっちり伝えていたけれど、今回は違うんだろうか。
以下に考えを記載する。

ヤネフスマヤさんの「アリス」

そもそもこの演劇は、ヤネフスマヤさんが『幼いころに母と見たアリス』を見たいと言って、脚本を作家たちに書かせるところから始まった。
そして、その『幼いころに母と見たアリス』が、『目を覚ましたアリスは永遠の少女ではなく年老いていたという儚いもの』であることも明言されている。
全てが分かってから見れば、拉致されている間は時間が止まり、永遠の少女であったアリスが、うつつの国に帰ってくると実際の年齢に戻っていた、ということであろうと考えられる。

しかし、アリスと脱兎の物語は現在進行形である。その物語の結末をヤネフスマヤさんは既に知っているというのは、時間軸としておかしい。
しかも、もしもヤネフスマヤさんが書かせている物語が劇中で高橋一生と多部未華子によって演じられた『アリス』だと捉えてしまうと、『兎、波を走る。』はAIが書いた物語を意味してしまう。
今回、どう考えても初音AIはよくないものの象徴であった。
じゃあヤネフスマヤさんの『アリス』ってなんだったんだろうか。

仮説


#AIによってゆがめられた物語? 歴史は誰が作るのか?
作家が書けるのは今までのエピゴーネンに過ぎないという指摘。
そもそも私たちに残された歴史をこそ疑えということ?

#ヤネフスマヤさんの物語だと、結局年を取っていたとしても帰ってはこれているので、あり得たかもしれないハッピーエンドだったのでは? と今ふと思った。でも、追い求めた物語は、仮想現実の中で忘れ去られていく

#追い求めた物語が忘れ去られていく、というのはキーであろうな、と思う。桜の園。

#名もなき「アリス」(=不思議の国に連れて行かれた人たち)の一部が帰ってきたときの話?
兎もアリスの母も固有名詞ではない、という話が出てきていたけれど、「アリス」は有名になった結果、アリスだけを指さないのでは?

仮説から、個人的な結論① ヤネフスマヤさんの正体

ヤネフスマヤさんは「アリス」の物語を知っている。
(※「アリス」を名もなき連れていかれた人たちとして解釈する)
そして、ハッピーエンド(親との再会)、もしくはもう少し皮肉っぽく見るなら、涙を絞らせるような感動劇を求めていた。
しかし、「もうそうすることすらできない」お金の問題とか土地の問題とかに追い詰められていくにつれて、追い求めていた物語から、より短絡的に楽しめる仮想現実へと旅立っていく。

……となると、彼女が指しているのは、私たちではなかろうか。
景気は悪いし、生活は忙しいし、周りにはもっと面白いものがあふれていて、追い求めるものすら見えていない私たちは、何かを探していたような気がするけれど、と、さらなるフィクションに耽溺してしまう。

#追記 知恵豊富の『アリス』(詳細不明+もう同化してしまった母)▶「アリス」なんて居ない、もはや探している側が探される側とどう化している……つまり、被害者はもはや居ないという言説
ホームズの『アリス』(親なんているものか! 子供なんているもんか!)▶「もう、そうするしかない国」で教育を受けて大麻もやってしまうアリス……つまり、かの国で、完全に洗脳されてしまった説
ブレルヒトの『アリス』(ピーターパン)▶「アリス」は「ピーターパン」になってしまった……かの国で子供たちを教え導く側になってしまった説(また作中では、アリスが「母」を強いられていたことを踏まえると、育ての母としての役割も?)
と、時間が経ったとて「ハッピーエンド」を求めるヤネフスマヤさんに対して、好き勝手なストーリーを押し付ける作家たちの姿が垣間見える。
実際にこの時代に生きていないけれど、知恵豊富からのいたずら電話もあったことなのかもしれない。

結論①まとめ
ヤネフスマヤさんは、私たちを象徴している。
事件は既に過去のものになり、昔母から聞いた物語の結末(事件の解決)をぼんやりと信じているものの、周囲のメディアは好き勝手な説を書き立てる。
そのうちに、解決もその他の物語すら忘れてしまう。

#初音アイについては下に

仮説から個人的な結論② どうして、「アリスと脱兎」は脚本の中にいたのか?

さて、「アリスと脱兎」がフィクションの縛りの中にいる問題に立ち戻ろう。
前述した通り、彼らの行動も、また、何者かによって動かされているように表現されていた。
それは私たちが彼らを「物語」として消化してしまっているからなのではないだろうか。
勿論、「アリスと脱兎」が表象する事実が存在していたことは事実だが、大河ドラマだって、朝ドラだって歴史的な事実に基づいている。
でも、あれらが全部実際に起きたことではない、というのは、視聴者の暗黙の了解だろう。物語を面白く見せるためにある程度の脚色があり、キャスティングがあり、演技がある。

しかし、今は現実しか描かれていないはずのニュースですら、「物語」(=気持ちを揺り動かすエンターテインメントの一部)になっているのでは?
それは、「作家」・書き手が山ほどいるSNSの世界で、真実と呼べるものが何かわからなくなっているからではないか。
しかもその書き手がChat GPTになっても、私たちには分からないじゃないか。(=初音アイ)
共感も感動も、哀れみも怒りも、私たちは簡単に抱くことが出来る。
でも、その感情を動かした時に、「現実」はきちんと見えているだろうか。
『38度線を何度も脱兎は越えようとした』
『アリスの無言の訴えに気が付きながらも、自らが助かるために脱兎は、一人で国境を越えた』
というのは、物語だ。
事実は、『アリスはまだ帰ってきていない』ということだけではないか。

ラストシーンで、高橋一生演じる脱兎は「お返しすることが出来ませんでした」と過去形で語る。
確かに脱兎は劇中で命を落としているから、脱兎が言うことは矛盾しない。

ただ、現実で、まだアリスは探されている。
アリスを探しているアリスの母親がいる。

物語は物語であって、事実ではない。
『兎、波を走る』は、飾り付けられたフィクションの中から「事実」を探し出すための物語だったのではないか

露骨すぎる演出

上記したように書いていくと、私が一発目で抱いた違和感が少し解消できた。
・詳細すぎる拉致の手順
・ゴリゴリにながれる国家らしき歌
・パレード・行進
・平熱38度線
・地上の楽園
・特殊拉致工作員という単語の頻発
まあなんというか、想像できないわけがないようなぐらいの直球火の玉ストレートNKである。
ただ、これって、「私たちの想像するNK」じゃない? という。
戯画的、というか、酷く一面的というか。
半ズボン教官はシャイロックのアバターだったし。
つまり、あの国家もまた、「物語」なのだと言いたいのではないか。
VRでARなのだ。(わかぁーる? のセリフ、嫌で好きだった)

語られたものを、私たちは受け取る。
たとえ、現実で起きた出来事を眺める時ですら、自我が差し挟まり、私は私の目でその事実を「解釈」して、誰かに伝える。
その時点で事実は物語になる。

※現実を現実のまま見て出力できる人がいないわけではないと思う。
 知り合いにそういう人がいるのですげーな…と思っている。
 ただ、そういう人は少ないんじゃなかろうかなあという気持ち。

だから、なんとなくきな臭いな、と思ったのは、登場したNKの象徴をそのまま「真実のNKはこういうものだ!酷い国だ!怖いことだ!」と、受け取ってしまうことへの恐怖だったんじゃないかなあと。
あの「もう、そうするしかない国」は、あくまでも演劇の中の仮想現実の中で戯画的に、不思議の国のアリスの比喩を用いて、仰々しく描かれた「もう、そうするしかない国」でしかないということを、認識できてない自分に対しての警報が、喉の奥に引っかかっていたのではないかな。と。

端的に言うと、知った気になるなよ、という感じかもしれん。

でも、そのうえで、知っておいてほしい、というのもきっと嘘ではない。
そうでないとアリスの拉致シーンをあれほど克明にはやらないと思うから。
『兎、波を走る。』が物語(=フィクション)であり、「他人の解釈が含まれたもの」でしかないことをきちんと分かったうえで、事実として何が起こったのか、「今何が起こっているのか」をもう一度見直すこと。
それこそが、あの毒々しい劇中劇や、アリスの夢のような演出に込められていた意図なんじゃないかな、と考えた。

難しいことは全部置いといて、好きだったところ

考えすぎて疲れたので、覚えてるうちに好きだったところも書いちゃうぜふっふー。

舞台装置

舞台の後ろ三分の一ぐらいに壁が立てられていたのだけれど、
その壁にひし形の穴が縮まったり広がったりして、ドアになっているのが新鮮だった。(ものすごく分かりにくい説明になってしまった)
そして鏡張りの壁が使われて、アンサンブルの方たちの数が増えて見えるのもすごかった!!!
『鏡の国のアリス』を思わせながらも、同じように動く人間の不気味さとかキーワードになっていく「こだま」が視覚的に演出されていた。
全体の雰囲気はこれを見てくれ。

アンサンブルの方たち

上にもちらっと書いているけれど、あの人数で何役やっているんや…と遠い目になる。
ハートの兵隊たち・ピーターパン見習い・兎見習いを全部同じメンツがやっているというのも示唆的でよい。そして見分けがつかない。
しかも同じメンツがやっている中で、ハートの兵たちには心臓があり、鼓動の音があるというのがこう、でも生きていて、それぞれに個があるという感じでとてもよかった。
「ドキッとした」「ドキッとした」「ドキッとした」のこだま、とても好き。何か突発的なことが起こった時の緊張感に余韻ってあるよね。

映像表現

紙に闘争が映し出されての『VR体験』、めっちゃ嫌な気持ちになって最高だった。ゲームで人を殺すときに、後ろに人がいることなんて想定しないので、現実の中でそれがゲームだから、ルールだからと言われたときに抵抗できる気がしねえ~~という気持ち悪さと、それを突き付けられた嫌悪感なんだと思う。
ピーターパンは素直に好きです。超格好良かった。
(そういえば「~朝までまっすぐ」はピーターパンの実際の住所として作品に登場するらしいですね。原作を読んで! ない!)

でっかい振り子時計・時計・懐中時計

でっかい振り子時計に針がなかったなあ、と。
もうそうするしかない国では、時間が動かないということなのかしら。連れ去られた時から永遠の少女になったアリスの居場所だからな…。
皿にされてた時計と懐中時計に針があるかはわからぬ。でも、「時薬」という単語があるし、あそこから飲むと娘のこと忘れちゃわないかしらと結構見ている時は心配だったりした。

アリス関連の人形と帽子

戯画的の極みだったけど、めっちゃ素敵だった!!!!! やまねが原作のアリスではかなり好きだったので、可愛い…と思いながら見てた。「腹話術されてる気がする…」「俺は天才だ!」なやまねめっちゃ好き。可哀想なんだけど、そこだけ抜くとただただ好き。
海産物のパレードは多分、鏡の国? 牡蠣出て来たよな…と思いながら見てた。

とにかく、頭が忙しい内容だった…。
とりあえずは自分のモヤモヤを書き出せたので良しとする。
万が一ここまで読んでしまった方はありがとうございました!




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