精神分析を患う国


■ 20世紀で最も並外れた知的信用詐欺

 1960年にノーベル生理学・医学賞を受賞した生物学者、ピーター・メダワーはかつて「精神医学の被害者(Victims of Psychiatry)」と題した書評において、精神分析を「20世紀で最も並外れた知的信用詐欺(the most stupendous intellectual confidence trick of the 20th century)」と表現した*1書評の対象は、アメリカの神経外科医I.S.クーパーの著作『The victim is always the same』で、変形性筋ジストニア(DMD)の若い患者が、それが神経筋疾患であるにもかかわらず精神疾患と誤診され、フロイト派の精神分析医によって行われる医学的にも倫理的にも不適当な「治療」を受けさせられる悲劇が描かれている*2

 精神医学における精神分析は前世紀半ばまでは隆盛を誇ったが、薬物療法や科学的な見方が普及するにつれて、急速に影響力を失っていったとされる。「ジークムント・フロイトは折に触れ、時代遅れであり、その仕事はもはや学術の世界とは関係がないと受け取られている(Sigmund Freud is occasionally perceived as outdated and his work no longer relevant to academia)」という書き出しで、大まかにだが、フロイトの影響を計量書誌学的に調査した2021年の論文によれば、精神医学においてフロイトを引用した論文は1950年代後半には約4~4.5%だったが、2010年代には0.5%を下回る程度にまで減少した。だがその一方、特に2000年代以降、芸術系の人文学や文学においてはフロイトを引用する傾向が強まっており、フロイトは精神医学では廃れたが、ある種の人文系では独自の生態的地位を獲得したことが示唆されている*3

 こうした状況は心理学においても同様であり、心理学入門や批判的思考の授業のテキストとしても使われ、10版を超える改訂を重ねてきた『How to Think Straight About Psychology』の第一章冒頭において、カナダの心理学者、キース・スタノヴィッチは「フロイト問題」と題して、世間一般の人々と専門家たる心理学者との認識の乖離を素描している。曰く、街頭で一般大衆の100人を呼び止めて、心理学者の名前を挙げてくださいと頼めば、いわゆる「メディア心理学者」か、フロイトの名前が挙がるだろう。だが――

 フロイトの悪名は、心理学分野に対する一般大衆の概念に大きな影響を与え、多くの誤解を生んだ。たとえば、心理学入門者の学生の多くは、アメリカ心理学会(APA)の会員でフロイトの精神分析に関心を持った人をすべて集めても、会員の10%にも満たないということを知って驚く。もう一つの主要な心理学会である心理科学学会(Association for Psychological Science)では、その数は5%にも満たないだろう(Engel, 2008)。ある一般的な心理学入門の教科書(Wade & Tavris, 2008)は、700ページ以上あるにもかかわらず、フロイトや精神分析に言及しているのはわずか15ページであり、この15ページには批判が含まれていることが多い(「ほとんどのフロイトの概念はかつて、そして今もなお、実証志向の心理学者の大半によって否定されている」p.19)。心理学の動向に関するある調査の著者は、「精神分析的研究は、過去数十年間、主流の科学的心理学からは事実上無視されてきた」(Robins, Gosling, & Craik, 1999, p.117)と指摘し、この状況を要約している。
 要するに、現代の心理学は(メディアや一部の人文系分野のように)ジークムント・フロイトの思想に取り憑かれているわけではなく、フロイトの思想に大きく規定されているわけでもない。

     The notoriety of Freud has greatly affected the general public’s conceptions about the field of psychology and has contributed to many misunderstandings. For example, many introductory psychology students are surprised to learn that if all the members of the American Psychological Association (APA) who were concerned with Freudian psychoanalysis were collected, they would make up less than 10 percent of the membership. In another major psychological association, the Association for Psychological Science, they would make up considerably less than 5 percent (Engel, 2008). One popular introductory psychology textbook (Wade & Tavris, 2008) is over 700 pages long, yet contains only 15 pages on which either Freud or psychoanalysis is mentioned—and these 15 pages often contain criticism (“most Freudian concepts were, and still are, rejected by most empirically oriented psychologists,” p. 19). The authors of one survey of trends in psychology have summarized the situation by noting that “psychoanalytic research has been virtually ignored by mainstream scientific psychology over the past several decades” (Robins, Gosling, & Craik, 1999, p. 117).
     In short, modern psychology is not obsessed with the ideas of Sigmund Freud (as are the media and some humanities disciplines), nor is it largely defined by them.

※上記引用の中の引用文献は以下。
・Engel, J. (2008). American therapy. New York: Gotham Books.
・Wade, C., & Tavris, C. (2008). Psychology (9th ed.). Upper Saddle River, NJ: Pearson Education.
・Robins, R. W., Gosling, S. D., & Craik, K. H. (1999). An empirical analysis of trends in psychology. American Psychologist, 54, 117–128.

 スタノヴィッチはこのように指摘した後、フロイトの方法――実証的な実験を行わず、ひたすら事例研究と内観(主観的な自己観察)に頼った――は現代の心理学研究をまったく代表しておらず、にもかかわらずフロイトの重要性が誇張されていることを問題視している*4注目すべきは、ここでも人文系へのフロイト思想の浸食が指摘されていることだろう。

 実際、アメリカの上位大学では、フロイトの精神分析は心理学においてはほとんど取り扱われておらず、もはや歴史的遺物になっている一方、主として(文芸批評やカルチュラル・スタディーズ、ポストダニズムやポストコロニアリズムのような)人文社会系の授業においては、今世紀に入ってもなお生存している*5そうした分野は長らく、一般大衆やメディアと並んで、専門的にはほぼ否定されている考えを取り入れてしまっている(場合によっては高い学費を払う学生に偽知識を教えてしまっている)ことになり、これは脳科学で言えば、マクリーンの脳の三位一体説(反射能と情動脳と理性脳)、右脳派と左脳派、あるいは脳は10%しか使われておらず人間には物凄い潜在能力が秘められているといった類の、読み物レベルの俗説を真に受けているのに近い。逆に言えば、フロイトや精神分析を権威的に援用する人文学者や社会学者の言説は眉唾物であり、その手の人物はタレント的な「メディア人文学者」「メディア社会学者」である可能性を疑った方がいいかもしれない。

 とはいえもちろん、人文系にもフロイトに批判的な人物は存在する。たとえばアメリカの著名な文芸批評家、フレデリック・クルーズはかつて精神分析を文芸批評に取り入れてしまう愚行を犯した反省から、他の人々に自分と同じ過ちを繰り返させぬよう、その後、フロイト及び精神分析批判に転じた。2017年にはその集大成として、約40年にわたるフロイト研究をまとめた『Freud: The Making of an Illusion』という大著を発表した。フロイトは自身の仮説をほとんど検証せず、初期の論文では、重要な文献を省いたり、他の文献を読まずに引用したりした。また別の論文では、自分が治療に成功したという13の症例を証拠として提示したが、のちに友人の共同研究者に対して、その症例がすべて作り話であったことを認めた。フロイトはコカインに依存しており、その有害性や無効性を無視して、モルヒネ依存症の友人の治療としてコカインを与え、その友人を二重の依存症にしてしまった。フロイトはその治療が成功したと主張したが、のちにその友人は苦しんで亡くなった。フロイトの着想の大半は先達に由来しており、「無意識」や「精神分析」という名称もフランスの心理学者、ピエール・ジャネの「潜在意識」や「心理分析」という用語から盗んだものだった。科学者ではなく文学者の才を発揮して、探偵小説(フロイトはシャーロック・ホームズの大ファンだった)のように夢の象徴的な意味を解釈した。性的な解釈に固執し、ある処女の患者の咳を父親のペニスを咥えたいという無意識の欲望に起因すると考えた。フロイトの妻は夫の精神分析を「ポルノグラフィの一形態」と呼んだ*6 *7 *8

 精神分析はしばしば疑似科学、疑似心理学の代表例として挙げられるが*9そのように批判的な立場からは、フロイト(Freud)の精神分析は彼自身の名前をもじって、詐欺(fraud)と呼ばれることも少なくない。この見方からすれば、信奉者は騙されているということになる。

■ もうひとつの知的詐欺

 最初に触れた生物学者、ピーター・メダワーは優れた文筆家としても知られ、特に『若き科学者へ』は名著とされるが、1982年の『Pluto's Republic』(それ以前に出版された初期の著作、その他の随筆などを編集して纏めたもの)において、精神分析や教条的なマルクス主義、さらにはフランス式の「サロン哲学」の、深遠そうに見せかけているだけの蒙昧主義――意図的に不明瞭な散文を書く文化を揶揄している*10 

 そしてそのメダワーの、フランスの思想家の蒙昧主義を揶揄する文章は『利己的な遺伝子』の著者として著名な進化生物学者、リチャード・ドーキンスによる『「知」の欺瞞』の書評(ネイチャー誌に掲載)において引用されている。ドーキンスはその書評の冒頭でこう述べる。

 仮にあなたが、何も言うほどのことを持たない知的詐欺師でありながら、学問の世界で成功したいという強い野心を持ち、敬虔な弟子たちを集め、世界中の学生たちに自著のページに尊敬の念を込めて黄色い蛍光ペンを引いてもらいたいとしよう。あなたならどんな文体を育むだろうか? 明晰な文体ではないだろう。明快に記せば、中身のなさが露呈してしまうからだ。

     Suppose you are an intellectual impostor with nothing to say, but with strong ambitions to succeed in academic life, collect a coterie of reverent disciples and have students around the world anoint your pages with respectful yellow highlighter. What kind of literary style would you cultivate? Not a lucid one, surely, for clarity would expose your lack of content.*11

 物理学者のアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンによって書かれた『「知」の欺瞞』は、主にフランスの、ポストモダニズムとして括られることの多い思想家たちの蒙昧な文章と知的不誠実――彼ら彼女らが物理学や数学の用語をほとんどの場合、意味不明に濫用・誤用していることを明快に説明及び批判した本であり、ひいてはそれらの文章や思想分野が、学問的にはまったくの無意味であることを強く示唆している(通常の学問分野であれば、査読のような専門家同士の相互審査がそれなりに機能しているので、出鱈目な文章が主流として通用する事態は考えづらく、そのような文章の書き手が持て囃される事態はもっと考えづらい)。『「知」の欺瞞』のアメリカ版の原題は『Fashionable Nonsense』だが、イギリス版の原題は『Intellectual Impostures』となっており、直訳すれば「知的詐欺」となる。「Imposture」には身分や能力を装って、なりすまし詐欺をはたらくような意味合いがある。

 日本では「フランス現代思想」とも呼ばれたこの分野の思想家たちは、学術界では一部の人文社会系、または芸術系の学者以外には、ほとんど知られていないか、そもそも興味を引かれる対象ではない。だが中には、ドーキンスのように一般向け啓蒙書を多数出していたり、あるいは人文学にも興味を持っていたりして、同様に啓蒙書と言える『「知」の欺瞞』を読んだり、この手の思想家の著作を読んでみたりする別分野の学者もいる。そしてその場合、その評価は総じて非常に低い。

 たとえば言語学者、ノーム・チョムスキーはかつてポストモダン思想をカルトと呼んだ上で、言語やテクストの独自解釈にこだわった思想家のジャック・デリダを「哀れな誤読に基づく、酷い学識(scholarship appalling, based on pathetic misreading)」と評した*12分析哲学者のジョン・サールはより具体的に、デリダは古代のプラトンから、せいぜいルソーやコンディアックといった18世紀の言語哲学、そしてソシュールやバンヴェニストなど自国フランスの限られた近代言語学にしか触れておらず、その学識はウィトゲンシュタイン以前に留まっており、現代の言語哲学や言語学について単に広範に無知であることを指摘している*13あるいは人文学にも造詣の深い医学者、臨床神経学者のレイモンド・タリスはドーキンスと同様、長文の『「知」の欺瞞』の書評を書き、その中で、デリダ派がソシュール以外の言語学に無知であることが馬鹿にされていること、歴史批評系思想家のミシェル・フーコーの歴史観がいかなる歴史的現実にも対応していないこと、精神分析系思想家のジュリア・クリステヴァが詩的言語を論じる際に数学用語を意味不明に濫用したこと(その著作を文芸批評系思想家のロラン・バルトは「全面的に斬新で、的確」と評し、自らに文章を的確に評する能力が欠落している可能性をパフォーマティブに示唆してみせた)などを列挙した上で、最後に次のように警告を発している。

 自分自身にも他の誰にも嘘をつくな。学生や同僚や読者、広範な知的コニュニティの信頼を裏切るな。文化批評や人文学の領域では、学生はおろか同僚さえも欺くことは非常に容易であり、学際的研究の領域では、なおさら容易であるからこそ、それが用心すべき絶えざる誘惑であることを意識すべきだ。
 ソーカル&ブリクモンの後も学際的な人文学においてポストモダン理論家を続けようとする学者たちは、まず『「知」の欺瞞』を読み、世の中に混乱と不真実の量を増やすことが、命という賜物の良い使い方なのか、生計を立てる倫理的なやり方なのかを自分自身に問いかけるべきである。

     do not lie to yourself or to anyone else; or -- do not betray the trust of your students, your peers, your readers and the intellectual community at large. Precisely because it is so easy to mislead your students and even your peers in the field of cultural criticism and the humanities and even easier in the field of interdisciplinary studies, one should be aware of it as a permanent temptation to be guarded against.
     Academics intending to continue as postmodern theorists in the interdisciplinary humanities after S&B should first read Intellectual Impostures and ask themselves whether adding to the quantity of confusion and untruth in the world is a good use of the gift of life or an ethical way to earn a living.*14

 一般向け啓蒙書を出している日本の学者では、たとえば進化生物学者の三中信宏は『「知」の欺瞞』を笑いながら読んだとした上で、「思想家たちの誤思考・迷思考・欠陥思考」と評し*15宇宙物理学者の須藤靖も『「知」の欺瞞』を爆笑させられるものとした上で、そこで取り上げられた思想家たちを「トンデモ知識人」と評している*16

 たしかに『「知」の欺瞞』には、失笑を誘われるところも少なくない。たとえばソーカル&ブリクモンは、芸術批評系思想家のジル・ドゥルーズと精神分析家のフェリックス・ガタリによる共著の文章を俎上に載せながら、そこに疑似科学的な物理学専門用語が洪水のように濫用されていることを説明しつつ、専門家視点から「いくつかの意味の通る文をみつけることはできるが、文章全体は完璧に意味不明である」と評しているが、その一連の解説の中で、ドゥルーズとガタリが脚注においてとある一般向けの科学書を参照するように述べていることを指摘している*17つまりこの思想家たちは、専門家が一般向けに書いた科学書を参考にしながら、それを援用して、科学の専門家からみて意味不明な文章を書いているらしい。またドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』という著作に対しては、「数学用語や科学用語や疑似科学用語が密に詰め込まれていて、ほとんどの場合、まったくでたらめに使われている」という指摘があり*17この思想家たちにとっての「哲学」とは、理解していない専門用語を出鱈目にちりばめた蒙昧な作文であることが示唆されている。

 さらに失笑を誘われるのは、ソーカル&ブリクモンがパリで出会った学生の逸話だろう。その学生は物理学科を優秀な成績で卒業した後、ドゥルーズを専攻したのだが、その著作の数学に関する部分をいくら読んでも、何を言っているのか理解できなかった。しかしその学生は、ドゥルーズの思想の評判を聞くあまり、それが出鱈目だという結論を下せなかった。「彼のように解析学を何年間も勉強した人間が、解析学について述べているはずのテクストが理解できないというのは、おそらくはそのテクストにたいした意味がないからだろうと結論できなかったのである*18

 だが、たしかに失笑を誘われはするものの、その笑いが途中で凍りつき、結局は笑えない人も多いだろう。なぜなら、上記の例は「オウム真理教のような出鱈目なカルトになぜ理系エリートが入れ込んでしまったのか?」といった問題に対して、暗い示唆を与えるからだ。フロイト思想と同様、一部の人文系において、このようなものが長らく権威として流通してしまったことも、その悪影響を免れない分野において真っ当に学問を志している人ほど笑えないだろう。

 もしこのような思想を研究したり教えたりする専門家が実在するとすれば、それが通常の学術的規範に基づいていない部分をきちんと認識し、また明示する必要があるだろう。つまり最低限、上記のような出鱈目や誤り、時代遅れの学識や根拠の欠如などを、それなりに調査し説明できる人物であるだろう。たとえばフロイト思想の真っ当な専門家がいるとすれば、それについて解説書を書いたり学生に教えたりする時、その思想の大半が現代では学問的にほぼ否定されていることを必ず明記するはずで、もしそれができなければ、その人物は学者や教師というよりも、むしろ信者やペテン師になってしまう。

■「理論」という名の制度化された詐欺を説明しようとする将来の歴史家たちは、間違いなく、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンの影響をその中心に据えるだろう

 ここまでに述べた二つの分野の詐欺的成分が濃厚に合わさった、おそらく最も質の悪い思想家として挙げられるのが、カルト指導者との類似性も指摘され*19精神分析家のジャック・ラカンだろう。ラカンもまた学識のある学者の目に留まった場合、ほぼ例外なく酷評される(ただし前出のチョムスキーは最近、ジェフリー・エプスタインとの繋がりが露見しており、ジョン・サールも晩年にセクハラを告発され名誉教授職を剥奪されていたりするので、そうした学者たちも学識以外の部分では道を外れていたり、悪質であったりすることも少なくない)。

 ラカンは例によって、数学用語を意味不明または荒唐無稽に濫用・誤用していることを『「知」の欺瞞』で暴かれた。たとえばドーキンスは、ラカンが勃起性の器官をマイナス1の平方根と等価だと述べている荒唐無稽な言説を取り上げて、「こんな文章の書き手は偽物だ(the author of this stuff is a fake)」と評した*11チョムスキーはラカンを「完全なペテン師(total charlatan)」と呼んだ*20あるいは物理学者の須藤は荒唐無稽な言説が淘汰されないポストモダン思想界隈について「ラカンのような人ですら問題ではないということですか? 書いている本人が全く誤解している数学や物理の用語がちりばめられている書物であろうと、読者がそれによって啓発されるのであれば意義があると。そのような誤解を通じて新たなブレイクスルーを生み出す可能性が皆無だとは言えませんが、たいていの場合は、アホがアホを再生産するという危険な悪循環に陥るだけだと思いますよ」と指摘している*16

 医学者のレイモンド・タリスに至っては、ラカンの評伝(ラカンの弟子が著者)に対する書評の中で「“理論”という名の制度化された詐欺を説明しようとする将来の歴史家たちは、間違いなく、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンの影響をその中心に据えるだろう(Future historians trying to account for the institutionalised fraud that goes under the name of "Theory" will surely accord a central place to the influence of the French psychoanalyst Jacques Lacan.)」と述べ*21別のところでは、ラカンはサイエントロジー(トム・クルーズが信者として有名な、カルト視されることも多い新興宗教、または宗教の皮を被った悪徳ビジネス)の創始者、L.ロン・ハバードを彷彿とさせると述べている*22

 ハバードはサイエントロジー創設の前、フロイトの初期著作から多くの考えを借用して、ダイアネティックスという疑似科学的な思想を考案した。フロイトは心にイド、自我、超自我という三つの領域を仮定したが、ハバードも同様に身体心、反応心、分析心の三つを仮定した。さらにフロイトの無意識に抑圧された記憶という考えに似て、ハバードはトラウマ的な出来事がエングラム(認知心理学の用語とは別の独自概念)と呼ばれる心的イメージとして潜在的に残り、それが人間の行動をコントロールしていると考えた。そしてそのエングラムの影響から個人を解放させるために、オーディティングというセッションを考案した。もちろんこれもフロイトの精神分析のセッションに似ている。ハバードはこのダイアネティックスを当初、精神医学の一分野、心理療法の一種だと主張したが、心理学者や科学者たちに非科学的だと否定された*23ハバードとラカンはほぼ同じ時代を生きており、ラカンは「フロイトへの回帰」を掲げていたが、フロイトを源流とする彼ら二人がそれぞれの領域で影響力を発揮していた頃、上述のとおり、精神医学や心理学では精神分析は主流ではなくなり、それどころか非科学的、疑似科学的なものと見なされるようになっていった。ラカンとハバードは二人ともに思想家という側面を持っており、思想は哲学と同一視されることもあるが、哲学も特に20世紀半ば以降、英語圏では分析哲学として学術的体裁を強めていった*24そのような学問の現代化に逆行する存在がラカンやその他ポストモダン思想家たちであり、おそらくはそうした流れの蚊帳の外にいた人々、そうした流れについていけなかった人々に支持されたのだろう。

 レイモンド・タリスはラカンの「理論」の中で代表的な、批評家や一部の人文学者の間でのみ影響力を持つ「鏡像段階」(人間の生後六ヶ月から一歳半ほどにかけての自我の発達過程に関するラカン独自の憶測)がほとんど証拠に基づいていないこと、その一貫性や説明力の乏しさなども指摘しているが*22同様の問題は別の視点から、イギリスの社会心理学者、マイケル・ビリッグによっても指摘されている。

 ビリッグは『ラカンの心理学の誤用(Lacan’s Misuse of Psychology)』と題された2006年の論文において、ラカンの「理論」を援用する人文系(カルチュラル・スタディーズや映画研究など)はそもそもその説の根拠すら問わないこと、ラカンの信奉者は通常の心理学の基準にその「理論」を当てはめるのを全面的に拒否していること、従って、まともな学問的手続きであれば、実験主義に従ってラカンの「理論」は間違っていることを検証して終わりになるが、あくまで思想であるゆえに、それが通用しにくいことなどを指摘した上で、むしろラカン自身の心理学の援用を俎上にのせて、その修辞的用法や根拠の妥当性を批判するという戦略をとる(わざわざそのような戦略をとらざるを得ないことが、疑似科学や陰謀論や歴史改ざん主義との戦いを彷彿とさせる)。ラカンは「鏡像段階」についての論文(実際には論文と呼ぶには程遠い曖昧な随筆のようなものだが)において、自説の修辞的な権威付けとして、数人の心理学者を引き合いに出しているのだが、その援用には大きな不備が見受けられる。また「鏡像段階」にはそれ以外にも色々と問題がある。

  • ラカンは「鏡像段階」の論文において、ヴォルフガング・ケーラーという心理学者を引き合いに出して、「比較心理学の事実」だとして、鏡像を見た際のチンパンジーと人間との行動の違いを語るのだが、その「事実」の出典には一切触れない。引用やページ参照はおろか、著作名にすら言及せず、読者がそれを確認しにくくなっている。そしてラカンの提示した「事実」は現在の知見では間違っている――のみならず、ラカンが論文を執筆した当時ですら疑わしい。なぜならケーラーの説明は実際には、ラカンが「事実」として提示した記述と食い違っており、むしろ正反対のことを述べているからだ。つまりラカンは事実ではないことを「事実」として提示している。

  • ラカンは「ボールドウィン以来知られているように」と別の心理学者を引き合いに出して、鏡像に対する子供の反応に関する知見を語るのだが、その際もボールドウィンの具体的な文献には触れない。そして実のところ、ボールドウィンの発達心理学に関する著作にそのような知見についての言及は一切ない。だがこれらの一方、ラカンは同論文中で人類学者レヴィ・ストロースの文献については脚注で明記している(参考文献の提示はそれのみ)。

  • ラカンは上記のようなフランス以外の心理学者の名前を引き合いに出したりはするが、自国フランスで当時、チンパンジーの自己認識、鏡像のゲシュタルト認知、子供の視覚イメージについて研究しており、なおかつ、前述のヴォルフガング・ケーラーの妻(この妻も心理学者かつ動物行動学者で、ラカンはこの人物にも言及したことがある)の本をフランス語に翻訳してもいるポール・ギョームという心理学者の仕事には、「鏡像段階」に関する文章では一切触れていない(ギョームの鏡像認知に関する仕事はラカンが自説を唱える以前になされている)。そしてギョームの鏡像認知の分析には、ラカンの「鏡像段階」説と重なっている(つまり無断盗用が疑われる)ところがある。ちなみに両者の見方には重要な相違点もあり、その後の鏡像認知に関する研究では、ギョームの見方を支持する結果が出ており、それとは違うラカンの見方は支持されない。

  • ラカンの「鏡像段階」の主要な着想はラカン以前に鏡の前での子供の反応について論じた、アンリ・ワロンというフランスの著名な発達心理学者の記述に酷似しているが、ラカンはワロンのその種の文献には言及したことがなく、ラカンの弟子の一人でさえ、ラカンがワロンから無断盗用をしたと非難している。
     以上のような引用の不備、参考文献の詳細の欠如、重要な出典の省略、現在の実証的知見との不整合などを丹念に列挙しながら、ビリッグは、ラカンの読者は事実を調べることに向かわず、その代わりに、ラカンが述べた「事実」を解釈の出発点として受け入れると指摘している*25

 異様なのは、自説をほとんど検証しなかったフロイトと同様、ラカンは「鏡像段階」を唱えながらも、実際には何の実験研究にも関与せず、発達心理学者や動物行動学者の知見を粗雑につまみ食いしていただけにもかからず、その「理論」を信じてしまう人がいることだろう。前時代のフロイトから変わらず、ラカンはきちんと査読を受けた論文などまったく発表しておらず、そもそも学術界に参加した形跡すらない。しかも上記のとおり、援用した知見の詳細を明記せず、その信憑性にも問題があるのだから、これは学部生のレポートでも(取り敢えず文章を書けば単位をもらえるような大学以外では)書き直しを命じられるか、落第になってもおかしくはない。さらに前述のとおり、精神分析理論は実証志向、科学志向の心理学や精神医学ではすでに過去の遺物になっており、ラカンの「鏡像段階」は発達心理学の知見とも整合せず、それはウィキペディアで時として長々と記される「独自研究」のようなものでしかない。ラカンの「理論」はフロイトと同様、ラカンが人間の心について気ままに考えてみた単なる主観的思弁にすぎず、実際の人間の心についての知識ではまったくない。おまけにその他のポストモダン思想家と同様、数学用語を出鱈目に濫用しており、非常に曖昧模糊とした意味不明瞭な文章を書いている*26

 このように見ていくと、ラカンや上述のようなポストモダン思想家たちは、通常の学問分野であれば非常に初歩的な不備となる要素を濃厚にそなえており、それが余裕で許容される領域が存在するからこそ、野放図に生息できたのだと言える。たとえばSTAP細胞のような事例の場合、画像の改変、データの捏造や改ざんといった、通常の学術的規範から大いに逸脱した研究不正が発覚して大問題になったわけだが、それは逆に言えば、きちんとした学術的規範があるからこそ、それに沿うように不正をする必要があるということを意味する。そうした分野では、それなりの客観的体裁を整えなければ、そもそも研究を偽ることすらできない。ラカンのようなやり方では、間違いなくまともな学術誌に論文は受理されず、その「理論」は一顧だにされることさえないだろう。その一方、ポストモダン系の思想分野の場合、そもそも通常の学術的規範にまったく沿う必要がない自由の楽園であるゆえに、研究不正以前の、専門用語の出鱈目な濫用・誤用、極端に意味不明瞭な文章、経験的(実証的)根拠に基づかない奔放な解釈などが、そのまま通用してしまい、あまつさえ露見しても看過されてしまう。客観的体裁を繕った不正をする必要すらなく、詩心の赴くままに主観的に作文するだけでいい。おそらくほとんどの他分野の学者たちは、自分たちには関係ないという無関心を捨てて、自分野に同じ基準を適用されても容認できるかという想像力を少しでも働かせた場合、このような思想分野を学問とは認められないだろう。

『「知」欺瞞』の著者、ソーカル&ブリクモンはラカンについて、その著作を「弟子たちによる敬虔なる教義解釈の基礎」となる「聖典」になぞらえ、その信奉を「現世的神秘主義」「新たな宗教」ではないかと指摘している*27あるいは元ラカン派の精神分析家であり、信奉者に人気のラカン用語事典も執筆したが、その後、ラカンやフロイトの「理論」には何の根拠もないことに気づき(最初から気付けよという話だが……)、むしろ患者に害を与えうるとして精神分析から足を洗ったディラン・エヴァンズという人物もまた、ラカン派の宗教性を次のように素描している。

 信奉者たちからは、根拠の疑義は提起すらされなかった。偉大なる師が書いたことはすべて、あたかも聖典であるかのように信じられた。ラカンが言ったことは、彼がそう言ったというだけで、すべて正しいことになった。ラカン派のセミナーにおける議論は純粋に教義の解釈――「師はこれこれのフレーズで何を意味していたのか?」という問題だった。誰も次の論理的なステップに進んで、「彼は正しいのか?」と問うことはなかった。それは単に正しいと想定されていた。

     The question of evidence was not even raised by his followers. Everything the great master wrote was taken on trust, as if it were holy writ. Everything Lacan said was right, just because he said it. Debate in Lacanian seminars was purely a matter of exegesis – what did the master mean by such-and-such a phrase? Nobody ever took the next logical step and asked – was he right? That was simply assumed.*28

 このような性質から、ラカンはカルト宗教(特定のカリスマ的指導者を狂信的に崇拝する小規模な宗教)の教祖に近い趣がある。その他のポストモダン思想家たちも大なり小なり、似たような影響力を持ち、似たような崇拝を醸成する性質があるようだ(根拠を問う人々は出鱈目な思想になど深入りしないので、根拠を問わない人々だけが信奉者として残ることになる)。だが、ラカンがフランスの蒙昧思想家たちのうちで、とりわけ質が悪いと言えるのは、精神分析が元々は曲がりなりにも、治療法として考案されたものだからだ。

■ 精神分析の被害者

 前述のとおり、実証志向、科学志向の心理学や精神医学が主流になっていった英米をはじめとした国々では、精神分析は前世紀半ばから後半にかけて存在感を失い、非科学的、疑似科学的なものと見なされるようになっていった。アメリカでは1980年のDSM-III(精神障害の診断と統計マニュアル第三版)において、科学的な見方が強まり、測定不能なフロイトの抽象的概念が削除された*29だがその一方、フランスやラテンアメリカ諸国では、それ以降も精神分析は隆盛を保った。たとえば1980年代のフロイト批判書『精神分析に別れを告げよう』の日本語版序文において、著者のハンス・アイゼンクは以下のように述べている。

 精神分析は世界中でおかしな位置を占めています。心理学者を誰一人知らない巷のひとでも、フロイトのことは耳にしたことがあり、心理学と精神分析とは同じものと思い込んでいます。ところが、アメリカやイギリスで心理学を専門とする学者の間で精神分析を尊重しているひとはほとんどいません。大半のひとは完全に無視しています。同じように、精神医学においても、イギリスでは大学教授の誰一人として精神分析を支持していませんし、アメリカでもしっかりした大学の教授で精神分析を支持するひとはほとんどいません。そして、大半のひとは精神分析との関係を積極的に否定しています。
 精神分析について専門的には何も知らないひとたちの間で、精神分析が人気があり広く受け入れられているのに、専門家の間では受け入れられていないというおかしな話になっています。このように矛盾している学問分野をほかに探すのはむずかしいことです。天文学と占星学(星占い)との関係が非常によく似ています。天文学者で星占いを本気にするひとはいませんが、巷のひとには星占いがたいへん人気があり、天文学を知らなくとも「星座」のいわれや「星座」の性格に及ぼす影響については知っているものです。
 もちろん、いまでもいくつかの国では精神分析が重視されています。南アメリカの諸国が一例ですし、フランスがもうひとつの例です*30

 上記引用の英米の状況はまさに、前出のスタノヴィッチの「フロイト問題」とほぼ同様のことを述べている。そして英米とは異なり、フランスや南アメリカ諸国では未だに精神分析が支持されていることが指摘されている。この後者の大きな要因がラカンの影響であり、前世紀末に書かれた『「知」の欺瞞』においても「フランスの精神医学界では、ラカン主義はきわめて強い影響力を持っている」という指摘がある*31あるいは前出のディラン・エヴァンズは1990年代、アルゼンチンでラカンにかぶれた後、イギリスで精神分析家になったという経歴を持っているが、その実体験から、英語圏ではラカンの名前を聞いたことのあるセラピストはほとんどいない一方、フランスやラテンアメリカではラカン思想を臨床に取り入れているセラピストがいる可能性が高いと述べている*32ラカンは「フロイトへの回帰」を唱えていたので、フロイトもまたフランスの精神医学界では相応の影響力を保ち続けたのだろう。

 では、なぜラカンのような学術的素養に欠けた蒙昧思想家の影響が残り続けたのだろうか。それはフランスに限って言えば、ここまでに見てきたような似非インテリ文化、その悪しき慣習によるところが大きいだろう。科学志向の心理学や精神医学からは、精神分析は時代遅れであり、経験的(実証的)根拠が乏しく、非科学的、疑似科学的なものと見なされることが多いが、前述のとおり、ラカンを含むフランスのポストモダン思想もまた科学用語の濫用・誤用といった疑似科学性、時代遅れの学識や根拠の乏しさといった類似する要素を併せ持っている。そしてフランスにおいては、それが「哲学」として知的な雰囲気を帯びて流通し、空疎に権威化されて、そもそもその「理論」が正しいのか、まともに精査されることすらない*33

 そのような非学術性や疑似科学性、時代錯誤や根拠の軽視といった文化が、文芸批評や文化批評といった人文系の領域に留まらずに、たとえば精神医学といった分野においても、不適切な濫用・誤用を引き起こしてしまったらどうなるだろうか。おそらく冒頭で記した『The victim is always the same』という著作、それに対するピーター・メダワーの書評タイトルが的確に表しているように、そこには「精神医学の被害者(Victims of Psychiatry)」が生じてしまう恐れがあるだろう。そして残念ながら、それは現実のものとなっていた。

 イギリスのガーディアン紙は2018年、「“フランスは50年遅れている”:フランス自閉症治療の“国家スキャンダル”('France is 50 years behind': the 'state scandal' of French autism treatment)」と題した記事を掲載した*34同じくイギリスのオンライン新聞インディペンデントも同年、「フランスは時代遅れの自閉症治療とケアの実践にどう向き合っているか(How France is facing its outdated autism treatment and care practices)」と題した記事を掲載した*35それよりも以前の2012年、BBCニュースは「フランスの自閉症治療の“恥”(France's autism treatment 'shame')」と題した記事を掲載した*36また同年、自閉症情報メディアのTPGAも「虐待の文化:フランスの自閉症ケア(A culture of abuse: autism care in France)」と題した記事を掲載した*37これらの記事で指摘されている「国家スキャンダル」「時代遅れ」「恥」「虐待の文化」とは一体何かと言えば、それは2018年の、ザ・カンバセーションという非営利メディアの記事のタイトルに端的に示されている。「フランスの自閉症問題――それは精神分析に根ざしている(France’s autism problem – and its roots in psychoanalysis)*38

 その他の記事にも依拠して*39 *40 *41 *42適宜文献も参照しながら、上記で指摘されている問題をまとめれば、それは以下のようになる。

  • まず大前提として、自閉症スペクトラム障害(以下、自閉症と略記)は現在の科学的知見では、遺伝的要素が大きい広汎性の神経発達障害と見なされており、早期発見と早期診断、社会的および行動療法的介入(コミュニケーション、社会性、言語、認知能力などの発達を支援する教育的方法)が推奨されている。先進国の多くでは、エビデンスに基づく介入として、それが主流となっている。

  • だが、フランスの精神医学(特に児童精神医学)は何十年にもわたって、時代遅れの精神分析の強い影響下にあり、そのせいで自閉症を誤診してきた。精神分析の支持者たちは科学的知見に背を向けており、そもそも自閉症を診断できなかったり、自閉症を家庭環境や母子関係に起因する心因性の疾患、あるいは「精神病」と診断したりして、それを精神分析的アプローチで「治療」しようとする*36なかでも母親の愛情や母性が不足しているから、あるいは反対に、子供に過干渉・過保護すぎるからといった「母親に原因がある」説を唱える者が多く、アメリカの精神分析家が戦後に自閉症を「小児精神分裂病」と見なした古い考えを受け継いでいる者も少なくない。これらはオーストリア系アメリカ人の精神分析家、ブルーノ・ベッテルハイムが1950年代から60年代(アメリカでもこの頃までは精神分析が支配的だった)にかけて流布し、フランスでも1960年代後半から広まった、母親の冷淡な態度が自閉症の原因であるとする「冷蔵庫マザー」説の影響*35元々は同じオーストリア系アメリカ人の児童精神科医、レオ・カナーに由来する)、さらに1970年代から80年代にかけて、ラジオの育児相談で人気を博したフランス児童精神分析の権威、フランソワーズ・ドルトの影響が大きいとされる。ラカンの盟友でもあったドルトは「小児精神病」が家庭環境によって引き起こされることを唱え、やはり自閉症を母性の問題――母親との情緒的または象徴的な関係が失われたことによるものだと主張した*38「象徴的な関係」といった観念性からも分かるとおり、何の科学的根拠もない精神分析的解釈にすぎない)。もちろんこれらの土台として、先進国の多くでは精神分析が専門的に支持されなくなった後も長らく、ラカンやフロイトの影響で、それが廃れるどころか、むしろ根深く蔓延してしまったフランスの異常な精神分析文化がある。

  • 精神分析はトーク・セラピーを中心とするが、そもそも喋ることが苦手な自閉症児にそのような手法はそぐわず、実証的根拠に欠けた理論に基づいて無防備な子供の内面を解釈することは、子供に対する権力の濫用になりかねないと科学志向の心理学者は批判している*43欧州の他の国では、自閉症児に心理療法(精神分析もこれに含まれる)を用いることすら稀であり、たとえばスペインの自閉症ガイドラインでは、心理療法は代替療法と同じ扱いであり、有効であるという根拠はないと裁定されている*39

  • 精神分析支持者の中には、「パッキング療法」と呼ばれる風変わりな手法を用いる者もいる。これは冷たく湿らせたタオルで、裸もしくは下着姿の自閉症児を包み込み、さらにシーツや毛布でくるんで、30分から1時間程度そのままにする。そうすることで自閉症児の、原初的な不安に対する病理学的な防衛機制を徐々に取り除けるだとか、包み込まれた環境の中で自閉症児は退行し、母親と新生児との関係を再現するだとか44精神分析医たちは独自の空想的な意味付けをしている(「防衛機制」とは精神分析用語で、受け入れがたい不安などが意識に上らないようにする無意識の働き)。

  • だが、この「パッキング療法」にも何の科学的根拠もない上に、自閉症児はコミュニケーションがうまく取れず、この手法に同意しているかどうか、何が行われているか理解しているかどうかも定かではないこと、親も子供の居場所を失うことを恐れて、権力のある精神分析医の勧めを断りづらい面が大きいこと、さらに親が知らないうちに勝手に行われた事例もあることなどから、この手法は親や自閉症団体や専門家によって、野蛮だと強く非難されている 35 *37 *39 *45

  • これらの問題は2011年にオンライン公開された『Le Mur(壁)』というドキュメンタリー映画の題材となり、作品中、監督のソフィ・ロベールからインタビューを受けた精神分析医たちのうちの三人がその後、ロベールを訴えたことで話題になった。インタビューを受けた精神分析医たち(ラカン派とフロイト派)は精神分析理論を用いて、幼い自閉症児の言語的な制約を解釈したり、自閉症の原因を親子関係に帰したりした。たとえば、自閉症児は言語にうんざりしており、自閉症は言語から自己を防衛する手段なのだとか、子供は母親にとってのファルスであり、母親の近親相姦的欲望の対象だからうんぬんだとか、ラカンやフロイトに影響を受けた観念的な妄言をもっともらしく語った(「ファルス」とは勃起したペニスを象徴的に表すような、性的解釈を重視するフロイト由来の精神分析用語であり、ラカンが独自の意味合いで多用した)。ラカンは母親の子供に対する欲望はワニの顎のようなものであり、子供に息苦しさを与えると考えていたという。映画の中で、ラカン派の精神分析医はこの考えを自閉症に当てはめており、母親が妊娠という「融合」を手放すのを拒むことで、自閉症児は話すことを学べず、他者との繋がりを作ることもできないと主張した(ワニとの繋がりがやや意味不明だが、母親というワニの大きな顎の中に、子供が閉じ込められているイメージらしい)*44 *46 *47精神分析医たちは彼らの「理論」を持ち上げてくれる映画だと思って出演したようだが、実際には精神分析批判の内容だったため、完成後に作品を観て恥ずかしくなり、発言を切り取られたとして訴訟を起こし、一審では勝訴して上映禁止を勝ち取ったが、控訴されて判決を覆された。この映画はニューヨーク・タイムズでレビューされて英語圏でも注目を浴びた*48

  • このような因習に支配された社会のせいで、フランスには推定60~70万人の自閉症者がいるにもかからず、その診断を受けているのはわずか十分の一程度しかいない*37 *41近隣諸国に比べて自閉症児の診断が遅く、支援サービスや課外活動へのアクセスも不足している。診断されても日帰り病院通いか、住み込み施設に閉じ込められることになり、地域社会から隔離され、主流教育からも排除され、言葉によるコミュニケーションができないことが多い*38自閉症と診断された子供で主流学校に通っているのは20%ほどしかおらず*34アメリカの95%以上には遠く及ばない*39しかもソーシャルワーカーにまで精神分析の権威が浸透しており*41自閉症児の親が精神分析医の見解に反対すると、強制的に子供を取り上げて施設や里親に引き渡す処置が取られることさえある*34その事例は数百件を超えている*35そのような惨状ゆえに長らく、フランス北東部在住、もしくは裕福な家庭の場合、まともな教育や発達支援を求めて、親は自閉症児をベルギーの学校に入れたり、一緒にベルギーに亡命したりしていた*37 *38 *42

  • 1990年代以降、医療関係者が自閉症を自分たちのせいにしていることに憤慨した親たちによって、こうした因習と戦う権利擁護団体が結成された*38自閉症児の親、親を支援する弁護士、団体の会長などは、フランスは自閉症に関して、英米などに比べて40~50年遅れていると指摘しており*34 *35患者の数が減れば減るほど収入が減るので、精神分析派は抵抗しているのだと述べる*36「フランスは精神分析の最後の砦です。近隣諸国では、教育や行動療法といった方法が主流であり、精神分析はとっくの昔に放棄されている。フランスでは、精神分析が自閉症児に適用され続け、大学でも教えられています(France is the last bastion of psychoanalysis. In neighbouring countries, methods in education and behavioural therapies are the norm and psychoanalysis was abandoned a long time ago. In France, psychoanalysis continues to be applied to autistic children and taught in universities.)*34「(精神分析は)科学的事実ではなく信仰に基づいているので、むしろセクトや宗教に似ていると思います(I think it resembles more a sect, a religion, because it is based on faith and not on scientific facts.)*35といった声がある。フランスには1950年代、精神分析医は150人ほどしかいなかったが、21世紀初頭には、その数は約10000人ほどまでに急増した*35彼らは強い文化的影響力や政治的権力を持っており、フランスの医療制度のあらゆる段階に浸透している。臨床心理士(その数は精神科医の10倍)の半数も未だに、大学の養成課程において相当な精神分析的訓練を受けており、その約三分の一は精神分析だけの訓練を受けている。そのような臨床心理士はエビデンスに基づいたアプローチに日常的に触れることはなく、国家試験や職業免許の基準も、そうした研修を義務づけていない。フランス政府と大学の学長たちは長年、高等教育機関における精神分析の支配に目をつぶってきた*43

  • 根深い因習を取り払うことは容易ではないが、変化をもたらす力として外圧の存在がある。欧州評議会(ヨーロッパの人権、民主主義、法の支配などについて基準策定を主導する国際機関)は、フランスの自閉症に関する規定は欧州社会憲章に違反しており、自閉症の人々を差別しているとして、2004年から2014年の間に五回にわたってフランスを非難した*49

  • 2010年には国際自閉症欧州会議で「パッキング療法」の存在が知れ渡り、翌2011年、サイモン・バロン=コーエンをはじめとした18人の国際的な自閉症研究者たちが連名で『パッキングに反対する(Against Le Packing)』と題した共同声明を発表した。「私たちは、世界中の専門家と家族がこの手法を非倫理的であると考えるべきだというコンセンサスに達した。さらに、この“治療”は、自閉症スペクトラム障害に関する現在の知識を無視しており、米国、カナダ、英国、スペイン、イタリア、ハンガリー、オーストラリアで発表されたエビデンスに基づく実践の範囲や治療ガイドラインに反しており、そして私たちの見解では、児童や思春期の若者たちが、健康と教育に対する基本的人権を利用することを妨げる危険をもたらすものである(We have reached the consensus that practitioners and families around the world should consider this approach unethical. Furthermore, this “therapy” ignores current knowledge about autism spectrum disorders; goes against evidence-based practice parameters and treatment guidelines published in the United States, Canada, United Kingdom, Spain, Italy, Hungary, and Australia; and, in our view, poses a risk of preventing these children and adolescents from accessing their basic human rights to health and education.)*50

  • フランス高等保健機構(Haute Autorité de Santé)は2010年、ようやく世界保健機関(WHO)の国際疾病分類(ICD-10)を認め、自閉症を広汎性発達障害のカテゴリーに含め、精神分析派が主張する「小児精神病」の概念を放棄した*51だが、それとは別に精神分析医によって書かれたCFTMEA(フランスにおける児童および青少年の精神障害の分類)も使用されており、そこでは自閉症を未だに早期精神病と同等、またはその一種と見なしている*52さらに高等保健機構は2012年、効果に関するデータ不足などを理由に、精神分析的手法と制度的精神療法は自閉症に対する介入策として妥当だとは言えないと勧告した(「制度的精神療法」とはマルクス主義とラカン派精神分析の影響を受けた集団的心理療法らしい)*53だが、この勧告に従わなければならない義務はなく、2017年のガイドラインにおいても、精神分析的介入に対するエビデンスの欠如を明確に指摘はせず、単に「非同意的介入」と表現するに留めている*52

  • 2012年には、自閉症問題に取り組む議員によって、自閉症者支援における精神分析的実践の廃止、教育的・行動療法的方法の一般化を求める法案が提出された。この法案は、ほとんどの欧米諸国において遅くとも20年前には精神分析的アプローチは放棄されていること、国際的な科学界は一致して、自閉症に対する精神分析の使用に反対していること、にもかかわらず、フランスの多くの医師は未だに国際疾病分類(ICD-10)を認知しておらず、未だに自閉症に対する精神分析的アプローチが大学で教えられていること、自閉症に割り当てられる予算のほとんどを精神分析的な実践が占めてしまっていることなどを指摘した上で、早急な精神分析との決別を訴えている*54だが、この法案は否決された*55

  • さらなる外圧として2016年、国連の子どもの権利委員会はフランスに関する報告書において「自閉症の子供たちが広範な権利侵害を受け続けている(children with autism continue to be subjected to widespread violations of their rights)」ことを憂慮した。この報告書の中には、「虐待に相当する“パッキング”法(冷たく濡れたシーツで子供を包む)が法的に禁止されておらず、一部の自閉症スペクトラム障害の子供たちに対して未だに行われていることが報告されている(the “packing” technique (wrapping the child in cold, wet sheets), which amounts to ill-treatment, has not been legally prohibited and is reportedly still practised on some children with autistic spectrum disorders)」「2012年の高等保健機構の勧告の実施は義務づけられておらず、自閉症の子供たちは未だに効果のない精神分析的療法を受け、過剰な薬物投与を受け、隣国を含む精神科病院や施設に収容されている(The implementation of the 2012 recommendations of the High Health Authority is not mandatory and that children with autism are still offered inefficient psychoanalytical therapies, overmedication and placement in psychiatric hospitals and institutions, including in a neighbouring country)」といった指摘がある*56こうした外圧もあって同2016年にようやく、保健省長官が「パッキング療法」の禁止を発表したものの、これにも法的拘束力がない。

  • 権利擁護団体のロビー活動や度重なる外圧もあり、マクロン大統領は2018年、第四次の自閉症対応策を開始したが、その計画の存在そのものが、それまでの第一次、第二次、第三次の対応策がうまくいかなかったことを示している*38フランスでは自閉症の成人で定職に就いているのはわずか0.5%にすぎず、精神科に長期入院する割合も他国のおよそ三倍であり、権利擁護団体はそのような処遇が不適切であることを非難している*57

 以上はおおむね2018年頃までの動向をまとめたものだが、こうした時代を生きた自閉症の人々も実際に、フランスの精神分析文化の異常性を指摘している。12人のフランス自閉症成人にインタビューをした2023年の質的研究論文には、以下のような当事者の声がある。

  • フランスでは発達心理学、自閉症、認知行動療法の訓練を受けた臨床家が少なく、自閉症と診断されても、適切な助けを見つけることが難しい。そのような状況に直面すると無力感を覚える。「臨床家から臨床家へと飛び移る羽目になる(You end up jumping from psychologist to psychologist)」「くじ引きのようなもので、その人が40年前の時代遅れの考えを持っているのかどうか、いざ行き当たってみないと分からない(It’s like playing lottery, you never know if you’re going to end up with someone who has ideas that have been outdated for 40 years.)」「専門家ですら助けてくれない、理解してくれないとしたら、誰がそれをできる?(If even professionals can’t help or understand you, then who can?)」

  • 精神分析に従う専門家は、自閉症という診断に疑義を呈したり、その診断を信じなかったりする。「診断センターの精神科医が自閉症であることは確定事項だと言ってくる一方で、(精神分析に従う)臨床家は成人の自閉症など存在するわけがないと言ってくるので、本当に混乱した(It was really confusing as the psychiatrist at the diagnosis center was telling me it was a done deal while on the other hand my psychologist (of an analytical obedience) was telling me it was impossible as adult autism does not exist)」「本当に混乱して誰を信じればいいか分からなかったので、私自身と私の精神衛生にとって、非常に危険だった(this was very dangerous for me and my mental health, as I was really confused and did not know who to trust)」

  • フランスでは精神分析的な観念が強く残り、自閉症のことを「人々をバブルに閉じ込める病気」だと見なしていたりもする。「フランスは自閉症に関して30年くらい遅れている(France is about 30 years behind when it comes to autism)」「精神分析のせいで、自閉症になるのは酷い両親を持っていたり、酷い子供時代を過ごしたりした人だという考えがある(Because of psychoanalysis, there is this idea that you had to have had terrible parents or a horrible childhood to be autistic)」

  • 「もしあなたのお子さんが自閉症だとするなら、それはあなたがお子さんと近親相姦的な関係を持っていたからです(If your children are autistic, it is because you’ve had incestuous relationships with them)」と臨床家が母親に言い放ったという体験談もあり、その当事者は「でもどうやら、それは比喩的に受け取るべきらしいんです。そんなことをどうやって比喩的に受け取れるのか分かりません(But apparently you’re supposed to take it figuratively. I don’t know how you can take such things figuratively)」と語っている*52
    (*以上の証言に出てくる「psychologist」は文脈から、臨床心理士のことだと判断できるので、ここでは「臨床家」と訳した。少し上で触れたとおり、フランスでは臨床心理学においても精神分析が未だに権勢を振るっている)

 このような目に遭ってきた人々の権利擁護団体として、フランス自閉症協会(Autisme France)がある。1989年2月、「自閉症の人々の教育と非精神分析的ケアを受ける権利のための運動設立」の第一回呼びかけを行い、同年6月にリヨンで初の設立総会を開催して以来、長らく自閉症の人々を支援してきた。このフランス自閉症協会が2020年、国連の子どもの権利委員会に対するものとして作成した文書(「自閉症の人々のために苦闘して30年(30 years of struggle in the service of autistic persons)」という自己紹介がある)においても、教育へのアクセスの差別などと並んで、なおも精神分析の弊害が明確に非難されており、その根深い悪弊に巣くうラカンとフロイトの存在が指摘されている。

 大多数の日帰り病院、医療教育センター、早期医療社会活動センターは自閉症に役立たずであり、自閉症に関する科学的知見を無視し、高等保健機構の勧告(精神分析を用いない、調整された教育的・教育学的・治療的介入)を拒否している。

     The vast majority of day hospitals, medical-pedagogical centres and early medical-social action centres are incompetent in autism, ignore the scientific knowledge on autism and reject the recommendations of the High Authority for Health (coordinated educational, pedagogical and therapeutic interventions, without psychoanalysis).

 自閉症専門医の現行の研修は主に精神分析に染まっており、2015年以降も状況はほとんど変わっていない。

     Ongoing training for autism doctors is mainly imbued with psychoanalysis and the situation has hardly changed since 2015.

 その結果、ほとんどの医療機関や医療社会機関における支援は、フロイト・ラカン派の教義に基づいている。つまり、子どもは自閉症であることを選び、それは本人の選択であり、恐ろしい家庭環境のせいであり、自閉症は防衛機制であり、自閉症児は自分の身体を表現せず、言葉を拒否する。
 その結果として行われる実践は、パッキング、子供用プール、絵本の読み聞かせのワークショップなどであるが、これらは国際的な分類勧告ではまったく不適当とされている。この点において、フランスは発展途上国よりもまずい立場にあると考えられる。というのも、フランスが先導者である歴史的な精神分析的傾向が、数十年にわたって多くの国々で推奨されてきた国際的に認められた教育的、行動療法的、発達的介入(TEACCH、ABA、PRT、DENVER……)の普及と実施を妨げているからである。

     As a result, support in most healthcare and medical-social institutions is based on the Freudian-Lacanian catechism: the child chooses to be autistic, it is his or her choice, because of a terrifying family environment, autism is a defence mechanism, and the autistic child does not represent his or her body, he or she refuses language.
     The resulting practices are packing, paddling pool, storytelling workshop, which are recognised as totally unsuitable by all international classification recommendations. In this respect, France can be considered even less well placed than developing countries, since the historical psychoanalytical trend, of which the country is a leader, hinders the dissemination and implementation of internationally validated educational, behavioural and developmental interventions (TEACCH, ABA, PRT, DENVER...), which have been recommended in many countries for decades.

 フランス自閉症協会は、フランスで自閉症スペクトラム障害の児童や思春期の若者たちが受けている差別と暴力を糾弾する。彼らが経験することを余儀なくされる差別、ほとんどの医師が公衆衛生法を無視して自閉症に関する知識の更新を拒否していること、そして特定のサービスの不足のために、自閉症スペクトラム障害の児童や思春期の若者たちは社会的に孤立している。しかしながら、社会化は自閉症者の発達の決定的な要素であり、彼らの困難のひとつは社会的関係の理解に関するものなのである。
 フランスが批准した児童権利条約と障害者権利条約の条文に基づき、フランス自閉症協会は、フロイト派やラカン派の精神分析家の空想の対象でもなければ、ゲットーのような施設に閉じ込められた人々でもない、権利を持った人間である自閉症スペクトラム障害の子供たちの権利を、フランスが尊重することを求める。

     Autism France denounces the discrimination and the violence that children and adolescents with ASD suffer in France. Because of the discrimination they have to experience, the refusal of most doctors to update their knowledge on autism, in disregard of the Public Health Code, and because of the lack of specific services, children and adolescents with ASD are socially isolated. However, socialisation is a determining factor for the development of an autistic person, as one of their difficulties involves the understanding of social relationships.
     On the basis of CRC and CRPD articles ratified by France, Autisme France asks that France respects the rights of children with ASD who are persons with rights and not subjects to the fantasy of Freudian or Lacanian psychoanalysts, nor people confined in ghetto-institutions.*58

 こうした非難や糾弾に対して、精神分析派は様々な言い訳をするようだ。たとえばパッキングを支持する親もいるだとか、どんな治療を用いるかは文化的嗜好の問題なのだとか。だが、上記のように「発展途上国よりもまずい」文化に染まり、科学的知見やそれに基づく国際基準が根付いておらず、教育や支援も圧倒的に不足している状況において、自閉症児を育てるという困難な立場にある保護者の中には、何かにすがってしまったり、騙されてしまったりする人々も当然いるだろう。それは病気の人が代替医療にはまり込んだり、怪しげな健康食品に手を出してしまったりするのと同様であり、実際に前述のとおり、スペインでは自閉症に対する心理療法(精神分析が含まれる)は代替療法扱いとなっている。また文化的嗜好の面に関しても、無批判にそれに流されることは知性や倫理の放棄だろう。たとえば、日本は専門性を軽視する文化だからデジタル庁の長官がITに疎くてもいいだとか、科学的思考が根付かない文化だから反HPVワクチンが蔓延ってもいいだとか、そのような文化を肯定する主張には大いに問題がある。

 それ以外には、精神分析内部において切断処理をして、批判の矛先を逸らそうとする者もいるようだ。自閉症を母子関係に帰したり、パッキングをしたりするのは、あくまで一部の狂信的な人物であって、精神分析派のすべてではないだとか、そうした一部の人々はラカンやフロイトの「理論」を誤用・濫用しているだとか。だが上記のとおり、そもそも自閉症に精神分析を適用すること自体が誤用・濫用であり、英米など先進国の多くでは、フロイトや精神分析それ自体がもはや歴史的遺物にすぎず、主流の学者たちからは生きた学問とは見なされていない。さらに言えば、ラカン自身も心理学を杜撰に誤用しており、なおかつ、数学用語を意味不明に濫用してもいる。その意味では、教祖の流儀に倣っているとさえ言えるだろう。

 こうした逃げ口上が通用しないゆえに、仮初めにせよ科学的な土俵に立つふりをして、精神分析を擁護する言説もある。自閉症の生物学的要因・遺伝的要因に関する決定的な証拠はないだとか、行動療法的介入が必ずしも有効ではないという研究もあるだとか。たしかに自閉症の統一的な因果機序はほとんど解明されておらず、非常に複雑な要因が絡み合っていると考えられており、出生前を含む初期環境要因も重要だと言われている(ただしそれは遺伝的要因が大きいことを排除しない)*59あるいは、推奨されている介入の有効性もそこまで高くはないかもしれないとか、早期介入が標準のケアに比べて優れているとは言えないかもしれないとか、ある時点で支配的な見方を疑う研究は常に存在する。だが、現時点での科学的根拠が確固たる土台になっていないからといって、それは精神分析を自閉症児に適用する根拠にはならない。一方では科学的根拠の脆弱性を指摘しながら、自分たちの根拠には同基準を適用せず、観念的な空想の意味付けにしがみついているのは、二重基準に他ならないだろう。何らかの病気や障害を抱えた人々がいて、それに対する確固たる治療法が確立されていない時、それでも既存の選択肢の中で、なるべく妥当性の高いものを推奨するのが、標準的な専門家の倫理であり、またほとんどの場合、当事者もそれを選択できる環境が整っていることが望ましいのは言うまでもない。

 この点に関して、2021年の『自閉症治療における精神分析:フランスはなぜ文化的に外れ値なのか?(Psychoanalysis in the treatment of autism: why is France a cultural outlier?)』と題した論文は、確かに自閉症に対する科学の進歩は遅く、奇跡の治療法などはないが、「しかし精神分析とは異なり、そうした発展は科学的な枠組みの中で起こり、アイデアを検証し、証拠が適合しない場合はそれを却下することができる(The difference compared with psychoanalysis, however, is that these developments occur within a scientific framework that allows one to test the ideas and reject those where the evidence does not fit.)」と指摘している。そしてその論文の締め括りには、このような端的な批判がある。

 まとめると、自閉症の治療法としての精神分析の擁護は、ある療法を他にもまして選択することは、純粋に文化的嗜好や流行によるものだという考えに基づいている。だが、より深く調査してみれば、精神分析は他の療法とは質的に異なるものであることが明らかになる。有効性の根拠に欠けているばかりか、その根拠がどのようなものなのか不明なほど、あまりにも定義が曖昧なのだ。権威的な人物たちによって推進され、権力や影響力を持ったサークルによって維持されているため、正当化されているにすぎない。

     In sum, the defence of psychoanalysis as a treatment for autism rests on the idea that choice of one form of therapy over another is purely due to cultural preferences and fashion. A deeper investigation, however, reveals that psychoanalysis is qualitatively different from other forms of therapy. It is not only bereft of any evidence of effectiveness, but it is so ill-defined that it is unclear what such evidence would look like. It is only legitimised because it is promoted by authority figures and maintained by circles of power and influence.*43

 本来なら出来るかぎり科学的知見、経験的(実証的)根拠に基づくことが必要とされる分野において、それらがまったく欠如した蒙昧な思想に基づく「理論」が蔓延ってしまうと、このような惨状に陥り、それが広大な権利の侵害をもたらしてしまう。そしてその人災、もっと言えば「思想災害」の犠牲になった被害者たちの、数十年にわたって損なわれてきた時間は決して戻ってはこない。

■ 思想の袋小路

 幸いにも日本にはラカン派の臨床家はほとんどいないようであり、まして自閉症児にその「理論」を適用するような、荒唐無稽かつ非倫理的な精神科医もおそらく存在しないだろう*60だが、日本そして英米においても、ラカン思想は別の領域を生息地として、どうやら一定の影響力を持ってしまったらしい。

 前出のディラン・エヴァンズは1990年代、アルゼンチンでラカンにかぶれ、母国イギリスに戻ってラカン派の精神分析家になった後、その手法が患者に害を及ぼす可能性に直面した。ラカンの流儀に沿わず、共感や常識に従って対応した時には、助けになれる手応えがあったのだが、ラカンの流儀に従うとそれは役に立たず、かえって患者を混乱させ、動揺させてしまう結果になることが多かった。それ以前からラカンの「理論」に懐疑的になり始めていたエヴァンズは臨床の仕事から手を引き、純粋に学術的な研究を通じて、自分に芽生えた疑いを解決しようと思い立った。そしてアメリカの大学に留学した。ただし専門的に心を研究する心理学科ではなく、文学理論になど全然興味もなかったのに、比較文学科の門を叩くことになった。なぜなら(スタノヴィッチの「フロイト問題」のくだりで触れたように)科学志向の英米の心理学では既に精神分析はまともに受け取られておらず、ラカンも無名に等しいが、文学やカルチュラル・スタディーズの領域においては影響力があり、そこに著名なラカン研究者がいたからだ。だが留学してすぐに、エヴァンズはアメリカにおけるラカンの受容に戸惑いを覚えた。指導教官も大学院生たちも、ラカン思想をひたすら文芸批評の解釈の道具として用いており、精神分析の臨床的基礎についてなど考えたことはなく、理論面についても、そもそもラカンの見解に一貫性があるのか、それが正しいのかどうかを問うことに関心を持っていなかった。それは詩や交響曲と同じように、事実の正確さとは無関係なものとして扱われていた*61

 これは英米において、フロイト思想が心理学や精神医学ではなく、一部の人文系を生息地としているのと同様の現象であり、さらに言えば、この現象はラカンのみならず、その他のポストモダン思想家たちに関しても概ね当てはまる。学術的な分析系の哲学が主流の英米では、ごく一部を除き、ポストモダン思想は哲学科ではまともに扱われておらず、それはむしろ、文芸批評や文化批評といった領域において影響力を発揮してきた。

 たとえばジャック・デリダはかつて、学術的規範を重視する哲学者たちから、文学や映画研究といった哲学以外の分野に影響力があるだけの自称哲学者であり、明晰さや厳密さといった通常の学問の基準をおよそ守っておらず、むしろ詩人に近いような存在でしかないと評された*62あるいは『「知」の欺瞞』の中で、ソーカル&ブリクモンは「この本で分析したフランスの著者たちは、英語圏では、文学、カルチュラル・スタディーズ、女性研究関係の学部でもっとも人気が高い」と指摘している*63また分析哲学寄りのフランスの哲学者、ジャック・ブーヴレスはかつて『「知」の欺瞞』の批判に賛意を表明しながら、自国フランスに根拠や論理を軽んじて自由奔放な思考と詩的な文体に耽る「文学的哲学主義」が蔓延っていることを嘆いた*64

 フロイトもそうだが、ポストモダン思想家たちの「理論」は文学や映画、さらには文化や社会を様々に解釈し批評するための道具として、あるいはその評論に深遠そうな雰囲気を付け加えるための修辞として用いられた。思想家たちの「理論」に明晰さや厳密さが欠けていればいるほど、信奉者たちがそれを自分なりに解釈できる余地が広がり、思い思いに援用して、様々な見方や物事に結びつけることができる。上辺だけは深みのありそうな晦渋な修辞を弄ぶことで、知的な気分に酔うことができ、存分に詩心も満たされる。裏を返せば、もし援用する理論が明晰かつ厳密であったなら、恣意的な解釈が通用しなくなり、その利用可能性は狭まってしまう。さらには詩心のない無味乾燥な、透徹な論理性が要求されてしまう。装飾を排した透徹な論理性は、詩的で曖昧な観念を許容せず、明晰さによって中身が丸見えになるので、きちんとした根拠を詰め込んでいく必要も出てくる。そのような真っ当な学術的規範は、蒙昧思想家たちの「理論」とは相性が悪い。

 だが、そのような思想家たちの「理論」を援用して、創作物や文化・社会現象などを恣意的に解釈しても、それは占星術師やスピリチュアルカウンセラーの「理論」を援用するのと変わらず、およそ信憑性も妥当性もない意味付けしか生み出せない。単に解釈の役に立つというだけなら、様々な占い師や予言者の言であっても、その役には立つ。だが、その解釈には根拠の支えがない。それはフランスの無知蒙昧な精神分析医たちが、自閉症の原因を思想と空想に基づいて恣意的に解釈したのと同様であり、ひいては人文系分野においても、的外れな誤診に等しい言説を再生産することしかできないだろう。

 おまけにラカンをはじめとしたポストモダン思想家たちの場合、あまりにも文章が不明瞭すぎて、あるいは出鱈目な表現が濫用されていて、客観的な解釈の収束が望めないような代物であり、思想家当人もすでに死んでいるのだから、出来の悪い学部生のレポートを根気強く書き直させるようにして、その「理論」が明晰になるまで、しっかりと解説させることもできない。大川隆法の霊言のように、それぞれの解釈者たちがそれぞれの「ラカン」を語るだけであり、要するに単なる思想としてでさえ、知識としての一般化に失敗している*65従って通常の学問であれば、それは放棄され、淘汰されるべきものだろう。たとえばABC予想を証明したと誰かが主張しても、それが著しく意味不明瞭であり、理解が困難な代物である場合、より明晰な説明をしなければ、学術の世界において、それが専門家のコミュニティに受け入れられることはない。もちろん数学のように厳格な形式をもった分野なら、将来においてそれが正しかったと判明することはありうるが、ラカンの場合、むしろ数学を誤用・濫用しているほどなので、その見込みもない。

 結局のところ、それは根拠に基づいた知識を生産するという営為から逸脱しており、何の学問にも結実しようがない。「ポストモダンの言説は人文系や社会科学の一部のグループが迷い込んでしまった袋小路として機能する。概念的に混乱し、経験的な証拠から根本的に遊離してしまった基礎の上には、自然についてであろうと社会についてであろうと、いかなる研究も発展しようがない*66と『「知」の欺瞞』で指摘されている通りであり、またそれはフランスの異常な精神分析文化と同様、ただ単に「権威的な人物たちによって推進され、権力や影響力を持ったサークルによって維持されているため、正当化されているにすぎない」(この様式は昨今の日本においても、政界に入り込んだカルト宗教、メディアに絶大な影響力を持ったアイドル芸能事務所の闇といった問題に見受けられる)。

 ラカンやラカンを推してきた「フランス現代思想」という流行文化は長らく、栗城史多を一流のアルピニストだと信じたり、コムサデモードをコムデギャルソンだと勘違いしたりするような感性を対象として、この日本においても、一部の人文系メディアやメディア文化人たちによって盛んに広められ、それゆえに権威化されてきた。だが、少なくともその無批判な誇大宣伝と優良誤認性については、『「知」の欺瞞』で揶揄されているとおり、さらにピーター・メダワーがかつて、ラカンが帰属するもう一つの領域である精神分析をそう評したように、ナンセンスな与太話をファッショナブルに見せかけただけの、知的信用詐欺であった可能性が限りなく濃厚だろう。

 そうした文化の片棒を担いできた人々の中には、それが知的に杜撰な代物だと分かっていて手を染めた人もいれば、その内容や品質にはまったく無関心に、単なる商材として扱ってきた人もいるだろう。だがその中には、それが本当に知的に高度なものだと信じ込んでいた人もいるかもしれない。そうだとしたら、そこには信心深い宗教二世や宗教三世の問題に通じるような、妄信の悲劇性もある。「この言説にはきちんとした根拠があるのか?」「他分野の専門用語を荒唐無稽に濫用・誤用している時点でまともな学者とは言えないのでは?」「極端に意味不明瞭な文章なんて学部生のレポートでも落第では?」といった初歩的な批判的思考が抜け落ちてしまったばかりに、当人たちは蒙を啓かれたつもりのまま、物事に暗い方へと誘い込まれていく。

 その結果、出鱈目な思想を支持する者が権力や影響力を持ってしまうという面においては、国会議員としての杉田水脈の存在などに通じる性質もあるだろう。そうした思想に依拠した「理論」や「論文」を持て囃すメディアがあり、それを有り難がる信奉者たちがいる。そのサークルをぐるぐると回りながら、知ではなく蒙昧を愛する思想の袋小路にいつまでも、飽きもせずに囚われ続けるのだろう。



■ 注・文献・リンク

*1 Medawar, P. B. (1975, January 23). Victims of Psychiatry. The New York Review. https://www.nybooks.com/articles/1975/01/23/victims-of-psychiatry/
*2 同じ本に対する別の書評の概要にはこうある。「クーパーは患者の言葉を通じて、ジストニアを認識しなかった、あるいは認識はしていたが治療できることを知らなかった専門家たちによる被害を記録している。しかし、被害をもたらしたのは彼らの無知ではなく、彼らが無知を認めようとしなかったことだった。(Cooper records through the words of his patients the damage done by professionals who didn't recognize dystonia, or recognized it but didn't know it could be treated. Yet it wasn't their ignorance that did the damage; it was their refusal to acknowledge it.)」
 Older, J. (1976). Review of The victim is always the same. American Journal of Orthopsychiatry, 46(1), 184–185. https://doi.org/10.1037/h0098746
*3 Yeung A. W. K. (2021). Is the Influence of Freud Declining in Psychology and Psychiatry? A Bibliometric Analysis. Frontiers in psychology, 12, 631516. https://doi.org/10.3389/fpsyg.2021.631516
*4 Stanovich, K. (2012). How To Think Straight About Psychology, 10. Pearson.
 この記事を書き終わってから気付いたのだが、以下の邦訳が出ている。キース・E・スタノヴィッチ(2016)『心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考』金坂弥起訳、誠信書房。
*5 Cohen, P. (2007, November 25). Freud Is Widely Taught at Universities, Except in the Psychology Department. The New York Times. https://www.nytimes.com/2007/11/25/weekinreview/25cohen.html
 この点で奇妙なのは、科学志向の心理学者はしばしば、心理テストや血液型性格判断といった巷に溢れる通俗心理学・疑似心理学を批判してみせるくせに、フロイトの精神分析が特に人文系において長らく権威として流通してきたことに関して、きちんと批判した形跡があまり見られないことだ。自分野発の出鱈目が他分野を数十年以上にもわたって汚染してきたにもかかわらず、それを看過するような大らかな分野だからこそ、再現性の危機を招くような自分野のあれこれも看過してきたのかもしれない。
*6 Hall, H. (2017, December 12). Freud Was a Fraud: A Triumph of Pseudoscience. Science-Based Medicine. https://sciencebasedmedicine.org/freud-was-a-fraud-a-triumph-of-pseudoscience/
*7 Schaefer, M. (2017, November 14). The Wizardry of Freud. Skeptic. https://www.skeptic.com/reading_room/wizardry-of-sigmund-freud/
*8 Phillips, A. (2017, September 1). Young Freud, Cruel, Incurious, Deceptive, and in Search of Fame. The Washington Post. https://www.washingtonpost.com/outlook/young-freud-cruel-incurious-deceptive-and-in-search-of-fame/2017/09/01/df3e74a4-76fa-11e7-8839-ec48ec4cae25_story.html
*9 上田和夫(1997)『科学と疑似科学、心理学と疑似心理学、治療と疑似治療:音楽療法の評価』日本音楽知覚認知学会、公開シンポジウム「音楽と癒し―音楽療法の科学的基盤を求めて」発表資料集、13–19頁。http://www.design.kyushu-u.ac.jp/~ueda/Resources/Science.pdf
 たとえばこの文献には「フロイトやユングをはじめとする精神分析は、疑似科学の一分野である疑似心理学の中でも最たるもので、これを心理学だとだまされて信じ込まされている人を多く見かける」とある。
 ただし現在では、ひと頃よりもフロイトに対する態度は軟化しているという話も聞いたことがある。おそらくそれは心理学において、フロイトがすっかり過去の遺物、つまり心理学史の一部となり、科学的な心理学がそれを否定しなければいけないほどの勢力がもはや存在しないからだろう。フロイトの言ったことを本気で信じている一派が自分野にいたら、しっかりと否定しなければならないが、それが完全に過去のことになれば、わざわざフロイトは間違っていると批判する必要などない。あくまで過去にそう考えた人がいたという昔話となり、その著作もギリシア哲学などと同様、文学的な読み物として扱われることになる。
*10 Leonard, J. (1982, December 10). BOOKS OF THE TIMES. The New York Times. https://www.nytimes.com/1982/12/10/books/books-of-the-times-088208.html
*11 Dawkins, R. (1998). Postmodernism disrobed. Nature 394, 141–143. https://doi.org/10.1038/28089
*12 Noam Chomsky on Post-Modernism. (1995, November 13). Cosma’s Home Page. http://bactra.org/chomsky-on-postmodernism.html
*13 Searle, J. R. (1994). Literary theory and its discontents. New Literary History, 25(3), 637–667. https://doi.org/10.2307/469470
*14 Tallis, R. (1999). Sokal and Bricmont: Is this the beginning of the end of the dark ages in the humanities? PN Review, 25(6), 35.
 フーコーがあくまで思想家・批評家であって、学者から学者とは見なされない個性(平たく言えばアマチュア性)を色濃く持っていることについては以下なども参照。Megill, A. (1987). The reception of Foucault by historians. Journal of the History of Ideas, 48(1), 117–141. https://doi.org/10.2307/2709615
 J・G・メルキオール(1995)『フーコー:全体像と批判』財津理訳、河出書房新社。
*15 三中信宏. (2000, July 9). 第一線の思想家たちの誤思考・迷思考・欠陥思考を指摘. MINAKA Nobuhiros nieuwe pagina. http://leeswijzer.org/files/FashionableNonsense.html
 以下も参照のこと。三中信宏. (2003, August 15). 天下太平〈快楽の園〉は果てしなく――ミュンヒハウゼン男爵は靴ひもを引っ張り、ハーリ・ヤーノシュ将軍は大法螺を吹く. MINAKA Nobuhiros nieuwe pagina. http://leeswijzer.org/files/analogie.html
*16 須藤靖・伊勢田哲治(2013)『科学を語るとはどういうことか』河出書房新社、第1章。
*17 アラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン(2012)『「知」の欺瞞』田崎晴朗・大野克嗣・堀茂樹訳、岩波書店、岩波文庫、第9章。
*18 同上書、280頁。
*19 Paris, J. (2017). Is psychoanalysis still relevant to psychiatry? The Canadian journal of psychiatry, 62(5), 308–312. https://doi.org/10.1177/0706743717692306
*20 Noam Chomsky Slams Žižek and Lacan: Empty ‘Posturing.’ (2013, June 28). Open Culture. https://www.openculture.com/2013/06/noam_chomsky_slams_zizek_and_lacan_empty_posturing.html
*21 Tallis, R. (1997, October 31). The Shrink from Hell. Times Higher Education. https://www.timeshighereducation.com/books/the-shrink-from-hell/159376.article
 フロイトとラカンは最初は神経学の道に進もうとしたが、研究者の素質がなく、その後、科学的基礎を放棄して精神分析家になり、独自の思想を広めたという共通点があるようだ。「データに束縛されることなく、彼は自由に舞い上がり、検証不可能で不明瞭な、大きな思想を広めた(Unfettered by data, he was free to soar and to promulgate those large, untestable and obscure ideas)」「彼の教義――彼には無縁の学問分野の著者たちから、しばしば無断盗用した寄せ集めの混乱を、借り物の専門用語や不可解な新語で表現したもの――は何でも読み取れるロールシャッハテストのインクの染みのようなものだった(His doctrines - a magpie muddle of often unacknowledged expropriations from writers whose disciplines were alien to him, cast in borrowed jargon and opaque neologisms - were Rorschach ink-blots into which anything could be read.)」
 もっとも、ラカンは表向きフロイトを権威視していたようだが、フロイトの流儀には明確に背いていた。「彼は贅沢な生活費を賄うために、患者の数を最大限に増やす必要があった(彼は億万長者として死んだ)。彼はセッションの時間を短縮し始め、料金をそれに比例配分して減らすことなく、その時間を10分程度にした。残念なことに、フロイト理論ではセッションの最低時間は50分と決められている。そのため、ラカンは国際精神分析協会から繰り返し注意を受けた(He needed to maximise his throughput of patients in order to finance his lavish lifestyle. (He died a multi-millionaire.) He started to shorten his sessions, without a pro rata reduction of fee, to as little as ten minutes. Unfortunately, Freudian theory fixes the minimum length of a session at 50 minutes. Lacan was therefore repeatedly cautioned by the IPA.)」
*22 Tallis, R. (1987). The Strange Case of Jacques L. PN Review, 14(4), 23.
*23 McCall, W. V. (2007). Psychiatry and psychology in the writings of L. Ron Hubbard. Journal of Religion and Health, 46, 437–447. https://doi.org/10.1007/s10943-006-9079-9
 サイエントロジーやダイアネティックスについては、英語版のウィキペディアも参考文献も含めてよく纏まっている。ハバードはフロイトを主要なアイデア源にしていることからも分かるとおり、当初は(同じく疑似科学と批判されることが多い)精神分析に親和的だったが、自身のダイアネティックスを精神分析家にさえ非科学的と否定され、その後、精神分析も批判するようになったらしい。
 ダイアネティックスは自己啓発(セルフヘルプ)の側面もあり、この点で言えば、自己啓発を主としながらも、同じく心理療法にも応用され、疑似科学として批判されている神経言語プログラミングとも類似性がある。神経言語プログラミングは客観性を否定するポストモダン的立場を取り、みずからを「メタ学問」と称しているらしいが、フロイトも自身の信念体系を「メタ心理学」と呼んだ。「メタ」という言葉は経験的(実証的)根拠の欠如の、体のよい言い換えとして用いられることがある。
*24 もっとも、いわゆる分析哲学も学問的体裁こそ整っているものの、今日的な存在意義には疑問符がつくところもあるのかもしれない。Mulligan, K., Simons, P., & Smith, B. (2006). What’s wrong with contemporary philosophy? Topoi, 25, 63–67. https://doi.org/10.1007/s11245-006-0023-0
*25 Billig, M. (2006). Lacan’s misuse of psychology: Evidence, rhetoric and the mirror stage. Theory, Culture & Society, 23(4), 1–26. https://doi.org/10.1177/0263276406066367
 信奉者たちがラカンを疑わず、ラカンが述べた「事実」を解釈の出発点として受け入れる――この様式はまさに「オルタナティブ・ファクト」という言葉にぴったりだろう。
 このようなラカンの信奉者の妄信性については、以下の論文の冒頭も参考になるかもしれない。Recanati, F. (1997). Can we believe what we do not understand? Mind & Language, 12(1), 84–100. https://doi.org/10.1111/j.1468-0017.1997.tb00063.x
 この論文の著者、フランソワ・レカナティは現在は著名な言語哲学者であり、ヨーロッパ分析哲学協会の共同設立者でもあるが、まだ若かった1970年代初頭、不覚にもラカンに幻惑されてしまい、ラカン派のセミナーに参加した。その共同体はセクトのようで、弟子たちは教祖ラカンの発言を理解する前から、それが真理であると信じ、それを無数に解釈する。レカナティも自分が何を言っているのか理解しないまま、ラカン的な言い回しや用語を使いこなすことを覚えた。だが、ほどなく知的には失望を覚え、その後、明晰さを志向して分析哲学を学んだ。馬鹿馬鹿しい逸話だが、ラカンは同じく非常に晦渋かつ不明瞭な文章で知られるハイデガーに「こんな文章は読めない」「この精神科医には精神科医が必要なようだ」と評されたという。またレヴィ・ストロースはラカンをシャーマンになぞらえ、何を言っているのか理解できないラカンの話を理解しているように振る舞う聴衆たちを見て、この人たちの「理解」と自分の理解とは同じものではないのではないかと、理解という概念そのものに混乱を覚えたらしい。以下を参照のこと。Rillaer, J. V. (2017, March 5). Un Déconverti Du Lacanisme: François RÉCANATI. Le Club de Mediapart. https://blogs.mediapart.fr/jacques-van-rillaer/blog/050317/un-deconverti-du-lacanisme-francois-recanati
*26 マルコム・ボウイというラカン派の文芸批評家は、(信奉者にとっては魅力的な)ラカンの文体の特徴を以下のように評している。
「多義的なque、一般的な語順の乱れ、文字通りの意味と隠喩的な意味の織り交ぜ、回りくどい表現、省略、明示されるのではなく仄めかされる主要な考え、抽象概念の擬人化、人間の抽象概念化、大きく異なった単語が同義語になり、同義語に大きく異なった意味が与えられる……(the ambiguous que, disturbances of conventional word order, literal and metaphorical senses interwoven, periphrasis, ellipsis, leading notions alluded to rather than declared, abstractions personified, persons becoming abstractions, widely different words becoming synonyms, synonyms being given widely different meanings...)」
 Bowie, M. (2005). ‘Jacques Lacan’, in J. Sturrock (ed.), Structuralism and Since. Oxford University Press.
 詩ならともかく、論説文ではできるだけ避けなければならない特徴が勢揃いしており、およそ学問と名がつく分野において、その分野がそれなりにまともに機能している限り、このような文章が許容されることはないだろう。だが、こうした特徴がラカンの信奉者にとっては、無意識の本質的な混沌や言語の本質的な矛盾を表しているといったような、深遠さとして解釈されるらしい。通知表の所見欄において、児童の目に余る点への苦言を強引に褒め言葉に変換するような趣があるが、保護者に対する教師の配慮とは違って、それは教祖に対する信者の妄信を色濃く帯びている。
*27 『「知」の欺瞞』、第2章。
*28 Evans, D. (2005). From Lacan to Darwin. In: Gottschall J, Wilson DS (eds) The literary animal: evolution and the nature of narrative. Northwestern University Press, Evanston. https://www.researchgate.net/profile/Dylan-Evans-9/publication/2901422_From_Lacan_to_Darwin/links/5851314008ae7d33e0129670/From-Lacan-to-Darwin.pdf
 このエヴァンズはその後、進化心理学に入れ込むようになったらしく、何となく騙されやすそうな、影響を受けやすそうな人物という印象を受ける。とはいえ、ラカンに対する信奉から幻滅へと至る過程は、ネット右翼や陰謀論から目が醒める人の話に似ていて、読み物としては面白い。かつては「ネットde真実」ならぬ「思想de真実」という文化が広く存在したのだろう。
*29 The History of the Psychiatric Diagnostic System Continued. (n.d.). MentalHelp.Net. https://www.mentalhelp.net/personality-disorders/history-of-the-psychiatric-diagnostic-system-continued/
*30 H.J.アイゼンク(1988)『精神分析に別れを告げよう』宮内勝ほか訳、批評社。
*31 『「知」の欺瞞』、309頁。
*32 注28前掲文献(Evans, 2005)の冒頭および「Lacan in Argentina」を参照。
*33 ポストモダン思想をはじめとした蒙昧主義の文章になぜ、ある種の読者が幻惑されてしまうのか、そこから抜け出せなくなってしまうのかは、主に認知バイアスで説明されることが多い。たとえば以下を参照。Davies, J. (2014, January 29). Academic Obfuscations: The Psychological Attraction of Postmodern Nonsense. Skeptic. https://www.skeptic.com/eskeptic/14-01-29/#feature
 あるいは以下の論文は特にラカンの蒙昧主義を俎上にのせて、陰謀論との類似性、サンクコスト効果といった認知バイアスの罠を指摘している。Buekens, F., & Boudry, M. (2015). The dark side of the loon. Explaining the temptations of obscurantism. Theoria, 81(2), 126–142. https://doi.org/10.1111/theo.12047
 また上記の双方において指摘されているが、難解だが質実な言説と不明瞭なだけで空疎な言説との区別をつけることも重要な視点だろう。
*34 Chrisafis, A. (2018, February 8). “France Is 50 Years behind”: The “state Scandal” of French Autism Treatment. The Guardian. https://www.theguardian.com/world/2018/feb/08/france-is-50-years-behind-the-state-scandal-of-french-autism-treatment
*35 Zaraska, M. (2018, January 16). How France Is Facing Its Outdated Autism Treatment and Care Practices. The Independent. https://www.independent.co.uk/news/long_reads/france-autism-treatment-care-support-french-healthcare-a8161416.html
 なお、この記事は自閉症関連のニュースサイトspectrumnews.orgからの転載(https://spectrumnews.org/features/deep-dive/france-faces-outdated-notions-autism/)。
*36 Schofield, H. (2012, April 2). France’s Autism Treatment “Shame.” BBC News. https://www.bbc.com/news/magazine-17583123
*37 Ditz, L. (2012, January 20). A Culture of Abuse: Autism Care in France. Thinking Person’s Guide to Autism. https://thinkingautismguide.com/2012/01/culture-of-abuse-autism-care-in-france.html
 このTPGA(Thinking Person's Guide to Autism)というメディアはワクチン推進団体が運営しており、似た名前の「Thinking Autism」という反ワクチン団体とは関係がないという注意書きがある。かつてMMRワクチンと自閉症との関連性が捏造された「ランセット自閉症詐欺」という研究不正があり、主要人物のアンドリュー・ウェイクフィールド(元医師で、この事件により医師免許剥奪)はその後、反ワクチン活動家になった。この虚偽研究の拡散とその後のウェイクフィールドの活動により、世界各国でワクチンの摂取率が低下したという。おそらくそうした背景から、科学的根拠に基づいてワクチンを推進し、疑似科学の反ワクチンと戦っているのだろう。
*38 Bates, R. (2018, April 17). France’s Autism Problem – and Its Roots in Psychoanalysis. The Conversation. https://theconversation.com/frances-autism-problem-and-its-roots-in-psychoanalysis-94210
*39 Writer, S. (2012, May 20). French Autism Therapy Criticized. Columbia Daily Tribune. https://www.columbiatribune.com/story/news/2012/05/20/french-autism-therapy-criticized/21625731007/
*40 Davidson, C. (2014). Management of autism in France:“a huge job to be done”. The Lancet Psychiatry, 1(2), 113–114. https://doi.org/10.1016/S2215-0366(14)70290-1
*41 Psychoanalyst Error Delayed Effective Treatment of Autism in France. (2019, February 4). RFI (Radio France Internationale). https://www.rfi.fr/en/france/20190402-dominance-psycho-analysts-delayed-effective-treatment-autism-france
*42 Mackle, S. (2022, June 14). On Neglect for Those Impacted by Autism in France. The Roosevelt Group. https://www.roosevelt-group.org/quick-takes/on-neglect-for-those-impacted-by-autism-in-france
*43 Bishop, D. V. M., & Swendsen, J. (2021). Psychoanalysis in the treatment of autism: why is France a cultural outlier? BJPsych Bulletin, 45(2), 89–93. https://doi.org/10.1192/bjb.2020.138
 この論文の概要は問題を簡潔に纏めている。「ほとんどの国では、自閉症には社会的介入や行動療法的介入が推奨されている。しかしフランスでは、患者、家族、精神保健の専門家の反対にもかかわらず、精神分析が未だに用いられている。精神分析の支持者たちは、治療アプローチの選択は文化的嗜好の問題であり、精神分析への反対は誤解から生じていると主張する。私たちは、より根深い問題は、精神分析がエビデンスに基づいていないこと、母親を悪者にし、子どもを虐待の危険にさらしかねない、子供と大人の性的関係への焦点化であることを論じる。さらに加えて、フランスにおける精神分析は、強力な教育的・政治的ネットワークによって批判から守られている(In most countries, social or behavioural interventions are recommended for autism. However, in France, psychoanalysis is still used, despite objections by patients, families and mental health experts. Supporters of psychoanalysis maintain that the choice of therapeutic approach is a matter of cultural preference, and that objections to psychoanalysis arise from misunderstandings. We argue that more deep-rooted problems are the lack of an evidence base for psychoanalysis and its focus on sexual relationships between children and adults, which demonises mothers and can put children at risk of abuse. Furthermore, psychoanalysis in France is protected from criticism by powerful educational and political networks.)」
*44 Spinney, L. (2008). Packing therapy for autism. The Lancet, 371(9614), 724. https://doi.org/10.1016/S0140-6736(08)60339-6
*45 Spinney, L. (2007). Therapy for autistic children causes outcry in France. The Lancet, 370(9588), 645–646. https://doi.org/10.1016/S0140-6736(07)61322-1
*46 Hughes, V. (2012, February 28). Documentary Review: ‘Le Mur’ (‘The Wall’). Spectrum. https://www.spectrumnews.org/opinion/reviews/documentary-review-le-mur-the-wall/
*47 この映画における精神分析医たちの発言は以下の、イギリスの心理学者のブログ記事に英語で纏められている(このブログ主は実のところ、注43前掲論文の著者の一人であり、なかなか面白い人物のようだ)。Bishop, D. V. M. (2012, January 23). Psychoanalytic Treatment for Autism: Interviews with French Analysts. BshopBlog. https://deevybee.blogspot.com/2012/01/psychoanalytic-treatment-for-autism.html
 またコメント欄にはフランスで四年間、心理学を学んだという人の話が載っており、自閉症に関して、実際にベッテルハイムやラカンの「理論」が教えられており、他の先進国では主流の認知心理学は無視され、敵視されていたという証言が引かれている。
*48 Jolly, D., & Novak, S. (2012, January 19). A French Film Takes Issue With the Psychoanalytic Approach to Autism. The New York Times. https://www.nytimes.com/2012/01/20/health/film-about-treatment-of-autism-strongly-criticized-in-france.html
 作品の中で精神分析医たちが自閉症を母親のせいにしていたことから、この映画は海外のフェミニストの間でも話題になったらしい。とはいえ皮肉にも日本では以前、マルクス主義系フェミニストの上野千鶴子が同様に、自閉症の原因は母親の過保護・過干渉にあるという説を唱え、その後の対応も含めて厳しく批判されている。たとえば以下を参照。布施佳宏(1996)「自閉症の神話」『京都外国語大学研究論叢= Academic bulletin, Kyoto University of Foreign Studies/京都外国語大学機関誌編集委員会』京都外国語短期大学機関誌編集委員会編、47号、286–304頁。http://honobono2000.com/fuse/book.html
 このような「親の育て方が悪い」という考え方は2012年、大阪維新の会・大阪市議会議員団が提案しようとした「家庭教育支援条例(案)」の中の、乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害の大きな要因であり、子育てによって発達障害が予防できるという主張にも通じる。大阪維新の会・大阪市会議員団. (2012, May 2). 家庭教育支援条例(案). https://osakanet.web.fc2.com/kateisien.pdf
 フランスでは精神分析が文化的・政治的影響力を持った結果、誤った考えが蔓延ったわけだが、日本でもそのような思想が影響力を持てば、同様の事態に陥る可能性が少なからずあるのだろう。
*49 フランス自閉症協会の会長によって、欧州評議会による五回にわたる非難とそれに対するフランス政府の対応策、その対応策に対する批判がまとめられている。Langloys , D. (2014, September). Autisme, France et Conseil de l’Europe: La France n’est Pas Aux Normes Européennes. Autisme France. https://www.autisme-france.fr/f/d5489f752b2571c74ed2c757d1ba3cdc1bd61fa8/Europe-Autisme-ConseilEurope_2014.09.pdf
*50 Amaral, D., Rogers, S. J., Baron-Cohen, S., Bourgeron, T., Caffo, E., Fombonne, E., ... & Van Der Gaag, R. J. (2011). Against le packing: a consensus statement. Journal of the American Academy of Child & Adolescent Psychiatry, 50(2), 191–192. https://doi.org/10.1016/j.jaac.2010.11.018
*51 Autisme et Troubles Envahissants Du Développement : La HAS Publie Un État Des Connaissances Partagées. (2010, March 24). Haute Autorité de Santé (HAS). https://www.has-sante.fr/jcms/c_937156/fr/autisme-et-troubles-envahissants-du-developpement-la-has-publie-un-etat-des-connaissances-partagees
*52 Bureau, R., & Clément, C. (2023). “Survival classes for a neurotypical world”: What French autistic adults want and need after receiving an autism diagnosis. Autism, 13623613231183071. https://doi.org/10.1177/13623613231183071
*53 Autisme et Autres Troubles Envahissants Du Développement : Interventions Éducatives et Thérapeutiques Coordonnées Chez l’enfant et l’adolescent. (2012, March). Haute Autorité de Santé (HAS). https://www.has-sante.fr/upload/docs/application/pdf/2012-03/recommandations_autisme_ted_enfant_adolescent_interventions.pdf
*54 Fasquelle, D. (2012, January 24). N° 4211 - Proposition de Loi de M. Daniel Fasquelle Visant l’arrêt Des Pratiques Psychanalytiques Dans l’accompagnement Des Personnes Autistes, La Généralisation Des Méthodes Éducatives et Comportementales et La Réaffectation de Tous Les Financements Existants à Ces Méthodes. Assemblée Nationale. https://www.assemblee-nationale.fr/13/propositions/pion4211.asp
*55 Prial, J. (2016, August 12). Autisme : Les Députés Refusent d’écarter La Psychanalyse. Pourquoi Docteur. https://www.pourquoidocteur.fr/Articles/Question-d-actu/18804-Autisme-les-deputes-refusent-d-ecarter-la-psychanalyse
*56 un committee on the rights of the child (crc). (2016, January 29). Concluding Observations on the Fifth Periodic Report of France. Refworld. https://www.refworld.org/docid/56c17fb64.html
*57 Chrisafis, A. (2018, April 6). France Unveils €340m Plan to Improve Rights of People with Autism. The Guardian. https://www.theguardian.com/world/2018/apr/06/france-to-unveil-340m-plan-to-improve-rights-of-people-with-autism
*58 Autisme france. (2020, July 1). Alternative Report of The French Autism Association Autisme France to The Committee on The Rights of The Child in the Context of The Review of The Sixth Periodic Report of France by The Committee on The Rights of the Child. https://v1.all-in-web.fr/offres/doc_inline_src/577/Rapport_alternatif_Geneve_2020_EN.pdf
*59 少し古いが、専門家(来日したフランスの分子生物学者)が自閉症について非常に平易に語ったものとして、以下の日本語の記事がある。福祉新聞. (2014, October 6). 自閉症の遺伝子診断は幻想 フランスの分子生物学者が講演. ハフポスト. https://www.huffingtonpost.jp/fukushi-shimbun/autism-1_b_5653912.html
 また自閉症についての近年の総説論文としては、たとえば以下がある。Lord, C., Brugha, T. S., Charman, T., Cusack, J., Dumas, G., Frazier, T., ... & Veenstra-VanderWeele, J. (2020). Autism spectrum disorder. Nature reviews Disease primers, 6(1), 1–23. https://doi.org/10.1016/S0140-6736(18)31129-2
*60 もっとも、日本の場合は臨床心理学において、ラカン派ではなくユング派が蔓延って権勢をふるった結果、その分野が学問というより宗教や呪術に近づき、「井の中の蛙」「鎖国」「ガラパゴス」状態となって、やはり英米に比べて、数十年遅れてしまったという指摘がある。以下の「はじめに」および97–100頁、209–211頁を参照。原田隆之(2015)『心理職のためのエビデンス・ベイスト・プラクティス入門』金剛出版。
 この本によれば、日本のひと昔前の臨床心理学は(スタノヴィッチが指摘した前時代のフロイトのやり方と同様)実証的な実験を行わず、ひたすら事例研究と内観に頼ってしまったようだ。そしてそれを主導したのがユング派の権威、河合隼雄だという。その意味では、河合は日本においてラカン的な影響力を発揮したと言えるのかもしれない。この点で興味深いのは、ラカンが晦渋な表現を多用したのに対して、河合には「こころ」「たましい」といった平易な表現が目立つことだ。河合の場合、同様に平易な表現を志向する小説家の村上春樹と交流があり、ラカンを含むポストモダン思想の場合、前衛的な文学のスタイルとの類似性がよく指摘される。そして村上の小説が様々な解釈を誘発する謎めいた物語を特徴としているのに対して、ポストモダン思想もまた様々な解釈を誘発する意味不明瞭な文章を特徴としている。
 おそらく多くの人々が惹かれる魅力として、相田みつをの詩のような素朴に胸に響く平易な表現が一方にあり、また他方には、椎名林檎の擬古文調の歌詞のような一見、難解そうで格好よく思える「中二病」的な表現があるのだろう。
*61 注28前掲文献(Evans, 2005)の「Lacan in the USA」を参照。
*62 Smith, B., Albert, H., Armstrong, D. M., Marcus, R. B., Campbell, K., Glauser, R., ... & Wolenski, J. (1992). Derrida degree: A question of honour. The Times (London). Saturday, May 9, 1992. http://ontology.buffalo.edu/smith/varia/Derrida_Letter.htm
*63 『「知」の欺瞞』、vi頁。
*64 ジャック・ブーヴレス(2003)『アナロジーの罠』宮代康丈訳、新書館。この本の訳者あとがきでは、日本でもかつて『「知」の欺瞞』で批判された思想家たちと同じような轍を踏み、ゲーデルの定理を数学の形式体系とは無関係な領域に濫用した議論が行われていたことが指摘されている(おそらく誤って持て囃された文芸批評家か何かの仕業だろう)。
*65 ラカンの表現はあまりにも不明瞭すぎて、信奉者の間でさえ、その代表的な概念の意味について意見の一致が得られておらず、ラカン派内部には深い理論的分裂が存在し続けていることが、ラカン概念の人気解説書を書いた精神分析家によってまさに指摘されている。注33前掲論文(Buekens & Boudry, 2015)を参照。
 とはいえ見方を変えれば、それがラカンの魅力の一つなのだろう。というのも、研究者ですら妥当な解釈に収束する見込みがない場合、一般の読者であっても、それと同じ土俵に立つことができるからだ。名高い研究者がラカンの解説書を書いたとしても、読者は「これはこの研究者にとってのラカンでしかなく、本当のラカンではない」などと言って、それとは異なる独自解釈を打ち出すことができる。科学分野では、たとえば「相対性理論は間違っている」といった独自解釈を素人が打ち出しても、それは「トンデモ」扱いされるだけだが、ラカンの場合、そもそもその「理論」自体が蒙昧な思想にすぎず、普遍性や客観性のある知識ではないので、信奉者たちそれぞれの主観的な解釈がいずれも意義深く保持される。
*66 『「知」の欺瞞』、305頁。
 ちなみにフロイトの場合、その思想に科学的根拠を与えることで、それを時代遅れの袋小路から救い出そうと試みる一派もいる。南アフリカの神経心理学者、マーク・ソームズは精神分析家でもあり、精神分析と神経科学との学際領域として、神経精神分析という分野を立ち上げた。その分野名を冠した学術誌も創刊したソームズは、フロイトが現在の神経科学を先取りしていたと考えており、心の主観的研究である精神分析と心の客観的研究である神経科学を融合させるという、二面一元論的なアプローチを提唱した。Solms, M., & Turnbull, O. H. (2011). What is neuropsychoanalysis? Neuropsychoanalysis, 13(2), 133–145. https://doi.org/10.1080/15294145.2011.10773670
 だが、それは数多の神経科学研究の成果から、フロイトの主張に都合よく合致するようなものを「チェリー・ピッキング」しているだけであり、一例を挙げれば、ソームズは夢研究の歴史をフロイトの夢理論に沿うように非常に恣意的に解釈していること、さらにフロイトの夢理論を反駁する研究結果はすべて無視していることを、まさに夢の実証的研究者から厳しく批判されている。Domhoff, G. W. (2004). Why Did Empirical Dream Researchers Reject Freud? A Critique of Historical Claims by Mark Solms. Dreaming, 14(1), 3–17. https://doi.org/10.1037/1053-0797.14.1.3
 神経科学研究ではこういう知見があり、それはフロイトがある時こう言っていたことに合致する、といった主張をしても、フロイトの思弁自体がそもそも非常に曖昧であったり、大まかな図式でしかなかったりするので、解釈の余地が大きく、その分だけ色々な研究結果に当てはめることができてしまう。それでは予言や占いの解釈と変わりがない。たとえば、ソームズは脳幹上部と辺縁系をフロイト理論のイド、大脳新皮質とそれに関連した前脳構造をフロイト理論の自我、その間の調整を行う領域(おそらく前帯状皮質など)をフロイト理論の超自我に当てはめているが、これと同様の解釈はL.ロン・ハバードのダイアネティックスの、身体心、反応心、分析心にも適用できてしまう。Solms, M. (2013). The conscious id. Neuropsychoanalysis, 15(1), 5–19. https://doi.org/10.1080/15294145.2013.10773711
 また当然、神経科学の研究成果にも互いに矛盾するものがあり、フロイトの信念体系にも確固たる一貫性があるわけでもない。そうなると、いったいなぜ現代の神経科学をフロイトに結びつける必要があるのか、その必然性がどこにも見当たらない。神経科学研究ではこういう知見があり、それはフロイトがある時こう言っていたことに合致する、という主張の、後半部分の「フロイトがある時こう言っていたことに合致する」は単に不要であり、どう考えても神経科学の知見だけで議論をした方が生産的だろう。そして実際、ソームズをはじめとした神経精神分析派の論文は主として、自分たちの内輪の学術誌である『Neuropsychoanalysis(神経精神分析)』または精神分析系の学術誌に発表されており、神経科学の主要学術誌に掲載されてはいない。
 このようなソームズの精神分析に対する信奉の表現は、科学を強引に思想に当てはめるという形式を取っており、フランスの精神分析医たちの、思想を強引に科学(が必要とされる精神医学という分野)に当てはめるという形式の逆と言える。だがどちらにせよ、それによって精神分析が救われる見込みはない。
 言うまでもなく、人文学者がソームズのようなやり方に倣って、たとえば現在の自閉症の科学的研究を都合よくつまみ食いしながら、それをポストモダン思想家の「理論」に強引に結びつけたりしたら、それは恣意的な解釈によるこじつけ以外の何物でもなく、まさに愚の骨頂と言えるだろう。




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