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アートにおける礼拝価値とは

以前の記事でアートを構成する3つの価値について書いたことがあるが、今回はその中で「礼拝価値」というポイントに絞って解説していきたいと思う。

「礼拝」とは

礼拝とはブリタニカ国際大百科事典によれば「神仏などの信仰対象を拝むこと,またその様式,儀式をいう」らしい。
特定の宗教を定常的に意識することの少ない日本人にとっては馴染みのある言葉ではないのかもしれない。
ただ「礼拝」は他者(信仰対象)と向き合うことによって自分を省みる行為とも捉えられ、アートに向き合うそれはまさに礼拝だと思う。

アートにおける礼拝価値をもう少し詳しく

アートの価値を左右するものは、それを観賞した人がどのようにその作品を捉えるか次第と以前言ったことがある。そこでのポイントは鑑賞するだけでなく、「その作品をどう思ったか」そして「その感情が芽生えた源泉を辿る」ということだ。
「美しい」「すごい」「怖い」などアートを通じて得られる感情は様々であり、その感情自体に優劣はない。ただ多くの場合はそうして反射的に感じる感情を捉えるまでだろう。なので、美術館やギャラリーに行っても道順に沿って意外とあっさり終わってしまったなんていう経験はないだろうか。
こうした鑑賞では礼拝価値はかなり低い状態にある。
つまりアート作品(信仰対象)を介して自分を省みる、自分を理解しようとする試みがされていないのだ。

ある絵を見たときに「あー色が綺麗だな」と思ったとしよう。
そこで終わるのではなく、「ここの赤と黄のバランスが好きなんだな」「でも洋服で黄色って持ってないなぁ、なんでだろ?歳の割に派手に見えちゃうからかな」「春だし、こういう色にトライしてもいいかも」「あ、この絵って春っぽい空気があって好きなのかも」と思考が飛んでいくこともあるだろう。
また「なんで作者はこんなに怖い顔をした自画像を描いたのだろう」「この時精神的に辛かったのかな」「確かに自分も辛い時顔怖いって言われたな」などもあるかもしれない。
これらの一連の思考は同じ作品を見ても観る人の体調や状況によって如何様にも変化する。
このように作品を通じて得た感情や想いに考えを巡らせることで今まで認知していなかった自分を見つけることができるのだ。

少し脱線するが「誰もいない森で木が倒れた時に音がするか」という質問に「音はしない」と回答した人がいる。誰かは忘れたが。
なぜ音はしないのかというとそこには観察者がいないからだということらしい。つまりそこに存在する(聞こえる)ということはその対象物だけで成立はせず、それを観察する対象がいることで存在が確定するという考えだ。

アートもまさにそうだ。
作品が作品として成り立つのは観覧者がいるからなのだ。
さらに言うと観覧者がアートを介して作者や自分自身との間でインタラクティブな会話ができることがアートの価値なのだ。なので、アートを制作する人間は作品にそうした会話を成立させる仕掛けを施しておく必要がある。
現代において絵が上手い、下手というスキルはほぼ意味を成していない。アーティストとしての優劣があるのだとすれば、そうした仕掛けを上手く入れ込んでいくスキルだと思う。また機会があればアーティストとしてどのように作品と向き合うかは書きたいと思う。

礼拝価値を高めるためには

礼拝価値は「作品を介した自分や作家とのコミュニケーション」とした場合に、では「自分(あなた)」を形成するものはなんなのかということが気になる。

僕自身はその人を形成するものは「教育(環境)」「経験」、それらから発生する「考え(思考)」であると思う。

アインシュタインが「常識とは人が18歳まで集めた偏見のコレクション」と言ったのは有名だが、生きていく中で外部からの情報、環境によって考えは形成され、その考えがその人そのものなのだ。
ただ注意して欲しいのは「じゃあお金をかけて、いい学校に行かせることが大事だ」「専門知識を勉強しよう」をいうことではない。
ここで大事なことはすでにあなたが持っているもの(経験や考え)に目を向け、未知なる自分に出会う為に自分自身を見つめ直すこと(内省)なのだ。

デジタルツール、サービスの発展の恩恵を受けて多くの情報に簡単にアクセスできる素晴らしい時代に我々はいる。
しかしそれは情報を知っているだけであり、あなたの中に経験として蓄積はされていないということが認識しておいた方がいい。
行ったことのない国の写真や情報を見たりするだけでは、その国にいった経験とはならないし、その情報が深くあなたの心に残ることはない。さらに情報が多いことは自分がなんでも知っている気にさせるものだが、「無知の知」という自分が知らないことがあることを認識するということも忘れてはならいことだろう。

少し脱線したが、アートの礼拝価値を高めていくためには「自分が誰なのか」を考え、未知なるものへの探究心を持つことが必要だ。
自分が誰なのかは「過去の蓄積」であり未知なるものの探究は「未来」である。アートの礼拝価値とは過去と未来を行き来することができるということであり、アートにしかない機能なのではないかと思う。

そうした礼拝価値は様々な要因で変動していくと記述したが、成功者がアートを好む理由の一つとしては自分自身を省みる装置としてアートを捉えており、アートを身の回りに置くことで常にそうした機会を得ようとしているからではないかと思う。

やや論理的におかしいところもあるかなと思いつつ、理解いただけたら幸いです。

そして一人でも多くの人が自分自身にとって価値があるアート作品に出会えるといいなと思っている。

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