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闘病記(29)とにかくあきらめない ーフラフープ、大豆、金だらいー

 
 前回の記事を読み直してみると冒頭の文章が長かった。お手玉について熱く語りすぎたことが原因である。反省をもとに、今回は簡潔で、わかりやすくスマートな文章を目指さねば。(すでに簡潔さを欠いている気も…。) まず今日は大豆と金だらいの話から。
 作業療法士のNさんが、直径30センチくらいの金だらいを持ってきたのにまず驚いたが、それに加えて大豆が大量に入った箱を持ってきたのを見て「ポカーン」としてしまった。イケメンのNさんが箱の中の大豆を無言で金だらいにぶちまけると、にわか雨のようなけたたましい音がして「Nさん何か怒っているのかな?」と訝ってしまうほどだった。
「はい。では、大豆を両手ですくって、元の箱の中に戻していってください。」
 Nさんから笑顔で指示があった。自分はすぐには動けなかった。感覚が麻痺した両手でものをすくいあげることがとても難しいことを知っていたからだ。毎日の洗面の難しさでも経験済ずみだった。どうすれば大豆が手と手の間からこぼれ落ちずにすむのだろう。イメージしながら考えてみたが、妙案は浮かばなかった。
 仕方なく、何の策もないまま金だらいに手を入れ大豆をすくった。すくいあげるところまでは何とかうまくいった。「よし、これでゆっくり運べばいい。」と思ったのもつかの間、箱に向かって腕を動かすと大豆はこぼれはじめる。こぼれた大豆は金だらいに当たり、冷たくも温かくもない独特の音を立てた。
 何度も失敗するうちに、自分の手を最初から最後までしっかりと見るようになった。どのくらい動かしたあたりで手と手が開いて大豆がこぼれ始めるのか、どのタイミングで右手が直線的になり両手でお椀の形を作ることができなくなるのか、手を見ながら把握したポイントに気をつけてゆっくりと動かすと、大豆が落ちていく数が大幅に減ることが分かった。ときには大豆が一粒も落ちないこともあった。
 このように、ある動作の中で、できなくなってしまったことを別の行動で補うことを「代償」と言うらしい。このリハビリ以降、「感覚に頼るだけでできる。」と思っていたことでも目でしっかりと見て行動する事を心がけられるようになったと思う。
 ちなみに「お手玉」の時もそうだったが、「大豆」をすくっているときの手触りもまた感覚をなくした右手にとても優しく、心地の良いものだった。
 さて、次はフラフープを用いたリハビリ。まず療法士さんと向かい合って座りそれぞれの体の前にフラフープがくるようにする。フラフープの円外側に座り、フラフープを強く握り込みすぎないように持つ。準備ができたら、療法士さんが左右にフラフープを動かした分だけ患者も一緒に手の中でフラフープをずらしていく。その繰り返しだ。一見、とてもシンプルに見えるが、この動きは麻痺した体を持つ自分にとっては難しかった。まず、手のひらの感覚がないためどのくらい握り込めば良いかと言うことがわからない。スムーズにフラフープをずらすといっても手のひらで動きを感じられないと知らないうちに手が開いてしまったり、フラフープを落としてしまったりした。
 ここでも、肝心なのはやはり「しっかりと見る」ことだった。失ってしまった感覚を「見る」事で代償し、最初はできないことが少しずつできるようになっていったように思う。
あくまで自分の場合についてだが、リハビリテーションに大切なことは「よく見る」「とにかくあきらめない。」だと思った。この2つのことを心に留めつつ、残っている体の機能と感覚をフル活用し、今までと違う体の使い方にトライしてみる。それでもダメなら誰か人の助けを借りる。そうやって、ハンデを負った体でも成し遂げたいことに向かっていく気持ちと行動が、リハビリテーションなのかもしれない。

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