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『けーてぃーのトイレ論』

本題に入る前に問題提起をしておこう。もし目の前に世界最高水準の日本の水洗トイレと、海外のスーパーぼっとんトイレが並んでいたとした場合、どちらのトイレを使いますか?これから日本のトイレを少し批判する著者の私も、間違いなく日本のトイレを使いたいのが本音であり当たり前の感情であると思う。じゃあなぜこの問題提起をする必要があるのか。水洗トイレ100%、ぼっとん0%が非常に危険だからである。 

私は東南アジア弾丸横断旅を楽しんでいた時、何度もトイレ様にお世話になった。日本のトイレとは違ってほとんどのトイレにはトイレットペーパーはなく、使い方もわからない。それだけならまだいいほうである。料金は取られてしまうし、そもそも見つけることがまずできないんだよ。コンビニの中にトイレはないし、駅のホームにもない。日本のトイレはなんて神なのだろうか。本気で神だと思ってしまう。臭くないしピカピカだしこれを基準にしてしまったら…。当たり前のことなのかもしれないがひどく恐ろしくなってしまった。

 ミャンマーからタイへ移動する手段として夜行バスを利用したが、冷房がもういいだろというほど効きまくっていた。長袖長ズボンにジャンパーを着用し、お腹にはミャンマーの民族衣装ロンジーを腹巻代わりにしてもまだ寒い。案の定お腹を壊してしまった。人間トイレをするのは自然の行為であってそれを排除するのは不可能。しかし、初めて海外のトイレを目の当たりにしたとき「我慢しよう、ここじゃできない」と決心していた。なんて愚かな日本人だったのか。グローバル化と世間一般騒がれ、2020年の夏にはオリンピックまで開催される大国家でもある日本だが、少し異国のトイレを見ただけで手足も出ない、考える知能もない者だったなんて。これは私のみの経験であるが、ほかの人たちはどうなのだろうか。つい、私だけでなく希望溢れる子どもたちや、社会であんなにかっこよく活躍する大人たちまでも…。と考えてしまう。もしかしたらと可能性を考えてみると恐ろしい。もっと恐ろしいのは、気づかないことである。同じものが集まる都会で起こりやすい現象かもしれない。常識を疑えとよく啓発書で見かけるがその能力は自分にはないし、レベルが高すぎると思う。同じものしかないなら、自然へちょびっとだけ逃げてみるのもいいかもしれない。誰のせいでもない仕方のない世界がそこにあって、体を使って考える機会が少し増える。そこにようやく気が付くことがあるかもしれない。

 海外のトイレという場所は都会や田舎に関係なく、脳と体の分離が顕著に表れるKey pointだと思う。いくら頭の中が優秀であっても異文化の一部と出逢って適応するには、頭の中だけではいくら時間をかけても無駄の極みであることがわかる。自分の体を動かして、一緒に考えていかないとならない。大事なのは自然の体のほうだと気が付けさせてくれる。日本のトイレは良くも悪くもきれいすぎるのだ。生きる力が身につかない。普段から何不自由のない便利な現代社会では脳が偏見世界を作り出す機会が圧倒的に多くなり、都会の妄想が強者となってしまう。人間が作ったものが最強で、考えることができる私たちが強いといったように。本当にそうだろうか。世界は海と陸の比率が7:3の割合であって、30%の陸の中で私たちが生活している都会は何%だろうか。圧倒的に人間社会よりも自然のほうが大部分を占めているのだ。自然をもっと考えてみるべきなのではないだろうか。海外のトイレと出逢うことは今までの脳と体の関係を流し洗ってくれる絶好のチャンスであり、自然の行為をプラスにしてくれるものだと思う。

 こんなにトイレのことを語るのは変人かもしれないが、それほどあたりまえのことにも発見があるのかとプラスに捉えてほしいです。


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