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タイムマシーンで過去に行く時は酔い止めを常備すること

 人間の記憶はあいまいで、自分で創作したものなのか誰かと共有できる「思い出」なのかの判断つかないことが出てきた。
 
ショックな出来事があると、耐えられなくなった心が幻影のストーリーを作り出すとか、違う人格を作り出すとか、精神の不思議でもって社会生活に支障をきたさない「一般的に普通な人」を保とうとする。
 
寝ているときに見た夢を現実だと思って、昔の記憶だと信じているのかすら定かではない。
時々、過去に撮影した写真を見返すことがあるけれど、そこに映っているシーンに真実味が無くて、その場の出来事が思い出せないことがある。
 
会話内容やその場の雰囲気、居合わせた人が誰であったのかも思い出せないが、実際に写真が残っているので、出来事は事実なんだなと受け入れたとて、詳細不明で靄がかかったままである。
 
覚えていない記憶の中には、写真ではなく会話から紐解かれることもある。
父がとある夕食の思い出について「前に、大トロ食べてみたいって言うから、大トロだけの大きな鮨桶買ってきて、半分くらで家族みんな食べるの飽きてしまってたな。覚えているか?」と話し出した。
私の中学時代の出来事らしいが、全く覚えていなかった。
 
大トロの鮨だけの大桶なんて相当値がはっただろうと思うし、楽しそうに話している父が悲しむので、あれは美味しかったなという表情を浮かべながら「覚えている」と答えた。
 
言われてみると、食卓に大きな鮨桶があるシーンは想像できる。
できるけれど、その場で見たものを再現できたわけではなくて、きっと色々な処からあつめた映像を組み合わせた空想だと思われる。
なぜなら、思い浮かべたシーンの家が現在の実家だからだ。
 
これまでに実家は3回引っ越しをしており、時代によって家の様相は異なるはず。
だから、鮨桶が置かれるべき食卓はいまの実家ではないはずなのに、中学生当時に住んでいた家の食卓が思い出せない。
 
暮らしてきた家々の内装は、ひとつの家を取っても時期ごとの模様替えで家具の配置パターンが幾通りも存在し、その断片だけが、もうこれ以上記憶に貯めておけないくらい散乱している。
断片だけでは詳細が微妙すぎて、悲しいことに脳内生成すると寸法のあいまいさが浮彫になる。
当時の身長や目線、身体容積が現在とは異なるので間取りの感覚が歪み、のりもの酔いに似た感覚に陥ってしまう。
当時の室内を現在の目線で見ているのであれば、それは100%想像だから。
 
写真を撮るのは大事だなと。
大トロの話もそうだが日常を繰り返す中で印象深かったはずなのに、するりと忘れてしまう事が増えている。
あの日の夕食を撮影しておけばよかった。
あんなに父が楽しそうに話すエピソードならばなおさら。
家族で楽しく過ごした夕食の記憶を全く覚えていないなんて悲しすぎる。
 
写真なんかより自分の目で見てこそ、撮影するより体験してこそだと考えていた時期もあったし、肉眼至上主義なところもあったけれど、積み重なる時間が長くなればなるほど、零れ落ちていく楽しかった経験が思い出せなくなっている。
 
嫌なことは覚えているのにな。
 
すべてを記録することは不可能だが、ふとした日常にある楽しい出来事を収めておかないと、タイムマシーンで過去に行くときはのりもの酔いに襲われることになるだろう。
酔い止め薬の常備必須。
昨日までの分はもう生成できないが、数年後の自分のために今日からの薬を生成しておこうと思う。
まずは手始めに、眼前の牛タン弁当にカメラを向けた。

【 T 】


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