外部記憶媒体を持つという選択の是非
この記事を見て、私は思わず叫びそうになった。
「似たこと考えている人いた!!!!」
このえもいわれぬ感動というか、共感というかに引きずられるまま、こうして記事にまとめるように仕向けられている。もし日記を引用されることに不快感を抱く方でしたら、すぐ削除しますので遠慮なく……
外部記憶媒体を持つことのメリット
さて、しゅんさん(以下、「彼」と呼ぶことにする)の主張は考えていることの一部を脳の外部に出力しておくべきだ、というものだ。彼はその理由に以下を挙げている。
思考を切り取って外部に置いておくことができる
思考材料を一覧できる
大事なものに集中することができる
これらの理由、実は思考と記憶を区別して再考するともう少し厳密に内部と外部を区別することができる。
まず言えることとして、自分から切り取られた情報は、オートマトンにより遠隔的に動作したり、他の人間によって操作されない限り、変化することはない。つまり、タスクや考えていることを外部に出力していることは、情報を外部の媒体に記憶させているにすぎない。
また、思考材料を一覧できるという点だが、これは自分が記憶の引き出しを開けたままにしておくことに割く脳のリソースを浮かせることができるというメリットがある。人間は思考することにより多くのリソースを割くことができ、必然的に考えがまとまりやすくなる。これを主観的に捉えた結果が「大事なものに集中できる」ということなのだろう。
以上をまとめると、内部にあることを外部にストレージしておくメリットはこのようにまとめられるだろう。
情報の記憶を外部に委託できるので、記憶に脳のリソースを割かなくてよい
外部に出力した情報か内部に残した情報のどちらかに集中できる
メリットを魅力的に感じた私は、大学入学以降この姿勢を貫いてきた。タスクはTo Doリストにまとめてリマインダーをかけ、予定はスケジュール管理アプリで目的別に分けて必要な人と共有した。大学での学修も例外ではなく、教科書や板書は全てiPadや各社クラウドに保存されている。
効果は絶大だった。物忘れが高校生のときと比べて格段に減ったし、将来の予定も立てやすくなった。大学では、真に考えることだけに注力することができた結果か分からないが、学部生にしては専門的な人間になったと思う。
外部記憶媒体を持つことのデメリットも当然ある
しかし、手放しで喜んでよい結果かと言われるとそうではないということも注意しておきたい。弊害として、私はもう外部の媒体なしでは非力な人間になってしまったのだ。
今週は随分と雨の酷い日が多かったが、友人と立ち話をしているとふと友人が言った。
「今度〇〇にでも行かないか。週末とかどう?」
私はただちにスケジュール管理アプリ(が入っているスマホ)を取り出そうとするが……その日は雨である。スマホはリュックサックの中にしまい込んであるし、傘で片手が取られているので思うように取り出せない。
見かねた友人は「駅でまた見てくれたらいいさ」と優しく言ってくれたが、友人は週末の予定を何かを確認することもなく即答していた。
友人と私の違いは、脳に記憶する能力を期待したかどうかであった。私は物忘れの激しい脳を信用せず外部に記憶させたが、友人は一部には外部のアプリやらに頼りつつも内部で記憶しておくことも忘れなかった。内部の情報を移動してしまうのではなく、同期するに留めたのだ。
私はこの外部記憶媒体とでも呼ぶべき様々な情報管理サービスの弊害を、最近になって実感したのだった。だからこそ今、彼の記事を読んだときにこの記事を書かねばならない、と自分を駆り立てたのだった。
手書きかキーボードか?
以前、とある科目にてゲストレクチャーがあり、招待された元大学教授の先生がこう仰っていた。
「本を読んで、大事だと思う箇所が見つかったら、それを具にノートに書き写し、解釈を下に添えなさい。ペンで紙に手書きして行いなさい」
当時は「何を時代遅れなことを」と半ば一蹴してしまったが、今ならそのことの価値が少しわかるような気がする。手を動かして文章を編むうちに、自分の脳で文章が反芻され、出力されることで記憶の制約から解放され、真に文章の本質と向き合うことができる。更には、手書きはワープロ等に比べゆっくりと書き上げるから、思考のペースとも整合しやすい。
デジタル化が急速に進む現代、ノートを何冊も持ち歩く光景はもはや絶滅したものと思われるが、そうであっても、手書きの存在は記憶と思考のやり取りの上で欠かせないものに違いない。
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