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制約の中から見出した税理士としての可能性、吉川義重さんのありたい姿はーー

 freeeは、6月14日(火)、「freee Advisor Day 2022」を開催します。
 このイベントは、アドバイザーをはじめとする会計事務所、税理士のみなさまとfreeeが、会計業界、そしてその顧問先のみなさまの未来を共に考えるためのものです。
 その開催を前に、「freee Advisor Day 2022」に登壇する方を一部ご紹介します。
 今回は、代々税理士を業としている家に生まれた吉川義重税理士事務所の吉川さんです。伝統あるこの職業とどう向き合い、その意義を見出したか。そのストーリーを、ぜひご一読ください。

「いい人」だと思っていたのにーー。

そんな落胆ぶりが、ありありと伝わってくる。

ある顧客の事務所。
税理士・吉川義重さんは応接テーブルの前で、頭を下げていた。

報酬の単価をあげてほしい。
意を決して、そう伝えた。すぐに分かってもらえる話ではない。お叱りも覚悟の上。そう腹をくくったつもりだった。

実際にはじめてみると、それは思った以上につらい交渉だった。
怒りをあらわにされるなら、まだいい。信頼していたのに…と悲しげな反応をされるのは、かなり堪えた。

一方で、下げた頭の中では、もうひとつの考えが浮かんでいた。
自分の仕事の価値は、報酬を上げるに足るものだと思ってもらえていないのか…。

吉川さんは、3代続く税理士一家だ。

神戸市垂水区、山陽電鉄・垂水駅近く。
線路をはさんで海側には、アウトレットモールなどの再開発地区が広がる。そのにぎわいと対照的に、山側には閑静な住宅街が続いている。

街の歴史を伝える、樹齢重ねたサクラの枝ぶり。
それが、地元の人にとっての吉川家の目印である。

(吉川さん自宅のサクラの木:吉川さん提供)

通りの人々の目も楽しませる花は、やがて春風に散る。
庭をピンクに染める花びら。きれいなうちに掃除をするのは、小学校に上がる前からの吉川さんの"仕事"だった。

「このサクラをあなたも守っていくのよ」

(家の前の掃除をする少年時代の吉川さん:吉川さん提供)

気が進まない様子でホウキを持つ息子に、母はいつもそう繰り返していた。
それが家を守る、ということなのか。子ども心に、そう思った。


吉川さんはものをつくるのが好きだった。
小学校のころ、両親から彫刻刀を買い与えてもらった。夢中になった。木材から動物やら建物やらを削り出した。自分のイメージが形になるのが、何より楽しかった。

同じような理由で、料理にも夢中になった。
母がシュークリームやパンを焼くのを見て、自分も真似をするようになった。中学のころには、家族の誕生日のたびにいちごのショートケーキをつくって祝っていた。

(吉川さん手作りのケーキ:吉川さん提供)


ものをつくることを、仕事にしたい。
自然とそう思うようになった。中学卒業が迫るころ、思い切って両親に切り出した。

「高校に行かず、パティシエの修行をしたい」

両親は驚いたように顔を見合わせていた。
だがやがて、父が吉川さんにこう告げた。

「厳しい世界だから。まずは高校を出なさい」
 
言葉は優しかった。
だが、一方で冷徹にも思えた。言外に「お前の道はそっちじゃない」と伝えられた気がした。

サクラの下で繰り返していた母の言葉がよみがえった。
自分は家を守ること、つまりは税理士事務所を継ぐことを求められている。そして、それに応えるしかないのだろう。


出口はもう、決まっているのだーー。
吉川さんは青春時代を、ある意味淡々と過ごした。

小さい頃から、熱くなると鼻血が出てしまう体質だった。
だから、中学に進学する際、母が「学生服を脱がせてもいいか」と掛け合ってくれた。学校側も学生手帳に「半袖でもいい」と書いてくれた。

学ラン姿の同級生にまじり、ひとりだけ一年中半袖シャツを貫き通す。
高校に進学しても、なんとなくそれを続けた。雪が積もるほどの寒さでも「平気だ」とうそぶく。周囲からは「個性派」と思われていた。

だが、本人はそうは思わなかった。
自分の個性は、その見た目だけ。将来も決まっているし…。さめた目で、自分を見ていた。

とりたてて、やりたいことがあるわけでもない。
いずれは税理士の国家試験を受けるのだから、それまでは何をしていても一緒。そう思う中で、大学時代も過ぎていった。

大学を卒業したので、勉強を始めた。
専門学校には、大学生がたくさんいた。在学中から国家試験の準備をはじめるのが一般的なのだと、そこではじめて知った。


会計科目2科目と税法科目3科目、あわせて5科目の国家試験で合格する。
税理士の資格は、そうしてようやく得ることができる。1年目は全滅。2年目にしてようやく、簿記論と財務諸表論の2科目に合格することができた。

残り3つは、税法に関する難関科目。
まだまだ先は長い。そう思っていた矢先に、思わぬことが起きた。

財務諸表論の担当教員から「教える側」として推挙されたのだ。

教員はベテランで、その年限りで一線を退こうと考えていた。
自分の後を受け継いでくれる若手教員をーー。そこで白羽の矢が立ったのが、吉川さんだった。

専門学校の事務局から、電話がかかってきた。
「吉川さんを財務諸表論の講師に推挙する声があるのですが、お願いできませんでしょうか?」

「事務所を継ぐ」以外の道を示され、うながされる。
なんだか、不思議な気持ちだった。教えるなら授業料を払わなくていい、という提案にも背中を押された。気づくと「やります」と答えていた。


授業にはきちんとした「指針」があった。
東京にある本部校の講義内容が、録音されて送られてくる。それをまねて、生徒に話せばいい。

だが、実際には簡単ではなかった。
同じ内容をしゃべっているはずなのに、授業を受け持つたびに生徒が減っていく。吉川さんは早々に、精神的に追い込まれた。

同僚の講師からは「君みたいなもんが講師したらあかんやろ」と言われた。

「あの先生は阪大。あの先生は神戸大。大阪産業大出身の君が教えられる場とちゃうやん」

冗談のつもりだとはわかった。
だが、状況が状況だっただけに、その言葉は頭にいつまでもこびりついた。

それでもなんとか、1年間の授業をやり遂げた。
すると財務諸表論で合格を勝ち取った生徒から、最後に声をかけられた。

「ありがとうございました。先生のおかげです」

その言葉は、あたたかみを伴って胸に強く響いた。
「家を守る人」としてではない。吉川義重という人間そのものを、はじめて認めてもらった気がした。

オレだからこそ、生徒みんなの気持ちに寄り添えたところもあるんやろか。
そんなことを思うと、胸のうちが少しだけあたたかくなった。


家業を継ぐ以外にも「自分だからこそ」の道があった。

講師としてもらえる給与が、最大で年間500万円ほどになったこともある。
吉川さんの気持ちは、自分で試験を突破することよりも、生徒に突破させるほうに向いていった。

30歳手前で一度「このままでいいのだろうか」と思い直した。
2科目しか合格していないのはあまりにも中途半端だ。いったん講師をやめて受験に専念した。

教える側に回って得たものも、あったのかもしれない。
最大の難関科目「法人税」を1年でパスできた。達成感があった。すぐに講師に復帰した。

残りの2科目は、講師をしながら合格できた。
念願の税理士国家資格。だが、吉川さんは講師をやめなかった。

資格を得たこともあって、吉川さんは父の税理士業を手伝う機会が増えていた。
だが、仕事のほとんどが、書類作成を代行する作業。生徒から直接「ありがとう」と言われる講師の仕事に比べて、あまり魅力を感じることができなかった。

収入面でも、やりがいを考えても、講師の仕事があってこその人生。
そうやって、吉川さんの30代は過ぎていった。


転機は40歳直前で訪れた。
吉川さんは結婚をすることになった。

家計を支えられるくらいの収入を。
そう考えたときに、世の初任給レベルだった家業側の手取り額を見直してほしいと思った。

実家の一角。
事務所になっている部屋は、子どものころから「異空間」のようで、入りにくいものを感じていた。

(吉川さんのお父様の仕事風景:吉川さん提供)

大人になっても、思わず姿勢を正して入る。
父はいつもの難しい顔で、書類に目を通していた。思い切って切り出す。

「給料を増やしてほしいんだ」

少しだけ間を置いて、父が応じた。

「だったら、お前が全部やるといいよ」

書類をテーブルの上に置いて、眉間のあたりをもみほぐしている。
目が悪くなり、数字を見るのがつらい。そんなことは、以前からこぼしていた。

あっさりとしたものだった。
そのやりとりをきっかけに、父は「引退」をした。当時74歳。ずっと待っていたのかも知れない。


父が去った事務所には、何百冊という書籍が平積みになっていた。
書類も山のように残されていた。まずはこいつらをなんとかしないと。吉川さんはひとり、ため息をついた。

だが、残されたものは、それだけではなかった。
一般的な水準と比較して、明らかに低い「顧問料設定」だ。

父は地元の人たちから受ける仕事の単価を、とても低くしていたのだ。

1995年の阪神淡路大震災。
震源地に近い垂水の街は、甚大な被害を受けた。全壊してしまった家屋も多く、吉川さんの家も屋根瓦の大半が崩れ落ちた。

みんな被災者。
地元に長く暮らすもの同士、助け合わないといけない。

そう考えた父は、お金にまつわる悩み事なら、税理士業の枠にとらわれずに手助けしていた。
震災から20年間、顧問料を上げることもなく、地元のために奔走し続けてきたのだ。

両親は「家を守ること」にこだわっていた。
その理由が、少しだけ分かった気がした。

震災後の苦難を乗り越える中で、被災地には地元を愛する「なんでも屋」が必要だった。

おそらく祖父は祖父で、当時の垂水の街のために走り回っていたのだろう。
家を守るというのはきっと、それぞれの立場で「地元を守る」ことでもあるのだ。


吉川さんは、講師をやめた。

家業の立て直しに割く時間に加えて、増えた家族と過ごす時間もできた。
今までと同じように、教えることに熱をそそぐことができなくなった。思い入れがあるからこそ、中途半端にはできなかった。

そして家業の立て直しに集中した。
父の税理士としての所得は、300万円程度しかなかった。単価が低いことに加えて、顧客の代がわりが進んでおらず、仕事の数も減ってしまっていた。

これでは「なんでも屋」を存続させることはできない。

なにか新しいやり方を考えないと。
とりあえずはこの、山積みの書類をなんとかするところからかな。そう思っていたところに、連絡が来た。

クラウド会計サービスの営業だった。


顧客から預かった山のような領収書を、手で仕分ける。手でひとつひとつ数値を入力する。
そんな父親の姿をみて育った吉川さんにとって、クラウド会計サービスは、未知の世界のものではあった。

ただ、魅力的だとは感じた。
あの山のような領収書を入力しなくてよくなる。しかも、やれることは、そうした作業支援にとどまらないという。

新しい顧客の紹介。事務所業務の解析。
そんなところまで、クラウド会計サービスの営業スタッフは提案をしてきた。

特に気になった機能があった。
もらっている対価と、提供しているサービスのバランスをはかる、というものだ。さっそく依頼してみると、請け負っている作業量に対して、対価が少なすぎるという解析結果が出た。

やはり、そうなのか。
決断を促された気持ちになった。


報酬の単価を上げてほしい。

クラウド会計サービスが出してくれた解析データを手に、吉川さんは顧客のもとを回った。
父親の代からの顧客の多くは、快くOKをしてくれた。

この街にはなんでも屋が必要。
お父さんの信念をしっかり受け継ぎなさい。そんな気持ちのこもったバトンをもらったように感じた。

一方、新しい顧客の中には、がっかりした気持ちを隠さない人もいた。
当然だと思う。仕事の中身ではなく「良心的な価格設定」をみて、ほかではなく吉川さんの事務所を選んだ、という人がほとんどだからだ。

何度も頭を下げながら思った。
下請けのような仕事には、それくらいの価格設定がふさわしい。そう思われているところもあるのだろうかーー。

快く単価アップに応じてくれた人々の顔も思い浮かぶ。
そちらはそちらで「かつての父の仕事ぶりへの感謝」「地域にはなんでも屋が必要」という思いが大きいのかもしれない。仕事ぶりを評価してくれて、単価アップに応じてくれた人がどれほどいるのか。

自分の仕事の価値とは、いったいなんなのか。
もっと面白いことをしたい。痛切に、そう思った。

「面白い」とはつまり、自分だからこそ提供できる価値がある、ということだ。


吉川さんは、クラウド会計サービスを全面的に取り入れることにした。

自分の作業をデジタル化するだけではない。
顧客にもサービスの使い方をレクチャーする。そのために、新しいスタッフも雇い入れた。

そうやって顧客の「自計化」を進めれば、税理士の作業量は減る。
それだけなら、仕事も報酬も減ってしまうだけ。だが、吉川さんの「面白い」が始まるのはそこからだった。

捻出できた時間を使って。
顧客への「コンサル」が始まった。

クラウド会計サービスは「人事」「労務」「決済」といったあたりに有用なアプリと連携できる。

Amazonでの備品の購入履歴。従業員の勤怠データ。
Airレジのような決済システム経由の売り上げも、設定次第で自動的に会計サービスに連携される。

これらは事業主にとって、非常に大きなメリットがある。
だから、吉川さんは顧客ひとりひとりから聞き取りをして、必要なアプリを組み合わせた連携システムを提案して回った。

顧客が喜んでくれる。手応えとともに、再確認することがある。
ものの教え方のこつのようなものが、自分にはしっかりと身についている。

それは間違いなく、専門学校の講師を務めた20年間で培ったものだ。
遠回りも、無駄ではなかった。そんなことを思った。


サービスをうまく組み合わせて、顧客が喜ぶような「体験」を設計する。

税理士というのは、クリエイティブな仕事だ。
吉川さんはそう思えるようになった。

塊のような木材から、彫刻刀で作品を削り出す。
あるいは、生地作りからはじめてケーキを焼き上げる。子どもの頃にあこがれていた仕事に通じるものが、税理士にもあった。

クラウド会計サービスという仕組みの力も大きい。
紙の時代なら、こうはいかなかっただろう。デジタル化の時代に家業を継ぐことができためぐり合わせ、縁のようなものも感じている。

そして何よりも、このクリエイティブな仕事に導いてくれたもの。
それは、守るべきと言われて育った「家」の存在だ。

庭のサクラの木は、今年も見事なまでに咲き誇った。
それを見ながら、吉川さんは思う。

「守るべき家、継ぐべき仕事がなければ、自分は試験に合格するまで勉強を続けることはできなかったと思います。ものすごく時間がかかったけど、でもやり遂げられた。それはやはり、家のおかげです」

庭に散ったはなびらを、吉川さんの子どもたちが掃除している。
母が孫たちの"活躍"を、うれしそうに見守っている。

気長に自分を待っていてくれた父の背中が思い浮かんだ。
吉川さんは、語気を強めて宣言する。

「より高度で、面白いなんでも屋さんに、僕はなりたい」(了)

(文・塩畑大輔/写真・齊藤友也)

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