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闘病記(61) 暴れん坊指将軍


 脳の「橋」と言う部位から突然出血し、約3週間の急性期救命救急病棟での入院生活を経て、リハビリ病院に転院してから約5ヶ月の月日が過ぎようとしていた。
 ちなみに「橋」は「きょう」と読む。脳幹に位置し、「生命活動の全てを司る。」と言われている。出血をしてしまった場合、残念ながら亡くなる方が多い。助かったとしても重篤な病態になる場合がほとんどの中、自分は奇跡的に右半身の感覚麻痺と痛み、複視、眼振、右耳の聞こえ辛さという後遺症だけで済んだ。だけ、と書きはしたものの、結構たくさんあるにはある。このあたりのことについて関心のある方は、このテキストのシリーズ前半を読んでみていただきたい。
 そんな自分には、意識がしっかりと戻ってから約5ヶ月の間ずっと気になっていて、確かめられずにいることがあった。それは、「自分には音楽を作る能力が残っているのか?」「歌うことができるのか?」と言うことだった。特に、麻痺してしまった右側の手が鍵盤楽器にどの程度対応できそうかということと、発音や発声は大丈夫かと言う事は頭から離れることがなかった。
 「生きるか死ぬかと言う病の時に、何を呑気なことを。」と思われるかもしれない。贅沢な心配なのかもしれないが、考えまいとしようとすればするほど「大丈夫だろうか?」と思ってしまう。それも仕方がない。素敵な音楽を作って、世界に溢れていく景色を見てみたいと言う気持ちは自分の人生における最優先事項だったのだから。その気持ちを言語聴覚療法を担当するMさんに相談したところ、普段グループでリハビリを行っている大部屋で試し弾きのできるキーボードに触ってみることを快諾してくれた。
 翌週。いつも通りのリハビリテーションを行い、あと15分間を残すと言うところで
「じゃあ行きましょうか。」
とMさんが声をかけてくれて、席を立った。「今の自分を直視するんだ。」と言う気持ちを持って自分は後をついていった。案内してもらったのは学校の音楽準備室位の大きさの部屋だった。はじめに、キーボーがある所まで連れて行ってもらった。「落ち着いた気持ちで弾けるから自作の曲で試そう。」と決めていた。右手は「ソ」の音を小指で弾き始めるはずだった。
 「感覚障害のある右手は鍵盤に触れても何にも感じないだろうし、素早い動きなど期待するだけ無駄だ。ゆっくりとメロディーを弾いて左手で伴奏をつけてみよう。」そう思いながら両手を鍵盤の上に乗せたときのことだった。自分の右手は鍵盤に触れることを拒むように激しく動き始めた。何がどうなっているのか訳がわからず、何とか最初の音のところまで指を持っていこうとしたのだが、その思いが強くなれば強くなるほど、手は鍵盤を拒んだ。
 その動きはまるで、大きな蜘蛛が人に叩き潰されてジタバタとしているような、ゾンビの腕が体と切り離されても動いているようで、不快さと恐怖の塊になって迫ってきた。
 大慌てで鍵盤から手を離し右の手のひらと甲を交互に見つめた。ついさっきまでの気味の悪い動きが嘘のように、手は静かにそこにあった。その後、何度か鍵盤を弾こうと試みたが、手は同じように鍵盤に触れる直前に暴れ始め、鍵盤に触れるとさらに大きく暴れた。コントロールは全くできなかった。
 後になって知ったが、「企図振戦」という症状で、意図的に動作をしようとすると、震えが起こる。動作が始まる直前や、目標に近づけるときに振幅が大きくなるらしい。筋肉の動きを制御する脳内物質の欠乏が関与しているらしいとの事だった。
 歌も歌ってみた。なぜかトッド・ラングレンのラッキーガイという歌を選んだ。(アンラッキーなくせに。笑)歌も全く話にならなかった。右半身が麻痺している事は声帯にも影響を及ぼしていた。全く予期しないところで声が裏返り音程が取れない。腹式呼吸も問題だった。息を吸い込んでお腹のところでしっかりと止めようとしても、右半身には力が入らないのだ。右側だけ横隔膜がちぎれたような、腹筋が全く存在しないような不思議な感覚だった。
 それまで気配を消していた Mさんが、「どうでした?」と、僅かに微笑みながら尋ねた。
「全然だめでしたね。歌も鍵盤もだめだめですよ。」
自分が無理をして笑いながら答えると、
「今日が初日ですからね。それにしても…歌お上手ですね。」そう言いながら自分の車椅子を押し始めてくれた。
 病室まで帰る間、ついさっき起こった出来事を反芻しては、途方にくれ、悲しみに飲み込まれた、とはならなかった。
 「上等だ。コンピュータと音楽制作ソフトの扱い方のスキルを上げて、左手、左半身だけで良い曲を書いてやる。
 歌だって、今までとは違う発声法を身に付けて自分の声が1番素敵な響きになるレンジを探せばいい。」
そう思っていた。「お前そんな奴だったっけ?」と問いかけるもう1人の自分に対して
「うるさい。黙ってろ。」
と、心の中で声を上げた。

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