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6次元と5次元の狭間で2〜浄土真宗のこと


↓こちらの記事の続きです。


兄が他界して
すぐに葬儀の打ち合わせとなりました。

うちの代々の宗教(菩提寺)は、浄土真宗(東)なのですが、
実は私は浄土真宗について、ほとんど無知でした。

というか、日本のお寺さん、宗教宗派について、その関係性について
ほとんど知りませんでした。



打ち合わせの最中に、葬儀会社の方から
「葬儀に参列していただいた方には、お塩を返礼としてお渡しするのが通常なのですが、本来は浄土真宗では塩はいらないのです。(実際は色々な宗派の方がお見えになるので、お塩をお渡ししました)」
浄土真宗は、亡くなられた方は光に戻られた。ということだけなので、
死を不浄のものとしていません
ので。」と言われました。


おっ?!


「光に戻るだけ?」「死は不浄ではない?」

この言葉を聞いて、私は浄土真宗に俄然興味が湧きました。



「戒名ではなく、浄土真宗では法名になります。名前も短くて2文字です。」

戒名(かいみょう)は、仏教において、戒を守ることを誓った(受戒した)者に与えられる名前である。仏門に入った証であり、戒律を守る証として与えられる。

wikipedia「戒名」より

浄土真宗における仏弟子としての名は「戒名」ではなく「法名」である。
その理由は、「戒を守り抜くことはできない凡夫たる一切衆生は、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の誓願によってのみ救われる」という教義に基づいて受戒を行わないためである。

wikipedia「法名(浄土真宗)」より参照



「他宗派では極楽浄土へ行くために死装束として短刀を持たせたり、足袋や杖などいろいろとご用意するのですが、浄土真宗ではすでに仏様なので一切必要ないです。とてもシンプルです。」

仏教では、死装束として経帷子(きょうかたびら)を着せて故人を送ります。仏教の考えでは、死者は浄土という仏のいる国へ旅に出るとされており、その旅の装いとして経帷子が良いとされ、お亡くなりになった人のお召し物となりました。その関係で、仏式で葬礼を行っていた日本でも、亡き人に死装束を着せているのです。
ちなみにすべての仏式の葬礼で死装束を着せる訳ではありません。その例として、浄土真宗は、死後すぐに成仏すると考えられ、死装束を着せないことがあります。

死装束の意味とは」より参照


…と。

聞けば聞くほどナチュラルでシンプル。なんか良いなぁ。と思い、
帰ってから少し浄土真宗について検索しました。


浄土真宗というと「他力本願」や「悪人正機」。
念仏を唱えれば出家していなくても、凡夫でも誰でも、仏様に救われる。
みたいなイメージが一般的にあるようで、
ある意味、それが当時の人々への救いになって鎌倉〜平安時代に日本に多く広まったと言われていますが、


読み解いてみると浄土真宗って、めちゃスピリチュアルじゃないですか。




ちなみに、浄土真宗は、親鸞さんなのですが、実際は親鸞さんの死後に、その門弟たちによって開かれたそうです。
親鸞さんは浄土宗の法然さんのお弟子さんでした。

法然を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。
自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。
親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。
浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』の草稿本が完成した1224年元仁元年4月15日)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

Wikipedia「親鸞」より


親鸞さんの書いた本がのちに教義となって、浄土真宗が生まれ、
教義の基本は「南無阿弥陀仏」と、唱えることで誰でも成仏できる。
というものだったのですが

この「南無阿弥陀仏」の意味ですが、これがまた….。

南無:ナモー(namo)の音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマス(namas)の連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依(śaraṇagamana)を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。
阿弥陀:その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明, amitābha)」と「アミターユス(無量の寿命, amitāyus)」に共通するアミタ(無量 amita-)のみを音写したもの。
すなわち「南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。

つまり、「南無阿弥陀仏」と唱えることは、
「私たちははかり知れない光の存在に戻ります。」なんですね。



親鸞は名号「南無阿弥陀佛」を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。

念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行、善行)としては捉えない。

このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する。なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない。

Wikipedia「浄土真宗」より


”名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではない。”

これって、
「如来の本願力(他力)」というのが、光の存在(=魂、ハイヤーセルフのことかな?)であって、
「凡夫のはからい(自力)」というのが自我のこと。
だと思うのです。

"疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まる"

つまりは本来の自分(ハイヤーセルフ)の声を聞くことができるようになって宇宙と繋がり、その声を信じ切ることができた時に、その人は悟り(宇宙の真理)を得る。


という話ですよね。


誤解されている「他力本願」の本当の意味は、自我の我欲に従うのではなく、ハイヤーセルフ(他力)、つまりは宇宙の計らいの本願に従うことである。という意味だったのでは?と。




小学生の頃、夏休みにおばあちゃんのうちへ行くと
お仏壇にむかって毎朝、おばあちゃんが
「南無阿弥陀仏〜南無阿弥陀仏〜南無阿弥陀仏〜南無阿弥陀仏….」
と唱えていた姿を思い出しました。


これって…..最近、私が天使の名前を呼んでいるのと
似ているんじゃない(笑)


祖母は生前、アミダーバを毎日呼んで宇宙と繋がっていた。
今は私が天使たちを呼んでいる…。

光と天使。どちらも6次元的存在です。


浄土宗の開祖法然は、南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀仏に「どうか、私を救って下さいと」願う事で「阿弥陀仏に極楽浄土へ導かれる」と説いたが、
法然の弟子であった親鸞は、これから「南無阿弥陀仏」は
衆生が浄土に往生する因であるから、名号のいわれである「まかせなさい。必ず救うぞという仏の呼び声」を聞信すべきである
という、師法然の解釈に付け加えた。

親鸞は「阿弥陀仏」を本尊とし、名号は六字のほかに
九字(南無不可思議光如来)、十字(帰命尽十方無碍光如来)
の名号を書いている。

南無阿弥陀仏は声に出して、耳で戴くほとけ様でもある。

Wikipedia「南無阿弥陀仏」より参照


(つづく)


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