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闘病記(58) 信じてまうやろ。



 「回復などない。あるのは、喪失と絶望、そしてそれを乗り越えるための獲得だけだ。」
 そう悟った。自分の能天気さと馬鹿さ加減に嫌気がさすとともに。ようやく腑に落ちた。いや、蹴り落としたといった感じだった。
 リハビリ病院や、リハビリという治療において「回復」と言う言葉がよく使われる。病院や治療だけではない。ごく一般に用いられることが多い。(自分に電話をしてきた友人も、「若いから回復も早いだろうし。」と言っていた。)
 
 自分にとって「回復」とは、「損われてしまったものが、元の状態に戻ること。」を意味していた。もちろん、いちど出血などによってダメージを受けた脳がもとに戻らないと言う事は知っていた。しかし、損傷した部位に近い他の部分が代償をしたり、神経回路がつながったりして「元の状態に近いところまで戻る。」ものだと思っていた。
 
 だから、(右半身の感覚がない自分は)感覚を戻す、もしくは研ぎすますのに良いとされていたことは何でもやった。例えば、麻痺している方の手のひらや足の裏をタオルでこすることが良いと聞けば、消灯したベッドの上でその動作を何度も繰り返した。
 
 しかし、入院期間はもう終わろうかと言うのに、自分の手のひらは何にも感じる事はなく、何かを持っても持っている感触がなかった。足も同様で相変わらずベッドの柵に足をぶつけてしまい、知らぬ間に青アザができているようなことがあったが、全く気づかなかった。
 
 最も深刻なのは「バランス感覚の欠如」だった。
 
 自分は、脳幹から出血をした際に、小脳にダメージを受けていた。そのせいで、立つこともできないようになっていた。健常者ならば何も考えずにおしゃべりでも楽しみながらコーヒーを片手にいくらでも立っていられるところだが、自分はそうはいかない。
 立つためには、五感を総動員して立つことだけに意識を集中し、恐怖と闘いながらバランスを取る必要があった。それはまるで、1本のバットを恐る恐る地面に立てるようなものだった。 
 
 あるときは、手すりを持って、またあるときは、壁を背にして立つための練習は続いた。しかし、自分にかつてのような「無意識のままいくらでも立っていられる。」と言うような感覚は戻ってこなかった。もちろん、立っていられる時間は長くなっていったが、誰かに人差し指1本で肩でも押されようものならすぐに転倒してしまうと言う危ういものだった。風が吹いただけで充分だったかもしれない。転がり落ちるには。
 
 歩くことにしても同様だった。歩く距離や姿勢は飛躍的に良くなっていったのだが、自分の意識はつねに麻痺した右側の足にあった。足は股関節から動かせているのか、踵からちゃんと着地ができているか。わずかな感触を頼りに、反省と修正を繰り返した。以前記したように、おしゃべりをしながら歩くこともできるようになったが、歩くことが完全に無意識になったわけではなかった。それに、歩いているときの感覚は健常者だった頃とは全く異なるものだった。
 
 退院までに、時間が迫り、焦りに似た何かを感じていた頃病棟の誰かから(誰か本当に思い出せないのだが…。)
 「今日、杖なしで歩いているところを見たよ。自主練習もしっかりやっているだけあって、回復が早いね。」
と言われたことがあった。「いやいや。何も回復はしていないんだよ。以前と同じ様に振る舞うために、新しい方法を身に付けただけのことだよ」と胸の内で思いながら、お礼を言って二言三言会話をした。
 
 この文章は書いている今、発病から4年半が経っている。つい先日、医師からは
「もう症状は固定しているので、痛みやしびれとはうまく付き合っていってください。」
と言われた。つまりもう自分の体に好ましい変化が訪れる事は無い。
 
 それでも時々、「あの椅子のところまで歩いていって、座ってカーテンからこぼれている日差しを少し浴びることができたら気持ちいいだろうなぁ。」と思ってしまったりする。
そんな時に自分に改めて言い聞かせるのだ。
 
「回復などない。あるのは喪失感と絶望。それを乗り超える獲得だけだ。今までだってそうやって生きてきたじゃないか。」

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