インターネットで効率的に好きな本と出会えるこの世界で、なぜ本屋に行くのか

TEXT by MOMOKA YAMAGUCHI

読み終わった本を本棚に収めるとき
2、3歩引いて本棚全体を眺めてみる。

分野も色もバラバラの本たち、
その一つ一つに私と本との物語がある。

時には本屋や図書館で、時には雑誌記事の紹介で、
時には友人知人からの勧めで…
最近ではショッピングサイトから本を購入することも多い。

とくに購入履歴を参考にしたお勧めは便利だ。
昔は少々的外れな傾向の本を紹介されることもあったが(それはそれで楽しんでいた)、年々精度が上がり、私よりも私のことを知っているのではないかと思うこともしばしばだ。

データを使えば、膨大な本の中から自分に合った本に出会う最短ルートが見つかり、失敗のリスクを減らせる。

それでも私は本屋に足を運ぶ。
自分の意図しない本との偶然の出会い、いわゆる一目惚れのようなもの。
あの感覚が癖になっているのかもしれない。

本屋の中でぼんやりと本棚を眺めながら歩いていると、
ふと足を止めさせる本と出会うことがある。
店内の空気は調和で満たされているのにそこだけぽっかりと穴が空いているような違和感。この感覚に気づいてしまうと前に進めなくなってしまう。

穴に引き寄せられるように本を手に取ると、紙のさわり心地、文字の形、言葉、余白、全てが一つとなって私の背筋を撫でる。

私はその背筋を撫でてくる正体を、「死の存在」ではないかと思っている。

生命には始まりと終わり、「生」と「死」が内包されている。
人間もそうだろう、あるいは人間が作った本の中にも。
死を強いほど生の輝きは増し、生を輝かしいものとするほど死は濃くなる。

しかし、現代社会で生きる私たちが普段どれだけ死を感じているだろう。
死は数字で表され、虚ろにものを詰め込み遠ざけてきたこの社会で、私にとっていちばん身近な「死の形」が本なのではないかと思う。実際のところ自分の感覚で手にとって読んだ本はどれも死と虚に着眼点を置いたものだったりする。

死ぬことを恐れながらも死を求めずにはいられない。
生だけでは生きている実感を得られずどこか宙ぶらりんでいきているような気分になる。もしかしたら死を求める心が私と本との「偶然」の出会いを起こしているのかもしれない。
そして「本屋に行く」という行為そのものが私の「死の存在」をひろう感覚を鋭くさせるのである。

この記事が参加している募集

#習慣にしていること

130,690件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?