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子どもの自主的受験が、家庭の崩壊防止のためだったりする

(写真はO-DANより。UnsplashJess Zoerbが撮影した写真)

「自分からやりたいと言ったんです」
「頑張りたいんだよね?」
「私たちは、自由にさせているつもりなんですけど・・・」
「私たちは、どちらでもいいんです」
こちらが聞いてもいないのに、親御さんがこう仰った時、私は少ーし警戒する。
取り越し苦労だったらいいな、と、心から思うけれども、
学習するために私の元を訪れた生徒を、注意深く見るようにしている。

大学受験となれば、18歳くらいだし、そろそろ全て自己責任で決めれば良い。
でも、高校受験を目指す時、その子は13歳や14歳だ。
思春期に足を踏み入れたこれくらいの年齢の子は、本来わがままで反抗的なことが多い。
それなのに、親と考えが至極一致していて、親は「自由にさせているんです」と言いつつ、本人の目の前で「本人がやりたいと言っている」と子どもの代弁者かのように言うのは、若干不自然なのだ。生徒本人がそんな親の横で「ちっ」という表情を見せたり「うるせー」と言ったりすれば、まぁ、大丈夫かな、と思うのだが、そうではなく、親と顔を見合わせてうなづきあったり、ニッコリしたりすると、ん?と、思う。

過去に数人そういう受験生を見てきた。
その子の受験結果が、家庭全体を幸せにするか、不幸せにするか、家族がそれを示唆する雰囲気があったりする。
家族(親。もしくは親の親)の持っている価値観と、その辿ってきた歴史(経緯)で、その子が「この高校を受験して合格する」のが、彼らの平和の均衡を保つための重要なファクターになっていることがある。
子どもは、それを察知すると、
無邪気なふりをし、純粋な野望を述べるふりをし(自分でも意識はせずに)「自分は、頑張るよ!自分のために!」「お父さん、お母さん、応援してね!」などと言ったりする。
「無理しなくていいよ」と親が言ったところで、そんな言葉は、家庭が醸し出す雰囲気の中ではチリのような言葉であって、「大丈夫!無理してないよ!」と言う。
家族の価値観や歴史を背負って、押しつぶされそうなプレッシャーの中で「うちの両親いい人なんです!」と言いながら、懸命に学習したりする。
親の言葉は、私から見たら「免罪符」だ。

そういうのも人生のあり方の一つだろうし、悪いことではないのかもしれない。世界には学びたくても学べない子どももいるのだし、学べるだけ幸せなのかもしれない。
でも、個人的には、こういうふうな学習をしている中学生を見ると、胸が潰れそうな思いがする。
もっと勉強を楽しんでほしい、とか
自分の内側から外に向かっているベクトルで、自分の進路を悩んでほしい、とか
さまざまな思いがわいてくる

私自身は、そういう側面から、その生徒を支援したいし、
それが、彼らや彼女らを形成する何か一因になって、家庭ではいろいろあるのだろうけれど、私の姿勢も、あなたの経験の一部として取り込んで、どうか逞しく生き抜いてほしい!
などと、思う。

今年度から、この田舎でも、中学受験が始まった。11歳12歳で受験を決断する。
対象とする中学に楽々合格していく生徒はそれで良い。
その中学が存在する意義もあるだろう(多分)。
でも、合格不合格ライン上にいる生徒というのは、こういう背景を背負った者もいるだろうことが予想され、
それが、高校受験でリベンジ、とか
大学受験でリベンジ、とかにつながって、
いつまでもいつまでも、そんな空気感の中で学習する端緒になるかもしれないことを思うと、
憂鬱になる。

考えすぎなのかな〜。
どうか、みんなが健やかでありますように。

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