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勉強は楽しいですか?辛くないですか?

私の知り合いは、当然だが、誰もが勉強ばかりをやってきたわけではない。部活や仕事に没頭している人も多くいる。そのような方々から、表題のような質問を受ける。

高校生のときの私は答えに詰まってしまっていたが、今は自分の中ではっきりとした答えが用意されている。

楽しい・楽しくないという感覚ではやっていないですね。必要かそうでないかというか……自分の興味を持ったことに取り組むのに勉強が必要だった、というだけだと思っています。

「必要」という言葉をしきりに使っているが、時に私は、使命感とでも言うべき責任感でもって大学での勉強や自主学習に臨んでいる節がある。使命感というのは、以下の意味である:

与えられた任務をやりとげようとする責任感。「―が強い」
広辞苑 第六版(2008)

広辞苑の説明にあるように、使命感はある任務が与えられているという点と、それを達成しなければならないとする責任感があるという点の2つでできている。

私の先のような感情での学びというのも、この2つの点に分解できる。
まず、任務が与えられているという点について。私は勉強をするときに、必ず計画を立てるようにしている。どの勉強が私には必要で、どの勉強が私には不必要かを考え、その前提となる知見があればそれも組み込み、数年後から今に至るまでを計画している。この計画が今の時期の自分に割り当てている勉強量の一部を、今を生きる自分が今日やろうと割り当てたのだから、「与えられた」という感覚が強い。
また、達成しなければならないという責任感の点について。大学院生という属性は、大学生より遥かに不安定な存在である。社会のはみだし者として疎まれながらも、自らの目標に向かってひたすら学修を続けなければならず、足を止めればたちまち名実共に社会のはみだし者になってしまう。また、たゆまぬ学修を支えるのは確固とした基礎力である。この意味で、大学院生になった自分の責任を持つのは過去から未来全ての自分であり、今の自分の責任感が強くなるのは納得できる。

このような使命感や、それを与えた計画性というのは、自分の性格に強く影響しているものだ。私は計画の外にある出来事を非常に恐れ、あらゆる可能性を計画の中に入れ込むことを目標としている。不確実な出来事も信頼区間のような発想で常に計画に組み込み、途中で適宜修正することで最初から最後までを計画通りに進めるのが最も好ましいと考えている。

この分かりやすい性格は、理解してもらいやすいという点で都合がいいが、共感はされにくいという点で都合が悪くもある。このことについては後の記事で触れようと思う。


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