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無価値感を受容した人が手にする価値①

超お久しぶりのブログになりました。
自分の中で何を発信したいのか、それはブログに書いてまで残したいことなのか、私が心底伝えたいことは何なのか?
そこが揺れていたので敢えて何も書かないことを選び、自分自身の中での整理の時間に充てていました。


さて、表題の件。


私、無価値感というものは知っていたけど、自分とは無縁だとばかりに思っていました。去年までは。

「私は、そもそも生きる価値なんてない」
「私は何の能力もない、だから価値がない」
「私は人の期待に応えることができない、だから存在しちゃダメだ」

みたいなね。
人それぞれ心の中で呟いている言葉は違うのですが、おおむねこんな感じでしょうか。

こんなこと思ったことないよ~!って私は感じていたんだけど、自分の感情の奥の奥の奥の最奥まで覗いてみれば、確かにありました。

私なんて存在しなきゃいいじゃん

って…。
自分の口から無意識にポロっと出てきた時には、もうかなり衝撃的で。

「こんなこと思ったことない」というのはあくまで自分が自覚している顕在意識レベルの話。
口からポロっと出てきた言葉こそが自覚できない潜在意識レベルの深いところで”本音で”感じていることでした。

その深いところに眠っていた無価値感に気付けたのは、本当にめちゃくちゃ良かった。
これがずーっと私の心の奥で生き埋めになったままだったら、原因もよく分からないまま苦しかったはずだから、瓦礫の中から人命救助した気分…。


で、分かったは良いものの、
この【無価値感】の取り扱い方に去年からずーっと難儀していたのですよ。

SNSの心理系の発信でよく見るのは

「そうやって悲しんでいた自分を受け止めてあげましょう」
「幼い頃の自分を抱きしめてあげましょう」
「辛かったね、苦しかったねと寄り添ってあげましょう」

って感じかな?
あくまで私のざっと見の範囲ですが、とにかく”無条件に受け止めてあげよう”が多い。

確かにそれは大切、めちゃくちゃ大切。


なんだけど…

受け止めてあげても一時的にしか癒されないやん!


というのが、私の体感覚でした。


辛かった、悲しかったといくら感情を吐き出していても、
その感情を自分でよしよしと慰めたり寄り添ってあげても、
時にプロの力を借りて、共感されることで癒したとしても、

”根っこから変わった感じ”がしなかったのが、不思議でならなくて。

めちゃくちゃ時間をかけなきゃいけないのか?
寄り添い方、共感の仕方が、ちょっとズレているのか?
はたまた、それは不要なのか?

自分の中で色々と検証を重ねてみたんだけど、
”しっくりくるもの”がなかったんです。

(ここで大事なのは、他人が合ったやり方が自分に合うやり方ではないよ、ってこと。そして、合わないなら探せばいいという話)


そして、
自分の中で様々やってきてようやく!!辿り着いたのは・・・

無価値感は持っていちゃダメ

という前提こそが苦しみを生んでいる

という根本の部分でした。

これを理解するには、感覚・感情が湧く仕組みを知ることが必要不可欠なので、その辺踏まえて次の記事はこちら↓

人によっては重い話やと思うので
華やかさを注入しとく


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