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夕焼けの空が見たいのに。

もしかしたら本当は何もしたくないのかもしれない。聞かれるから、ふと頭に浮かんだ、インスタグラムで見たものを答えているだけなのかもしれない。

でも偶の1人の休日に、白いフローリングの床にダランと寝転んでいても、「あ〜〜これこれ!」なんて気持ちにはならないし、ただ右の太腿の付け根が痛くなるだけなんだよなぁ。

自分が求めているものが何なのか、実はもうずっとわからない。自分がどこかに行ってしまって帰ってこないので、それに「成長」という名を付けた。

熱い憤りや震える寂しさを感じるのが面倒臭いと思うようになったのは実はここ最近だ。これが20代と30代の歴とした違いな気もしてくる。
何かを感じても、そこに働きかける労力が怖い。ないとかじゃなくて、怖い。もしかしたらもっと良くなるのに、自分が手にしているものを手放すこととか、環境の変化がひたすら怖い。それでも自分の力ではどうしようもないことがたくさん毎日、日々日々、真横で変わっていく。去年は当たり前だったあの人の笑顔や言葉も、今求めなければ真横に来ない。いつかきっと、求めても手に入らなくなる。私は、ずっとずっと、同じで良いのにな……。

昔の人の言葉は普遍的なものだ。
「我思うゆえに我あり」
そうか、じゃあ、やっぱり今は、違う我なんだなと思う。

仕事で器用になるにつれて自分の嫌ぁな部分を知る。人を陥れようとしている時があるかもしれない。そしてそんな自分が評価されている恐怖を、また感じる。それは本当じゃないという鬱屈した気持ちを抱える。褒められなきゃ嫌だけど、褒められても嫌なんだ、私。

十年来の友人は言う。
「何に対しても自分を飾らないところが良いところ」「人の視線を気にせずに生きているところが好き」
これには同意できる。誰かに見られているからと言って、自分を曲げることは出来ない性格だから。そのために、なるべく、どのような事でも、心からそう思えるように心を曲げたことも、もしかしたらあったのかもしれない。

幸運なことに、自然体で生きる私には……
「ありのままで」の歌詞が全く刺さらなかったほどに、思うがままに生きている私の人生には、ごく稀に好きだといって、親しくしてくれる友人や恋人が現れる。救われる。感謝する。

今の私は弱虫だ。
温室で育てられているうちに、こんな風になったのかもしれない。戦う事がめっきり減った。甘やかされすぎたのかもしれない。
次なる戦いを思うだけで胸がきゅっと痛む。もしかしてこれは、恋にも似ている。
ひとつだけ、今のだめだめな私でも間違えたくないこと。
戦う相手はいつも自分の弱い心であること。
なぜだか最近は、つい忘れてしまう。

本当の自分は、きっとどこかで今もあの青春を生きているのかな。怖いもの知らずだったあの自分。まっすぐ立ち向かって、不器用でもきちんと自分の思う正しさとか愛を貫いていたあの気持ち。どうかどこかで生きていてください。
また一緒にやりましょうよ。
私も変わりゆく中にある永遠を探しているんだ。

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