セルフィッシュに「一つ目のドア」を開ける。何度でも|ビデオジャーナリスト/DCTV・津野敬子|マガジン『pathports』全文公開
「What is video, then? (ビデオね。それでそのビデオってのは一体なに?)」──。ビデオという言葉も浸透していない頃、一足先にその四角い機械を担いで、ビデオで「世界を変えよう」と取り組んできた女性がいる。それも、異国で。当時日本人でありながら、エミー賞受賞も含め名実ともに米国のビデオジャーナリズムの隆興を担ってきた津野敬子さんだ。
「今年4月で80歳になります」と言う彼女が単身渡米したのは、1967年、23歳のとき。公民権運動、キューバ革命、ベトナム戦争——1970年代、価値観が足下から揺らぐ激動の時代、まだ誰も手をつけたことのない世界の側面をつついて、両手を差し込んで扉を開いてきた。人生まるごと乗り込んでいく凄みを持ちながら、突き抜ける軽やかさはどこから来るのか。
ビデオで世界を変える。それは人の世界の見え方を変えるということだ。そのためにはまず、自分が見ている世界を変えることから始まる。身を置く場所は自分で見つけること、その場所での使命は自分で定めること。情熱を冷まさずに責任とスタミナをもって続けること。それらすべてを津野さんの言葉で一言にするなら、それは「セルフィッシュに生きる(自分として生きる)」こと。
"どちらか”は、選ばない
津野さんの言うカメラには、「キャメラ」に近い響きがある。キャリアの始まりから今日まで、米国で試行錯誤を続けてきたことが伝わってくる。初めて本気でビデオカメラを向けた他者は、ニューヨークのタクシードライバーたちだった。「ドキュメンタリー1本は、多分、30分くらい必要」。津野さんがたった一つ知っていたドキュメンタリー映像のルール。1968年、ソニーから発売されたばかりの白黒のビデオレコーディング機「ポータパック」を車内に持ち込んで、常に危険にさらされるドライバーたちを映した。すり減って穴のあいたタイヤにフォーカス。防弾ガラスのない車内にフォーカス。生の声を被せるリアル。人からは見えず〝存在していなかった〞、ある生活者の抱える実情を顕にした。
「ビデオで私たちを取り巻く問題をドキュメンタリーで人々に伝える」。それが自分のやることだと、津野さんはニューヨークの街で確信する。多摩美術大学を卒業後に、アーティストを目指して飛び込んだ街だった。女性が単身で海外に渡ることは稀だったが、津野さんは「もし100万円があったら高級中華のフルコースより『外国に行く』」と即答する学生で、大学時代の恩師の言葉が彼女の背中を押した。前衛的なポップアートの中心地は「現地に行って自分の目で見なければ分からない」。小澤征爾のヨーロッパ・バイク旅に憧れて、飛行機ではなく点と点を結びながら行く船を選ぶ。手持ちは500ドルだった。
トンネルを抜けてやっと現れたニューヨークの、灯、街、何より人の賑わいを目にして胸に沸いた「こここそ私が居るべき場所」。これが一つ目の確信。
「あの頃、日本の社会では女性の活躍の場がほとんどなかったんですね。何かのプロフェッショナルを目指せば、家庭との両立は考えられない。ただ、私は両方欲しかった」。日本に残って女性のために活動していく道もあると思いながら「結局、自分のために出ていくことを選んだ」と津野さん。「ああ、私はセルフィッシュなんだ、自分のために生きていこうとしているんだ、と感じました」
家賃65ドル(当時、約23000円)。アーティスト生活にもってこいの念願のロフト(*1)に引っ越し、のちに仕事と生活双方でタッグを組んでいくジョン・アルパート(*2)さんに出逢う。「人のためになることをする」を人生の軸にする彼との合流が転機となり、アートからビデオジャーナリズムの道へ進むことになったのだった。
*1 アーティストの卵たちが屋根裏部屋をシェアして安く借りていた作業場兼住居。当時、ニューヨークではソーホー地区を中心に多く見られた
*2 1948年生まれ。ビデオジャーナリズムの先駆者と評される。エミー賞を15度にわたって受賞。津野さんとともにDCTVの運営にも携わる
一人でできないことは二人で
カメラ4kg、収録デッキ10kg(*3)。自ずと、カメラ担当が津野さん、機材運びとインタビューがジョンさんという分担に。機材の不自由さによって築かれていった二人のタッグのスタイルは、もしかすると一人では到達できなかったところまで二人を飛躍させていく。
*3 当時、ビデオレコーディング機と収録デッキは分かれており、いずれも持ち歩く必要があった
津野さんが「萎縮しないように空手も習ったんです(笑)」と言うほどに、当時の米国の報道陣は男性が多くを占め、特に白人男性が圧倒的多数だった。「50年前、女性がカメラを持つこと自体珍しいのに、東洋人の女性がカメラを持っている。(取材対象者の)警戒心やガードがゆるんだこともあったと思います」。そして、ホームレスであろうが大統領であろうがフラットに接するジョンさんの、素朴でフレンドリーな取材アプローチと相まって生まれる二人のドキュメンタリーは独特だった。一方的、一面的な情報〝以上〞の映像は、大手4局(*4)が占めていた放送業界に一石を投じていく。
*4 民間三大放送ネットワークのABC、CBS、NBC と公共放送のPBS
時代の節目には大手報道陣よりも早く居合わせた。フィデル・カストロの社会革命下で国交のないキューバに米国の撮影クルーとして最初に現地入りしたことが二人の転機となる。孤独を感じていたニューヨークのキューバ大使館の職員たちと、毎週野球をして交流していたからこそ開けた道だった。決断の早さ、そして人間的な勘所を頼りに、その後も二人は戦後のベトナム、ポルポト政権崩壊後のカンボジアにも一番乗りを果たしていく。
自分たちのやることがたった一つクリアであること。だからこその身軽さと強みは「間違いなくありますね。ジョンと私はあまりディスカッションをしませんでした。次はここだ、と決めたらぐずぐずせずに行く」。戦場では他の取材陣が撤退するなかでたった二人、最前線まで詰め寄った。
頑なに。同時に柔軟に
「私たち二人はね、どこに行っても〝ダサい〞二人だったんです(笑)」
手持ちビデオは、マスメディアの報道に対して存在そのものがカウンターカルチャー的だった。大手報道にできないことを探しつつ、時代をからかうようなクールさで切り込んでいくビデオアーティストやグループ、作品も台頭する。そんな時代の先端のグループにいながら、マリファナも吸わないちょっぴり浮いている二人。
ドキュメンタリーのテーマはもっと浮いていた。「地元の病院やプエルトリココミュニティなど、自分たちのまわりにある問題を撮るジャーナリズムという、地味なもの。だからね、どこかダサい二人だったんです」。同時に、反戦や白人社会への揶揄と体制批判といった時代の大きなムード、素人っぽいカメラワークや手持ちゆえのアレ・ブレ(*5)といった新鮮さ、刹那的なクールさには頼らなかった反骨精神も垣間見える。
*5 粒子の荒れ、激しい揺れなどを排除しない、不鮮明で荒々しい写真表現。美しく鮮明に捉える従来のフォトジャーナリズムの規範を無視する、カウンター的なスタイルとして60年代終わりから台頭した
津野さんが作品について話すとき「その人たちはね」と言う。たとえば「出来事」とは言わない。カメラを向けるのはそこに生きる人間だという姿勢がクリアだからだ。初期作品の一つ、ニューヨークのロウアー・マンハッタンに位置するアジア系移民のエリア、チャイナタウンの内情に切り込んだ『チャイナタウン(Chinatown-Immigrants in America)』では、自身の生活圏でもあった同地区にカメラを向けた。「大手報道陣が、自分たちがすでに持っているアイデアに沿ってパッときてパッと撮って帰っていくのとは違ってね」。外からではなく、コミュニティを内側から映した。
定番だった三脚で固定する撮影方法もとらず、手持ちカメラで撮影対象者との距離を縮めていく。厨房で働く労働者の額に浮かぶあぶくのような汗や、異常な量の食材、笑顔でぽつぽつとこぼす一日の過密スケジュールから、移民コミュニティの暮らしとそこにある人々の感情をあぶりだした。津野さん自身が女性であり新移民で、マイノリティだからこそ近づけたものは多い。
津野さんがカメラを向けるとき、「見過ごさない」ためのジャーナリストとしての本領が光る。転機となった『キューバ・その人民』をはじめとする作品群にも、大きな事実に向けるカメラでは捉えられないものばかりだ。物資は貧しいが路上の至るところに植えられた花にみる愛国心、粗末ながらもアイロンのかかった服装にみる生活者のプライド。
「二人にしか撮れない」のゆえんは、機材のモデルチェンジや技術の更新が速いなかで都度、手探りと模索を重ねたアプローチにもある。たとえば白黒からカラーに変わったとき。キューバは太陽の光が強く、アングルを引くと人物の顔が黒く潰れてしまうため、クローズアップを多用して乗り切った。威圧感を解消するために、機材を乳母車に乗せて撮影していたことは、フィデル・カストロの目に留まるきっかけにもなった(その後、ジョンさんは国連総会での演説のために渡米する同氏に同行する、唯一のアメリカ人ジャーナリストとして独占取材を敢行)。
「時代によってカメラのアングルも変わります。ローアングルから顔に接近した撮り方は、大きなカメラではできなかったことですね。そのときの自分たちの制約を認識したうえで『じゃあどうやっていこうか』と、いつも考えていました」
「カメラを誰に向ける?」から、はじまること
出産から10日後には現場復帰をした津野さんにも、キャリアを中断した期間がある。一人娘の人格を形成する大切な時間に向き合うためだった。妻で、母で、自身の母にとっては娘でもあり「ただの一人の人間としての時間は一刻もなかった。それが私にはすごく辛かったんですね」。制作に戻った理由を、津野さんはこう言葉にする。「何も作らないときの自分に、ぽっかりと空いた空間を感じたんですね。自分の手の中で何かを作り続けることが、自
分であることの証だったんです」
制作を再開したとき、津野さんがカメラを向けた一人は戦後ベトナムの混血児だった。自身の娘も日米のミックスであるため「あの子たちはどうしているか」と気になったから。そんなふうに、自身のアイデンティティ、生き方を重ねながら続けてきたのが彼女のドキュメンタリーだ。
あまりにも簡単に、即座に作れるものが増えた今「オリジナルを考えることは難しいでしょう」と津野さん。彼女がドキュメンタリー制作をはじめた、マスメディアの一方的な情報しかなかった当時、「どこに身を置き、誰にカメラを向けるか」が自ずとオリジナリティに結びついた。
技術が発展し普及したことによって誰もが簡単に動画を撮り即座に発信できる今、マスメディアによる一方的な情報しかなかった当時とはまた別の、一方通行な情報が氾濫している節もある。それは「誰もが自分にカメラを自分に向けて言いたいことを流せる。それが多分、今の主流だと思うんですけれども」。津野さんは続ける。「それじゃ満足しない人もいるだろうし、私自身が伝えたいと思うものはそういうものではなくって...」
ドキュメンタリー制作とその上映施設、機材貸し出しとワークショップの実施を主な活動とする非営利組織「DCTV(Downtown Community Television Center)」で特に力を入れるのがユースプログラムだ。貧困層のマイノリティの10代に、ドキュメンタリー制作の授業を通して自分の力で何かを一つ作り切る体験を提供する目的がある。
そこではこんな話もあった。「自分はマイノリティだから、将来大学にも行けて(社会保障の手厚い)退役軍人にもなれるから軍に入隊するんだと言う15歳の子にね、まず自分がいるコミュニティにカメラを向けてみなさいと言ったんです。あなたが喋る言葉は聞かれなくても、撮ることで大人だって耳を傾けるのよ、って。彼は自分と母親にカメラを向けて、彼らの低所得者団地の暮らしをビデオにしたんです」
二人の制作の特徴のもう一つに、一作品に長い年月をかけることがある。先述の戦後ベトナムの混血児は、思春期を経てギャングになっていくその姿を4年、撮り続けた。キューバの撮影には40年。同作品では、揺れ続ける同地での人の暮らしぶりの変化を、ナレーションでも対象者の語りでもなく「数年間の冷蔵庫の中身の差」という画でまざまざと見せた。
「ドキュメンタリーには作る人のすべてが出る」とも津野さんは言う。長い時間をかけることで、取材対象者には変化があり、作り手が抱える感情もそこに込める思いも変わってくる。伝えられることも、伝えられる術も増えていく。
「私とジョンは自分たちに一番合っているやり方でやってきました。ドキュメンタリーにはいろんなフォーマットがあります。皆さんが好きなようにね、自分しかできないものを探していくことが大切だと思うんです」
誰にカメラを向ける? 作る時間と速度は? 一番手前にあるものを自分で考えることから始まるオリジナリティは今でも、今だからこそあるかもしれない。
とにもかくにも、そういうふうにして
自分たちのこれまでをある程度語ったのち、津野さんは「Anyway(とにもかくにも)、そういうふうにしてね」と話をひと区切りした。軽やかに響く「そういうふうにしてね」には、その実、言い切れないものが詰まっている。
誰も光を当てないものにピントを合わせることは、時に惨状にカメラを向けることでもある。人間として一線を越えていることもあると津野さんは自覚している。それでも「この人のことを映し伝えることで、世界について理解できることがきっとあるはず」と、自分に言い聞かせてカメラを他者に向ける。「そこには結局、『何か作りたい』というセルフィッシュな思いがあるのかもしれないけれど」
成果を自負するけれど、後ろめたいことも同じだけ胸に置く。そのうえでやめることなく次を考え続ける。津野さんの言うセルフィッシュは、自分としての生き方に隅まで向き合ってやっていくことなのだろう。それがことビデオジャーナリズムを通せば、カメラの先に他者がいる限り、他者に向き合い、関与して生きていくということ。
「まずは一つのことに向き合って、それからその次の一つを考える。いつも半歩先、一歩だけ先を見ながらだったな、と思うんです。私の人生って」
だからこそ、いつでもまずは、目の前にあるドアを自分で開ける勇敢さと軽快さを忘れない。一番近い一つ目を開けてみる。「そうするとね、今度は必ずその次のドアが開きますから」
文=Sako Hirano 写真=Kohei Kawashima 編集=和田拓也 写真提供=DCTV
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