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人生は老いてからの方が長いというのに、なぜみんな先の自分に呪いをかけるようなことをするのだろう?

26、7歳の頃だろうか。なんだか今よりも老けているし、今と変わらずすっとぼけた顔をしている。人からいただいた写真集に影響を受け、フィルムの余りで自分を撮影した。本当にこの人は、どこからどう見てもふつうの女だな。毎日生まれてこの方被っている、この女の顔。(不快なコメントがあったため画像差し替えました。が、気がすんだので戻します)

緊急事態宣言が延長になり、あまりにも暇なので写真のデータを整理していたら、自分を撮った写真が何枚か出てきた。昨年で30歳になったわけだが、「一体どういう御了見?」と首をかしげたくなるような偏見込みの軽口を、さもありなんといった様子で叩かれる機会も出てきたように思う。そんな無神経なことを言える人たちに何を言われても気にする必要はないのだが、なんというかその度、「でもマジョリティってこういう人たちの集合体なんだよな…」などとしみじみ思わされるのである(必ずしも自分がマイノリティであるとは考えない)。

仕事の案件が詰まるときもこういう「さもありなん顔」の人たちによって思いもよらぬタイミングでストップがかけられることが、周囲を見ていても多いようだ。まあ人間の思考や思想なんてそれぞれなのだし、どうしようもないことが多いけれど、そこに「人それぞれだからきちんと理解し合おう」という愛情というか、本質的な意味での他人への関心がないことに虚無感すら感じる。ネオ右翼。ネオ右翼…

想像力の欠如。

ずっとずっと昔から悲しんでいること。もちろん私も人を傷つけながら生きているんだとは思うんだけれど、周りにいる人のことはある程度理解し、許容してやりたいと思う。それは当然、自分がそうしてほしいと思うように(果たして、そういうものをエゴというのかもしれない)。
 
でも人間社会で生きる上では、人はある程度ニブチンの方が生きやすいのである。そして歳を取り、抱えるものが増えるほど人は鈍くなっていくように見える(そうでない人は生きづらそうだが、その上でも魅力的に見える)。

人生は老いてからの方が長いというのに、なぜみんな先の自分に呪いをかけるようなことをするのだろう? 自分のことは綺麗だともブスだとも思わないけど、元々そうでもないから多少劣化したところでまあそんなもんだよなという感じもする。身体的な変化についてはまだ予測しかできないので割愛。さりとて「年齢なんてただの数字よ」なんてすっきり割り切ることもできないけれど、目尻にできた笑い皺や、友人のこめかみに見つけた小さなシミは愛おしく思えるものだ。「わお、私たち一緒に、しっかりと歳を重ねちゃったのね、」と。若さもいいけれど(そりゃあもうとっても愛おしくて可愛いけれど)、充分に享受しきれないうちに体験するそれらの変化は、存外素敵なものである。

物事を冷静に振り返ってみると、混乱しているのは周囲であって、自分ではなかった、ということも多い。事象とアイデンティティを切り離すことが大切。”外”の混乱を”内”に持ち込まないことが大切。と、自分に言い聞かせながら。

呪い、そして自身のポートレート。

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