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6次元と5次元の狭間で3〜空海と親鸞のこと


↓こちらの記事の続きです。


前回の記事で、
”日本のお寺さん、宗教宗派について、その関係性について
ほとんど知りませんでした。”

と、書いたのですが、実は唯一興味を持っていたのは真言密教でした。

たまたま私が通っていた幼稚園が真言宗のお寺で、
毎朝お堂でお経を読まされていました。
おかげでそのお経だけはソラで唱えられるようになり、
大人になってから、ふと、ずっと覚えているこのお経はなんだろう?
と改めて思い、そこから調べ始めて、空海さんが好きになり、
空海さんの本をいくつか読んだりもしました。
そして今は、お正月に真言宗のお寺で毎年大護摩に参加していますが、
だからといって真言宗について深く精通しているわけでもなく…。😅
なので、記事のタイトルに「空海と親鸞」と書いていますが、
非常に浅い知識でのお話ですので、あしからず…🙏🏻



私、空海さんって魔術を学んで体得し、魔術を伝えた存在だと思うんです。

空海さんが「手に印を結び」「口で真言(マントラ)を唱え」「心に曼荼羅(大日如来)を念ずる」という三密を持って即身成仏と成る。と言っているこの三密の儀式はそのまま白魔術の儀式にも通じます。

空海の『声字実相義』(しょうじじっそうぎ)によると、
”「それ如來の説法は、必ず文字(もんじ)による。文字の所在は六塵(ろくぢん)その体なり。六塵の本は法仏の三密すなはちこれなり。平等の三密は、法界に遍じて常恒(じゃうごう)なり」
訳:そもそも如來の説法は、必ず文字によっている。文字の所在においては、六塵(見えるもの・聞こえるもの・嗅げるもの・味わえるもの・触れられるもの・考えられるもの)がその主体である。六塵の本質は宇宙の真理たる仏の三密(身体・言語・意の神秘的な働き)にほかならない。(如来の)差別のない三密は、法界(全世界)に満ち満ちており、永遠である。

とある。

空海の「真言」では、大日如来を象徴とする宇宙の根源から発せられた人間の声すべてのこの世界の音を理解し、体得し、それと同一になることで、自分だけではなく、すべての衆生の救済を目的としていた。すなわち「情報としての言語」ではなく、「叡智としての言語」としての「真言」を語ろうとしており、「言語」を正確に発音し、正しく理解することが必要とされたのである。

wikipedeia「三密」より参照

空海さんは光の言葉を理解し、光と繋がっていた。
そしてその光を三次元の世界に下ろす方法を知っていて
それを伝えようとしていたのですよね。

見えない世界(三密)が見える世界(六塵)に降りてくる。
見えない世界(三密)が全てを包括していて、世界に満ち満ちていて、
それは永遠である。と書いています。

大日如来も、イコールお日さまだなぁ...。と
最近、隙あらば?(笑)、お日様のエネルギーを浴びているので、
こんなところも感慨深いのですが。(笑)



空海さんは日本全国でさまざまな奇跡を残されたという伝承も多く、
そういった部分は今の時代で言ったらサイババさん(もう天に帰られましたが)に近いかと(笑)。
1000年以上の時を超えてもなお、私のようなファンがいるのですから、
当時は本当に神がかり的存在。とてもすごい方だったのですよね。

でもそこに至るまでは数々の修行をされています。
青年の頃、室戸岬の洞窟に籠り、求聞持法という真言を唱える修行している最中に明けの明星が口に飛び込んできて開眼した。というのは有名な話ですが、(その時に見えていた風景が空と海だったから空海だそうです。素敵すぎです。)俗世を離れ、山林で何年もの修行をしていました。

その修行の極まった末の明けの明星であり、開眼であり、こうした部分は誰にでも真似ができるものではないのですよね。空海さんは真理を追求することへのあくなき情熱があったのだろうと思います。



ーーーー
そして前回記事に書きました親鸞さんは、
空海さんが入定されてから300年以上後の人になります。

空海さんとは反対に、親鸞さんは伝承も少なく、どのような生涯であったかが不明確とされていますが、親鸞さんは僧侶でありながら妻帯し、子供を儲けた初めての存在だったそうです。

つまりは、凡夫であっても仏となれるということを実践されていたのですよね(笑)。当時、めちゃ新しい人(僧侶)だったのです。

親鸞さんのお弟子さんが書かれたという仏書『歎異抄』という中に
真言宗との教義の違いを記している章があったので一部転載します。

即身成仏(この身のままで仏に成ること)という教えは真言密教の根本義であり、三密行業の証果である。
六根清浄(※1)という教えは、法華一乗の説くところであり、四安楽(※2)
の行によって得られる功徳である。これらはみな、特に秀でた能力によって行ずることのできる難しい修行であり、精神統一して仏、菩薩をイメージすることにより成就するさとりである。

それに対して、人間の時間意識を破って未来から開かれてくるさとりは、絶対他力を根本義とした浄土真宗の教えである。すなわち、いま、ここで本願力の信心に身も心も定まる道である。これこそ、まったく人間の能力や努力を必要としない普遍的な行であり、善人や悪人という相対的な意味づけや人間の小さな努力を救いの条件とはしない教えである。

だいたい、いのちのある間は、欲望や怒り、罪の意識を断ち切ることは、まったく困難であるから、真言や法華の行者ですら、次の生でさとりを開くことを祈るのである。
まして、われらのように戒律や修行や知恵のないものが、この世で「さとり」を開くことなどないのである。しかし、阿弥陀の本願の船に乗って、迷いや罪で満ち満ちた苦海を渡り、浄土の岸に到着したならば、黒雲のような欲望や怒りの感情が晴れ、たちまちに真実が月明かりのように輝き、あらゆるところを照らす阿弥陀の光とひとつになって、あらゆる人びとを救うときにこそ、「さとり」とは表現するのである。



※1 六根清浄…眼・耳・鼻・舌・身・意という六根を整えて、自由自在な智慧のはたらきを得ること。人間の身心が清らかになった状態。

※2 四安楽(しあんらく)の行…身口意のあやまちを離れる三善行と、慈悲行との、心身を安楽にする四つの行法。六根清浄はこの行によって感得される。自己の身心と他のひとを安らかにするための修行。



(試訳文です。リンク先に本文も載っております。)

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十五章-

私、今回、親鸞さんのことを調べていて思ったのは、
この方は「わかっちゃった」タイプだと思うんですよね。


きっと空海さんが修行の末に観た景色の美しさは格別であって、
きっとその景色は一線を超えていったものだけが知りうる、
誰しもが観るということはできない景色なのかもしれないです。
そういう意味において空海さんの凄さって、もう、
本当に私なんてため息が出るくらい憧れてしまうのですが…。



でも多分、もう修行苦行をしなくても
昔で言うさとりの状態、つまりは宇宙の真理を知ることは
すでに開示され始めていて、
それは誰でも受け取り気がつくことができる。
という時代になったと感じています。


誰かが神で、誰かがヒーローで、凄い人。
というのではなく、もうみんながそれをできる時代。
奇跡と呼ばれていたことが奇跡ではなくなる時代だと。


だから親鸞さんは、まさに今、の人だと思うのです。
そこまでの苦行をせずとも宇宙の真理を
「知っていた」もしくは「思い出した」。

記録があまりないというのは、
宇宙人だったかもですね〜(笑)

自分の高次の光に気がついて、そこに意識を合わせて、
ただそれを信じ切っていれば、その光は下に降りてくる。
善人悪人のジャッジメントさえないのです。
すべてがもともと光であり、ただ光でしかない。



1300年前には、空海さんが魔術を教えてくれて、
身を持ってその奇跡の数々を魅せてくれて。

さらに1000年近く前に親鸞さんが真言(マントラ)で
宇宙と繋がれるよ〜という教えを書いてくれて、


そして今、この時代。


時空は関係ないので、きっと飛び越えて再来しているのでしょうが、
今、親鸞さんのことを知れたこともまた、なんというか、感慨深いです。


親鸞さんのいうように、本当に誰もが光に気がつけて、
彼の土ではなく、この地で仏となり光となることができる
そんな時代になってきているのだと。

しみじみと。



先ほど引用した『歎異抄』の記事の最後に書いてあったことが
またいい感じだったので、最後に載せておきます。

そして、求めていく中で何に気が付くか。
どうしたら超えていけるのかといった時に、生死ということが、迷いではあるんだけれども、同時に「身の事実」と読めるんじゃないかと。

我らは生まれて生きて、いずれ死ぬ。

この「身の事実」ということを自覚させていただくのが、仏道なんじゃないか。それは、「どうにかなる我が身」を教えているわけではない。
むしろ「どうにもならない我が身」にぶち当たっていく。
この身はさとりを開ける身ではない。煩悩具足の凡夫なんだ。
けれども、自分の能力とは全く関係なく、阿弥陀の本願を信じさせていただいて、浄土に往生させていただき、仏と成らせていただく。
その歩みが仏道であり、浄土真宗なのだと言えます。

廣河が「『歎異抄』に聞く」を聞く。-第十五章-より参照


(つづく)(←まだつづくのか〜)(笑)

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