見出し画像

私が本を読む理由

生家には書斎どころかまとまった本棚があったわけでもなかった。幼い頃から自発的に活字を吸収してきたわけでもなかった。読む速度も決して早いほうではなく、Twitterの読書アカウントの方々と比べたら読解力も月とスッポンである。

それでも13の時から訥々と読み続けている。きっかけは差し迫っていて、母親による作文代筆を断ち切り言語的に自立したかったからであった。

しかしそれ以上に、下を向いていても音のない声をかけてくれるのが本だった。内でも外でも存在を無視され続けてきた子供にとって、手に取り開きさえすれば語りかけてくれる「友達」と出会った。これほど心が開かせられることが他にあるだろうか。上を向くことを許されなかった人間にとって唯一の温もりであった。

もうひとつ、身体的な理由がある。

私の顔は図形的に間違っている。似顔絵でも「きれい」に描くのは苦心を要するであろう。笑顔も表情筋の痙攣にしか見えないため、誰かを前にして真正面を向くことは羞恥を上回る申し訳なさで身が引き裂かれそうになる。それでも、ひとり俯いて本を読む姿勢だけはこの外見が取りうる「美しさの形」のぎりぎり及第点を自分に許すことができるのである。紙の束の前ならばいびつな表情も臆することなく動かすことができる。

なお上段で「図形的」と書いているのは、人の顔を見た時に感情判断よりも図面変換が先立つためである。出会い頭に感知した調和や不整合について数学の証明問題のように、そうたらしめている箇所はどこなのかを具体的に突き止めるほうに頭が回る癖が自分にはある。親族の大多数が美形であったため、参照できる均整美のデータもたくさん記憶されている。それらを精神的自傷に向かわせないためにも読書が有効なのである。

とはいうものの逆にもし「美女」として生まれてきたとしたら今度は不特定多数から発せられる欲望の眼差しを遮断する時間を作るために読書を必要とするような気がする。マリリン・モンローは読書家でもあった。

いずれにせよ写真ですら誰の顔も見る気が起きず空を見上げることすらできないときには、視線を落とし活字を活字のまま追うことが私を宿命という制約から一時的に解放してくれることには違いない。